第12話 空飛ぶ魔女の航空会社


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 フェリクスを追ってルーカへ向かってから一ヶ月あまり。アルメア東海岸における航空機産業の中心地であるトルジア市街は変わり果てた姿となっていた。ギルモットの機上からでも見て取れる破壊と火災の爪痕。シャイア軍の空襲によるものだろう。港湾機能と工場地帯を中心に、住宅地にまで被害が出ていた。

「ここまでとはな……」

 ルーシャからアルメアへの帰路の途中、給油のため旧ユーシア王国領に立ち寄った。その際に『眠れる獅子』のメンバーから情報を得ていたが、想像以上だった。

 緒戦における展開の遅さから準備不足も噂されたシャイア軍だったが、海上決戦で大勝利を収めたことで形勢は一気にシャイア軍の優勢へ傾いた。シャイア艦隊の新鋭空母から発進した航空部隊による爆撃と雷撃で、北央海に展開するアルメア軍の空母と戦艦はそのほとんどが大破もしくは撃沈されたのだという。

 北央海の制海権を手にしたシャイアは、そのまま南央海と行き来するためのリーリング海峡を押さえ、アヴァルカ半島への上陸を果たした。半島の東端に位置するイーストファー基地はシャイア軍に奪われ、現在は敵の前進基地になっているという。

 対するアルメア軍は残存する海上戦力の各個撃破を避けるために艦隊の集結と再編成を迫られることになった。その結果、防備が手薄になった東海岸の主要な工業都市はシャイア軍による艦砲射撃と空爆を受けていた。独立戦争以来となる本土への攻撃を受けて、アルメアの議会と世論は大きく揺れているのだという。

「ヴェルヌ社は無事なのか?」

「港湾地区は特に被害が大きい。工場も……焼けちまったようだな」

 トルジアは、ユベールが会社の立ち上げ当初に拠点を置いた街でもある。当初はヴェルヌ社の一角に間借りして、新造されたペトレールを駆ってヴィヴィと一緒にアルメア各地を飛び回った、いわば第二の故郷だった。幾度となく見晴らした、見慣れた風景の変わり果てた有様に唇を噛む。戦争をするというのはこういうことだ。

「これからどうする?」

「ああ、そうだな……」

 あえて感情をこめない、淡々としたフェルの問いかけに気持ちを切り替える。すでに祖国ルーシャでは首都メルフラード奪還作戦が進んでいる頃合いだが、彼女は自らが成すべきことに集中している。ユベールもそれに習うべきだった。

「予定通り、エルム湖のほとりにある第二工場へ飛ぶ」

「了解した。進路はこのまま維持、風の影響はほとんどない」

 内陸へ向けて巡航速度で飛ぶと、一時間もかからずに湖が見えてくる。エルム湖だ。冬の北央海は荒れやすく、水上機の建造には向かないため、ヴェルヌ社の第二工場がここにある。訪れるのは久しぶりだが、最後に見たのと変わらない風景がそこにあった。ほっとした気分で、工場に併設された滑走路へ機体を寄せていく。

「南東からの微風。北側からのアプローチで問題ない」

「了解。こいつに乗るのもこれが最後だ。完璧にやろう」

 フロート機としてトルジアを飛び立ったギルモットだったが、スキーに履き替え、ランディングギアに換装し、陸上機として生まれ故郷へ戻ってきた形になる。機を見ては整備を施してきたが、過酷な環境で受けたダメージは小さくない。ここまで無事に飛び続けてくれたことへの感謝と、名残惜しさの念を抱く。

「そういえば、フェル。新しい機体の名前は考えたのか?」

「すまない、まだ考えていない」

「アルメアを発ってから、ずっと忙しかったからな。気にしなくていい」

「そもそも機体は完成しているのか?」

「白紙からの開発ってわけじゃないからな。ペトレールの量産型とも呼べるヴェルヌ社の中型飛行艇シーガルをベースに、お前の要望に合わせた諸々の装備を追加。予定通りなら――ルインが余計な真似をしてなければだが――もう完成してるはずだ」

 アウステラ連邦で知り合ったルインは、有能だが変わり者の技術者だ。フェリクスなら上手く手綱を握ってくれるだろうと期待して送り出したが、我ながら見切り発車だった感は否めない。いまさらだが、変に話がこじれていないことを祈る。

「まあ、降りてみれば分かることだ。行くぞ」

「了解した」

 エルム湖は谷間にできた自然湖だ。滑水に適した細長い湖面と、年間を通じて風の影響を受けにくいという特性を持っている。水上機の開発にはもってこいの地形であり、水上機の開発で定評のあるヴェルヌ社の歴史はここから始まっている。トルジアに移転する前は、現在の第二工場こそがヴェルヌ社の本社工場だったのだ。

 谷間に響くエンジン音を聞きつけた人影が工場から顔を出し、手でひさしを作って空を見上げる。併設された滑走路に降り立ったその機体が、自社の所有するギルモットの変わり果てた姿であることに気付くと、苦笑しながら歩み寄ってきた。現場を取り仕切るベテラン、おやっさんことトラヴィスだった。

「断りもなしに降りてくるとはどこのどいつかと思えば、ギルモットのなれの果てときやがる。よく戻ったな、ユベール。フロートはどこに落としてきた?」

「マナルナ聖教国、パング湖のほとりに。白い神ファルナの聖遺物になったよ」

「ああ? どういうこった」

「まあ、遠くまで行ってきたってことだよ」

「なんだそりゃ……ともかく、よく帰ったな。お疲れさん」

 フェルと一緒に機体を降りると、フェリクスも顔を見せる。

「おかえり、ユベール。それにフェル君。元気にしていたかい?」

「そっちこそ、しぶとく生きてるじゃないか」

「ただいま、フェリクス」

 挨拶を交わすと、フェリクスは不意に黙りこむ。そして、しばらく二人の立ち姿をしげしげと眺めた後、目を細めて悪戯っぽくこう言った。

「二人とも、いい顔になった。関係に進展はあったかい?」

「なっ……このじじいは何を言い出すかと思えば……」

「気になるなら後で教えてあげよう、フェリクス」

「うん、楽しみにしておこう。いい紅茶が手に入ったんだ」

 不意打ちに動揺するユベールを余所に、フェルは涼しい顔だった。そんな彼女を孫を見つめるような視線で見ていたフェリクスが、不意に引き締まった表情となる。

「さて、君たちが気になっているのは作業の進捗状況だろう。安心したまえ。君たちの駆る新たな機体は、完成まで最後の作業を残すのみとなっている。しかし、これが中々の難題でね。その解決のため、君たちの帰還を待っていたんだ」

「問題があるのか?」

「あるとも。これを抜きにして機体が完成することは決してない」

 もったいをつけたフェリクスの言いように、少しだけ腹が立つ。

「はっきり言ってくれ。必要なものなら、俺たちが何とかして入手する」

「……ああ、なるほど」

 合点した様子のフェルが、フェリクスと示し合わせたように微笑み合う。

「おや、フェル君は気付いたようだ。ユベールはまだ分からないかね?」

「さっき話したばかりだろう、ユベール」

 そこまで言われて、ようやく気付く。

「……ああ、なんだ。何かと思えば、そんなことか」

 ここ最近は厄介な仕事ばかりだったので、どんな難題かとつい身構えてしまった。大きく息を吸いこんで、盛大にため息をつかせてもらう。

「つまり、名付けさえ済めばいつでも飛び立てるってわけだな。ありがとう、フェリクス。よくこの短期間で機体を仕上げてくれたよ」

「その言葉は実機を確認してから受け取ろう。さあ、中へ入ってくれ」

 ヴェルヌ社の第二工場はやや手狭ではあるが、設備はきちんと最新のものへと更新されている。木造飛行艇の建造には、材木の特性を捉える目利きと、その特性を活かす職人の業が入りこむ余地がある。大量生産品ではなく、一品ものの工芸品を造り上げるようなやり方を続けているのがヴェルヌ社というメーカーなのだ。



 夜明けの白雪――そんな印象を受けた。

 踏み跡ひとつ、オイル一滴の汚れもない純白の飛行艇がそこにある。

 全体的なシルエットはペトレールを踏襲し、パラソル式に持ち上げた主翼中央にエンジンを搭載。空冷V型十二気筒エンジンの出力は千二百馬力まで向上している。両翼のフロートと後部機銃は廃止、代わりに艇体の側面に分厚く短い翼のような形状のスポンソンが張り出している。喫水下の艇体と主翼下面はブラックに塗装され、つややかな黒と対比する形で機体の白さをより際立たせていた。

「ヴェルヌ社製、新型水陸両用木製飛行艇。全幅二十三メートル、全長十五メートル、全高四メートル。空重量四千五百キログラム、最大離陸重量八千キログラム。最高速度と高度限界は未計測ですが、それぞれ時速三百キロメートル、高度八千メートルは行けると計算しています。乗員は操縦士と航法士の二名。ご要望の通り、前席と後席のそれぞれに操縦装置を付け、後席には観測用の装備もあります」

 カタログスペックを早口に読み上げたのはルイン・ジュードロウ、アウステラ連邦で出会った航空機エンジニアだった。お気に入りのおもちゃを自慢するかのような彼の様子に思わず苦笑が漏れ、かえって落ち着いて新しい機体を観察できた。

「試験飛行は……俺たちが戻るを待っててくれたのか。ヴィヴィは? あいつなら何かと理由をつけて乗りたがったんじゃないか?」

 ユベールの疑問にはフェリクスが答える。

「あの子なら今頃はカーライル社の新型機に夢中だよ。電話で話した感じだと、ずいぶん開発を急かされているようだから、今はそっとしておくのがいいかと思ってね。それに、この機体はユベールとフェル君のためにある機体なのだから、初飛行はやはり君たちの手で行うべきだ。そうだろう?」

「当然です。操縦士のユベールさんはともかく、航法士のフェルさんが搭乗することで全性能を発揮する機体ですからね。さあ、すぐにでも始めましょう」

 興奮した様子でまくしたてるルインとの間に、フェリクスが割って入る。

「待ちたまえ、ルイン君。ユベールとは話し合うべきことが山積みだし、フェル君は長旅で疲れているはずだ。機体の性能に関する有用で正確なデータを得るためにも、二人には休息を取ってもらう必要がある。同意してもらえるね?」

 やんわりと、しかし有無を言わさぬ口調でフェリクスが言った。

「ううん……確かにおっしゃる通りですね。仕方ありません、試験飛行は明日からにしましょう。ユベールさんもそれで構いませんか?」

 どうか反論して欲しい、という気持ちの滲んだ口調に苦笑する。

「もちろん。北央海横断飛行の後で、流石にくたくただよ」

 旧ユーシア王国領とアルメア連州国の間に横たわる北央海は、目下のところ制海権をシャイア軍に握られている。遊弋する軍艦に見つからないよう何度も進路を変えながらの長時間飛行は、重い疲労感となって肩にのしかかっていた。本音を言えば、すぐにでも柔らかいベッドに倒れこみたい気分だった。

「ユベール」

 疲れているのはフェルも同じだろうが、彼女はじっと機体を見つめていた。

「後席に座ってみたい。少しだけでいいんだ」

「それくらい構わないさ。俺だって操縦桿を握ってみたい」

 彼女の気持ちはよく理解できたので、快諾する。機体の横に張り出したスポンソンは着陸脚の収納、艇体の浮力確保に加えて、乗降時の足場にも使える頑丈な造りとなっていた。その上に立ってキャノピーを開き、二人で機体に乗りこんでキャノピーを閉じる。開発期間の問題もあって前席にはほとんど手を加えていないが、後席は練習機のように前席と連動する操縦装置一式が据え付けられ、足下はガラス製で下方の視界を確保、照準器やカメラも搭載できるようになっている。

「ユベール、舵を動かしてみてくれ」

 伝声管からフェルの声が聞こえてくる。

「了解だ」

 エルロン、エレベータ、ラダー。それぞれの舵を動かすと、ペトレールのそれよりも重い手応えを感じた。操縦装置を後席と連動させたためだ。こうして地上にいれば、後席のフェルが操縦桿やフットペダルにかけた力を感じ取ることもできる。

「どうだ?」

 ユベールの短い問いかけに、自信に満ちた返答が返ってくる。

「問題ない。これなら、空を感じ取れるだろう」

「了解だ。明日から実地で試してみよう」

 キャノピーを開け、固唾を飲んで見守っていた工場の面々に親指を立ててみせる。その途端、歓声が沸き上がった。フェリクスが傍らにいたルインに握手を求め、ルインは戸惑った様子でそれに応じている。人々が喜ぶのを見ているとこちらまで嬉しくなってきて、フェルと顔を見合わせて笑みを交わす。

「……おい、誰だ。ここは私有地だぞ!」

 険のある銅鑼声を張り上げたのはトラヴィスだった。声の方向に視線を向けると、格納庫の扉付近に立つ二人の男と、その前に立ち塞がるトラヴィスの姿があった。

「我々はアルメア政府の者です。フェリクス・ヴェルヌ氏はどちらに?」

 政府職員を名乗るスーツ姿の黒人が前に進み出て呼びかける。場違いな肩書きに工員たちが互いに顔を見合わせ、悠然と歩み出るフェリクスを見守る。

「僕がフェリクスだ。ヴェルヌ社へようこそ、歓迎するよ」

「初めまして、ジョン・ルメアです。こちらはイルハン・ドット氏」

 ジョンと名乗った黒人が、傍らに立つ背の高い男を紹介する。紹介されたイルハンは、計算高そうな微笑みを浮かべて黙っている。二人とも名前以外の情報は口にせず、場所を移したがっている素振りを察したフェリクスが奥の応接室へと誘う。

「ユベール、フェル君。君たちも来るといい。構わないだろう、ミスター?」

 フェリクスが水を向けると、イルハンが肩をすくめ、それを見たジョンが黙ってうなずく。どうやらイルハンの方に行動の主導権があるらしい。色の薄い金髪に、遠くまで見通すようなグレーの瞳。アルメア人では見ないタイプだ。

 興味津々の工員たちをトラヴィスが追い散らし、応接室に落ち着く。フェリクスがブランデーを勧めると、ジョンは断り、イルハンはにっこりと笑って所望した。ユベールも相伴に預かることにする。フェルには冷えたコーラが出された。

 フェリクスは総じて酒の趣味がよく、彼の勧める銘柄にまず外れはない。ボトルから注ぐと甘く華やかな香りが立ち上がり、口に含めばフルーティさを感じると同時にスパイシーで力強いボディを感じさせる、複雑な口当たりを楽しめる。

『悪くない』

 誰かに聞かせるつもりはなかったのだろう、ルーシャ語のつぶやき。イルハンの対面に座るユベールには、口の動きでそれが読み取れた。フェルに視線を向けると、彼女は黙ってうなずいた。どうやら彼は立場のあるルーシャ人らしい。

「改めて、自己紹介をさせていただきます。私はアルメア陸軍情報局のジョン・ルメア大尉です。本日は重大な外交機密に関する件でこちらを訪問いたしました」

 アルメア陸軍情報局は主に防諜を担当する機関で、その内実はほとんど明らかになっていない。もちろん内部の人間と会うのは初めてで、場に緊張が走る。

「そしてこちらは……」

 続けてイルハンを紹介しようとしたジョンの言葉を、フェルが遮る。

『旧ルーシャ帝国外務省アルメア大使、イルハン・ドット。お久しぶりですね』

 イルハンはフェルの言葉に動じることもなく、如才ない笑みで応じる。

「私などの顔を憶えていらしたとは恐縮です、陛下……いえ、今はフェル・ヴェルヌさんと名乗られているのでしたね。恐れながら、どのようにお呼びすれば?」

「好きにすればいい。皇帝位はすでに返上した」

「伺っております。私も祖国をシャイアに蹂躙されて以来、異国で無聊を託っておりましたが、この度はルーシャ共和国のアルメア大使を拝命いたしました」

「では、ウルリッカは?」

「奪還された首都メルフラードにて共和国の樹立、並びに初代大統領への就任を宣言。同時にシャイア帝国への宣戦布告、連合各国への同盟の呼びかけを行っております。なお、貴方は皇帝を退位したことにより、暫定的に共和国の国民というお立場になられました。誠に勝手ながら、ご承知おきくださいますようお願い申し上げます」

「それは構わないが、そんなことを伝えに来たわけではないのだろう?」

「ご明察です。とは言っても、私自身は単なる立会人に過ぎません。詳細はこちらのルメア氏から話していただくことにしましょう」

 イルハンの言葉は、これからジョンの話す内容がアルメア政府とルーシャ政府の双方が承知の内容だということを示している。同盟に向けた条約の準備で忙殺されているだろうこのタイミングで、肩書きとしては一般人に過ぎないフェルが戻ってきたタイミングを見計らって訪れてきたのだ。どんな内容か、思わず身構える。

「腹芸に時間を費やすつもりはありません。率直に申し上げましょう」

 ユベールとフェルの顔を順に見渡して、ジョンが切り出す。

「来たる反攻作戦に向けて、アルメア政府よりトゥール・ヴェルヌ航空会社へ正式に作戦協力の依頼をしたいと考えております。困難かつ危険な仕事となることが予想されますが、どうか話を聞いた上でご検討いただけないでしょうか」


2


 アルメア政府からトゥール・ヴェルヌ航空会社への依頼。その内容がシャイア軍に対する反攻作戦への協力となれば、彼らは相当な確度でフェルの正体と能力について把握しているものと考えられた。迂闊な返事はできないとばかりに黙りこむユベールとフェルを見て、生真面目な表情でジョンがうなずく。

「お二人が警戒なさるのは当然です。しかし、残念ながら腹の探り合いに費やしている時間はない。我々は命令や取引ではなく、あくまで貴方たちへの依頼に来たのだということをご承知おきください。その証を立てる意味でも、こちらの知り得た情報は今から全て開示させていただきます。それらを踏まえた上で、我々の依頼を受けるかどうかを判断していただきたいのです。ここまではよろしいですか?」

 先の決戦で北央海における海上戦力の大半を失ったアルメア軍に取れる選択肢は多くない。使えるものなら神の奇跡や魔女の力にもすがりたいのだろう。

「知ったら後戻りできない、という類の話じゃないだろうな?」

 ユベールの確認にジョンがうなずく。

「もちろんです。我々としては、依頼を請けていただけると信じておりますが」

 フェルはイルハンに質問を投げた。

「ルーシャ共和国の立場を確認しておきたい」

「私は対アルメア外交における全権を大統領より委任されて、この場にいます。アルメア軍への協力は大統領の希望、もしくは要請と捉えていただいて構いません」

 フェルと顔を見合わせ、うなずき交わす。

「了解した。わたしは問題ないと思う」

「ああ、話を聞こう」

「ありがとうございます。では、現在の戦況についての共有から始めましょう」

 ブリーフケースから取り出した世界地図を使って、ジョンが説明を始める。

「先にイルハン殿がおっしゃった通り、ルーシャではすでに首都奪回作戦が成功し、共和国の建国宣言が成されています。この作戦の初期段階において、フェルさん、貴方の用いた魔法が多大な戦果を挙げたとの情報を得ています」

 ジョンの語る内容は事実だ。ウルリッカの依頼を受け、フェルは魔法を行使した。メルフラードには多数の市民が残っていたので直接的な破壊は避け、視界を遮るほどの大吹雪でシャイア軍の機動力と連絡手段を根こそぎ奪ったのだ。その後、吹雪に身を隠して接近した正統ルーシャ軍の本隊が総攻撃をかけ、最小限の破壊で一気に敵司令部を制圧するというのが首都奪回作戦の概要だった。

 しかし、正統ルーシャ軍の攻撃に合わせるかのような猛吹雪がフェルの魔法による現象だという事実は、ウルリッカを始めとするルーシャ共和国の上層部しか知らない情報だ。それがこの短期間でアルメア政府側に伝わっているということは、ルーシャ側からの情報提供があったことを示唆している。

 イルハンによれば、樹立したばかりのルーシャ共和国政府はアルメアを始めとする連合各国との同盟を画策している。そのための手土産として冬枯れの魔女に関する情報の開示が行われたとすれば、ユベールとフェルがアルメアに戻ってきたタイミングを見計らったような訪問にも説明がつく。

「ベルネスカ、カザンスクに続いてメルフラードも失った結果、ルーシャ国内のシャイア軍は残された最後の要衝である、国境のブリエスト要塞に集結しつつあります。敗残兵の間では冬枯れの魔女の再来が囁かれ、脱走兵も後を絶たない状況では反攻もままならないでしょう。後背を脅かされたシャイアはアルメア戦線から部隊を引き抜いて増援に充てることを強いられ、こちらとしては一息つけた格好です」

「だが、時間が経てばフェルがルーシャにいないことはバレる。その時までに戦力を立て直せなければ挽回の機会はなくなる。補充の当てはあるのか?」

 ユベールの問いに、ジョンが渋い顔をする。

「知っての通り、北央海のアルメア海軍は壊滅的な打撃を受けました。他の戦線から引き抜こうにも、南央海や太極洋の艦隊が北央海艦隊と合流するにはリーリング海峡を突破する必要があり、とても現実的とは言えません」

 リーリング海峡は北央海と南央海を隔てる海峡で、冬の北央海に出入りするために避けては通れない難所だ。幅はもっとも狭い箇所で百キロに満たず、水深も浅いために通過できる船のサイズを制限する要因にもなっている。現在、この海峡はシャイア海軍の勢力下にあり、アルメア国籍の船は通過できない状況にある。

 軍艦も例外ではなく、限られた航路を縦列で進むしかないため、攻撃にさらされたとしても回避や反撃の手段は限られる。先頭の艦が水深の浅い場所で座礁しようものなら、後続の全艦が立ち往生する羽目になりかねないのだ。よってリーリング海峡を挟む両岸、アルメア側のアヴァルカ半島とシャイア側のエンロン半島を押さえた国家は、敵国の戦力と物資の輸送を一方的に制限できるのだ。

「アヴァルカ半島における最重要拠点であるイーストファー基地は現在、敵の前進基地となっています。まず基地を取り戻さなければリーリング海峡の奪還も困難です。一方、シャイア側もアヴァルカ半島の悪路と伸びきった補給線のため、アルメア本土へのさらなる侵攻が困難な状況に置かれていると考えられます」

「大まかな戦況は分かった。で、俺たちに何をさせたい?」

 説明を続けるジョンに質問を投げる。彼は話の腰を折られたことに腹を立てるでもなく、陸軍情報局の人間らしく淡々と続ける。

「我々はリーリング海峡に敵戦力を誘引し、身動きが取れなくなったところに攻撃をかける作戦を立てています。いわゆる金床戦術です」

「金床戦術?」

 知らない単語に首をかしげるフェルに説明してやる。

「防御に優れた部隊が敵を引きつけて持ちこたえている間に、機動力と攻撃力に優れた部隊が側面や後方に回りこみ、挟撃や包囲攻撃をかける古典的な戦術だ。本来は陸戦で行うもんで、海戦でやるのはあまり聞いたことがないけどな」

 元々はファランクスと騎兵を組み合わせる古代の戦術だ。これを海戦に置き換えようとしても、現代の艦船は必ずしも速度と攻撃力を両立し得ないし、歩兵と騎兵のような隔絶した速度差は望めないため、上手くいかないのだ。

「問題はそれだけじゃない。俺たちはあくまで民間の航空会社だ。いくら戦争とはいえ、人殺しは業務範囲外だ。いくら頼まれてもそれだけは請け負わないぞ」

「ユベール……」

 偽善かも知れないが、譲れない一線だった。フェルはきっと、それがどうしても必要なことだと納得すれば人の命を奪うことにも躊躇しない。だからこそ、最後の手段を選ばずに済むような道を見つけるのがユベールの仕事だ。

 拒絶の言葉にどう反応するか。予想に反して、ジョンはあっさりうなずいた。

「ええ。我々が望むのは敵艦の乗組員への攻撃ではなく、あくまで艦船への攻撃です。北央海に展開する敵艦の機動力を奪うのがこの作戦の目的となります」

「要するに、君はこう言いたいわけだ」

 黙って話を聞いていたフェリクスが口を挟む。

「リーリング海峡を封鎖するから、動ける敵艦の脚を残らず潰して欲しい、と」

「その通りです。流石はヴェルヌ氏ですね」

「脚……つまりスクリューか」

 帆と櫂で海を渡る時代はとうに終わり、現代の艦船はスクリュー推進が主流だ。船体にダメージがなくとも、推進器を失った艦船は戦闘も航海もまともにできなくなる。ドックのある港まで回航して修理するとなると、数ヶ月単位の時間を要する。その時間はアルメア海軍を立て直すための貴重な時間となるだろう。

「可能でしょうか?」

 ジョンがそう問うと、視線が集まったことに気付いたフェルが短く答える。

「可能だ」

「分かりました。これで前提条件は整いました。では成功時の報酬についてお話しておきましょう。まず金銭面では、最低でもこの額を考えております」

 提示されたのは、新造機のために借り入れた金を返済して余りある額だった。

「依頼の達成度、つまりスクリューを破壊した敵艦の数に応じて報酬が積み増されるものと考えていただいて結構です。時に、お二人は結婚なさる予定があるとか」

「……その話は、今ここで話すべきことなのか?」

 表情も変えずに予想外の話題を振られて、反応が遅れる。

「はい、次の報酬に関係してきます」

「どういうことだ?」

 平然とした様子のフェルに向かって、ジョンがうなずく。

「ユベール氏はアルメア国籍を取得したアルメア人です。そのユベール氏と結婚すれば、フェルリーヤさん、貴方もアルメア国籍を取得できます」

「もちろんアルメア国籍を得たからといってルーシャ国籍を失うわけではありません。両国とも、二重国籍を禁止する法律はありませんのでご安心ください」

 イルハンの補足に軽くうなずいたフェルが、ジョンに先を促す。

「アルメア国籍を得るメリットは大きくふたつあります。ひとつは、アルメア国民が享受する各種の保障や保護を受けられること。もうひとつは、特殊な力を持つ貴方の後ろ盾として、アルメア政府がお力添えできるようになることです」

「迂遠な物言いは嫌いだな。フェルの力が欲しいと素直に言ったらどうだ?」

 ユベールの言葉にも、ジョンは表情を動かさない。

「アルメア政府としては可能な限りフェルリーヤさんの自由意志を尊重したいと考えています。もう少し踏みこんだ言い方をするなら、戦争の火種となるような行為だけは控えていただきたいということです。その線さえ守っていただけるなら、アルメア連州国政府はフェルリーヤさんを狙う諸外国の干渉から貴方たちを守ります」

 ジョンの言葉にイルハンも続ける。

「我がルーシャ共和国政府も同様の考えです。すでにメルフラード攻略において力を借りてしまった立場で言えることではありませんが、我々は終戦後の国家運営において魔法の力を計算に入れようとは考えておりません。貴方たちの行動の自由を保障する対価として、特定の国家に肩入れしないとだけ約束していただきたいのです」

「……それは」

 思ってもみなかった言葉に、フェルと顔を見合わせる。アルメアとルーシャが後ろ盾につくなら、同盟国も含めれば世界中ほとんどの国で自由に動ける。彼女に危害を加えたり、その力を手中に収めようとすれば諸国家を敵に回すことになるのだ。

「……アルメアは、わたしたちを一度は裏切った」

 慎重に話し始めたフェルに、全員が注目する。

「シャイアとの緊張が高まる中、アルメアは議会の決定によって手を引き、それがシャイアに誤ったメッセージを与えた。その結果、ルーシャは侵略された」

 フェルの言葉は一面の真実だ。当時のアルメア議会はルーシャとシャイアの開戦によってなし崩しにシャイアとの全面戦争に入ることを嫌って、各種の支援を一方的に打ち切った。その結果、ルーシャは独力でシャイアと戦うことになったのだ。

 ジョンとイルハンは誠実に話しているように見えるが、それはアルメアとルーシャという国家が誠実であることを意味しない。彼らも知らないところで、フェルを利用し、抹殺しようとする企みが動いていないという保証はどこにもないのだから。

 誰にともなく、半ば自問するようにフェルが問いかける。

「同じことにならない保証はあるのか?」

 場に沈黙が落ちた。しばしの間を置いて、ジョンがその沈黙を破る。

「ありません。そのような保証は大統領であってもできないでしょう」

 一気に緊張が走り、続く言葉を皆が待ち受ける。

「ですが、ふたつの理由によって可能性は小さいと言えます。ひとつはフェルリーヤさん、貴方自身の成長です。貴方の魔法はより強力になり、適切に状況を判断し、決定を下せる精神性も身につけられた。今の貴方を洗脳して強制的に従わせる、あるいは将来的な危険を排除するために抹殺するのは失敗したときのリスクが大きい」

 洗脳、抹殺。穏やかではない言葉に空気が張り詰める。

「もうひとつは、フェルリーヤさん、貴方も口にされた裏切りです。アルメアは戦うべき時に戦わなかった結果、味方を見殺しにした挙げ句、ここまで追い詰められてしまった。あの時、アルメアがルーシャから手を引いたのは明確な誤りでした。ここに深く謝罪すると共に、二度と同じ過ちを繰り返さないことを神に誓います」

 頭を下げるジョン。フェルはゆっくりと瞬きして、大きく息を吐いた。

「……貴方を信じよう、ジョン」

 ジョンがうなずき、場にほっとした空気が流れる。

「ユベール。わたしはこの依頼、請けてもいいと思う」

「俺もだ。ここからは、細かい条件を詰めていこう」

 二人の言葉を聞いて、ここまで表情を崩さなかったジョンが小さくため息をつく。

「ありがとうございます。では、作戦の詳細についてお話しいたします」


3


 アルメアへの帰還から一週間。フェルリーヤ・ヴェールニェーバはアルメア海軍のサンシア級二番艦、戦艦カルニアのデッキにいた。隣にはユベール・ラ=トゥール。トゥール・ヴェルヌ航空会社の操縦士であり、彼女の頼れる相棒だ。

「レーダーに感あり。後方より大規模な敵航空部隊が接近中です」

 甲板上では乗組員たちが無駄のない動きで各自の役割を果たしている。伝令役を務める若い水兵に微笑んでやると、顔を赤らめて走り去ってしまった。

 巨大な戦艦が刻む航跡の先、敵機がいるという方向に目を向けても、今は雲ひとつない晴天があるばかり。しかし、もうまもなく敵機はやってくる。影が見える距離まで接近されれば、飛び立つどころではなくなってしまうだろう。

「怖くはないか?」

 フェルが問いかけると、相棒は苦笑いを返してきた。

「怖いよ。けど、お前を信じてる」

「わたしもだ、相棒」

 軽く拳を打ち合わせ、愛機へと向かう。

 ペトレール・ブランシェ。

 黒く塗られた喫水線下とツートンカラーを成す、まばゆい白の飛行艇。

 艇体には『白のカモメ』を意味する機名に加えて、トゥール・ヴェルヌ航空会社を表す『T.V.A.C.』の文字がある。目立ったオイル汚れもない優美な機体は、目にする度に思わず頬が緩んでしまって表情を引き締めるのが大変だった。

 胴体側部に設けられたスポンソンに足をかけて、コクピットに乗りこむ。同じく機体に乗りこんだユベールが合図を出すと、クレーンに吊られたペトレールが海面へと降ろされていく。ペトレールの離着艦が可能な空母は存在せず、また現在の北央海にアルメア国籍の空母が一隻もないがゆえの応急処置だ。

「フェル」

「分かっている」

 冬の北央海の波は荒い。それこそ、離水時に波にかぶられて転覆しかねないほどだ。だがフェルが搭乗するペトレールに限っては話が違ってくる。機体が海面に近づき、波頭が艇体を叩く感触が足下から伝わってくる。それを捉える。

 着水したペトレールを中心に、凪が訪れた。本来はあり得ない、鏡面のような海。眼前の奇跡に誰もが息を呑んで見守る中、ただ二人、フェルとユベールだけが淡々と発進手順を進めていく。エンジンが掛かり、正常値を示す計器に目を走らせ、徐々に加速する機体が風を捉え、飛び立とうとする揚力を操縦桿を通して感じる。

 船底が海を切り分ける音と感触が不意に失われ、低く一定した駆動音と風の音だけがコクピットに満ちる。ふと、人の声が聞こえた気がして横に目を向けると、戦艦カルニアを含めたアルメア北央海艦隊の乗組員たちがこちらに向かって手を振り、あるいは敬礼する姿が見えた。ユベールが翼を振ってそれに応える。

 さらに首を巡らせれば、後方には青空に混じる無数の煌めきが見えた。太陽光を反射するシャイア航空部隊の威容だった。眼下の海を進む艦隊――戦艦一隻、巡洋艦二隻、駆逐艦四隻が縦列を成している――を狙うのは航空部隊だけではなく、その背後には大規模な機動部隊が存在するはずだった。

 海峡まで約三百キロメートル。これ以上進めば敵の前進基地となったイーストファー基地からも迎撃機が飛んでくるので、作戦上の都合で別行動を取るしかない。強大な敵を前に、最高の状態で送り出してくれた彼らを信じるしかなかった。

「旋回してから高度を上げる。寄ってくる敵への対処は任せた」

「了解した」

 以前のペトレールより総重量は増えているが、それ以上にエンジン出力が上がっているので上昇はスムーズだった。シャイアの航空部隊より高く上がり、そのまますれ違う。雲ひとつない空では隠れようもなく、こちらの姿は相手からも丸見えだ。数十機から成る航空部隊から、二機編隊が分かれて突っこんでくる。

 敵の指揮官は空母を持たない艦隊というカモを前にして、たった一機の飛行艇に戦力を割くまでもないと判断したのだろう。攻撃を命じられた二機も、さっさと終わらせて本隊に合流しようという気分が飛び方から透けて見える。

「後方に二機ついた」

「どうする?」

 フェルの報告にも慌てることなく、ユベールが聞き返してくる。

「ちょうどいい、力試しといこう。ユベールはそのまま飛んでいてくれ」

「了解だ。適当にあしらってやれ」

 振り返って後方を確認する。ペトレールより身軽な戦闘機はみるみる距離を詰めてくる。放っておけば、十秒もかからず機関銃の射程に捉えられてしまうだろう。

 視線を前に戻し、後席に据え付けられた操縦桿を軽く握り直した。両足はラダーペダルの上だ。前席に座るユベールの操作に応じてエルロン、エレベータ、ラダーの三舵が空気の流れを変え、機体の姿勢を変化させる。地面も壁もない空では、まっすぐ進むだけでも絶えず舵を当てる必要がある。連動して動く操縦装置には確固たる人の意思が感じ取れる。そこにユベールがいるのだ。

 感覚を集中する。飛んでいる飛行機の中に自分がいるのではない。エンジンとプロペラが推力を生み、主翼が揚力を得る。三舵の操縦を通じて空気の流れを制御し、ペトレールと一体になって自分は空を飛んでいるのだという感覚を得る。全身で風を感じ取れたら、さらに広く、外へと意識を広げていく。ペトレールはもちろん、後方にいる二機の戦闘機を含めた広大な空を思い描き、その手触りを実感として捉える。


 空に触れ、かき混ぜる。


 効果は絶大だった。唐突に発生した乱気流に巻きこまれた二機編隊は姿勢を崩して接触しそうになり、慌てて回避行動を取る。速度を失った二機が編隊を組み直して追跡を再開するまでに、追い風を受けて進んだペトレールは距離を稼いでいた。

「すごいな。この追い風もか?」

 ユベールの感心したような声に、自然と口元が緩む。

「そうだ。慣れてくれば、速度と航続距離をもっと伸ばせるだろう」

 順風を受けて逃げるペトレールと、直進もままならない乱気流と強烈な向かい風に翻弄される戦闘機とでは多少の速度差など問題にもならない。追いつけないことを悟った二機編隊は身を翻し、味方の下へと戻っていった。

「あっさり諦めたな」

「母艦に無線で連絡を入れたんだろう。迎撃機が上がってくるから気を緩めるな」

 ユベールの言葉通りだった。高度を上げつつ航空部隊の飛来した方向へ進んでいくと、五分足らずで空母三隻を中核に多数の巡洋艦と駆逐艦で構成された機動艦隊を視認できた。ほぼ同時に、その上空に展開する迎撃機の群れを知覚する。

「まとわりつかれると厄介だな。フェル、この距離から行けるか?」

「問題ない。すでに射程に捉えている」

 敵艦隊とは水平距離で約十キロメートル離れている。この距離で有効な攻撃手段を持つ航空機は存在せず、艦砲射撃でも持ち出すしかない。だからこそ、迎撃機は別方向からの伏兵を警戒して積極的に攻撃を仕掛けてこないのだ。

 そこに付けいる隙がある。

 機体を通じて空に触れる要領で、空を介して海中まで知覚の手を広げる。探し物はすぐに見つかった。アルメア艦隊の各艦に搭載する前に、ひとつひとつ手で触れて設置した魔力のマーカーとでも呼ぶべきもののおかげだ。それによって、発見から掌握までの時間も短縮できる。わずか数秒で攻撃の準備は整った。

 この海域を通過したアルメア艦隊が密かに海中投下した置き土産。

 直径二百ミリメートル、全長十メートルの鋼鉄製ワイヤーが海中を走る。それを見ている者がいたなら、伝説のシーサーペントを想起したかも知れない。鋼鉄の海蛇はその身をくねらせ、時速七十キロを超える速度で海中を疾走する。

 手始めに狙うのは艦隊の前方に位置する駆逐艦や巡洋艦だ。魚雷と違って音も航跡も残さない海蛇を探知する手段はなく、狙いを付けた艦が回避行動を取る気配はなかった。ワイヤーは敵艦の後部に回りこみ、スクリューに絡みつく。

 数千トンの排水量を誇る戦闘艦を高速で推進するスクリューは巻きこんだ異物を細切れにしてしまうだけの力を持つが、人間の頭部より太い鋼線を巻きこむ想定などされているはずもない。ブレードがこすれ、ねじれ、破断する異音が海中に響く。ワイヤーは残骸と化したブレードに複雑に絡まり、ついには動きを止めてしまう。

 外部から加えられた力による強制的なスクリューの停止は、アルメア艦隊を追って全力運転中だった機関にも深刻なダメージを及ぼす。過剰負荷をかけられた主機は火を噴き、各艦は理由も判然としないままに推進力を喪失していった。

 艦隊の前衛を務める僚艦に起きた異変は、急激な速力の低下と航路のブレという形で後続の艦にも伝わった。衝突を防ぐために全艦が速度を落とし、左右に分かれて陣形を乱していく。主機の故障、あるいは潜水艦による攻撃という報告が無線で飛び、まだ無傷の駆逐艦が海中に潜む見えない敵に向かって爆雷投下を始める。

 しかし海中を高速かつ縦横無尽に泳ぎ回るワイヤーに対して爆雷はほとんど効力を発揮しない。仮に命中したところで千切れたワイヤーはふたつに分かれて泳ぎ始める上に、アルメア艦隊がばらまいたワイヤーの数は十や二十では利かないのだ。

 艦船に対してワイヤーが有効であることは実証された。漂流する前衛艦隊と左右に展開する駆逐艦に進路を塞がれて身動きの取れない空母が次の標的だ。機動艦隊の要である三隻に鋼の海蛇が殺到し、計十二本のスクリューを完全に破壊する。

 残った艦も含め、シャイアの機動部隊が完全に航行能力を失うまで五分もかからなかった。迎撃に上がった戦闘機部隊が、距離を取って旋回するペトレールの意図を掴みかね、艦隊を離れて攻撃に向かうべきかを判断できずにいる間に、守るべき艦隊は北央海に浮かぶ巨大なフロートの群れと化していた。


4


 機動部隊と付かず離れずの距離を保ち、空域に留まり続けること五分。二十隻から成る強大なシャイア艦隊がほぼ無力化されていた。一隻も沈没せず、武装や艦載機は健在でも、航行能力がなくては艦隊としての作戦行動など不可能だ。

 相手の敗因は、たった一機にできることなど高が知れていると侮ったことにある。一機で現れたのは囮が理由だと考え、存在しない本隊への警戒を続けた挙げ句、何が起きているのかを把握する暇もないほどの短時間で作戦遂行能力を丸ごと奪われる結果となったのだから、敵ながら同情してしまう。

「……完了だ。艦隊の足は全て潰した」

「よくやった。完璧な仕事だ、フェル」

「ありがとう」

 後席から伝声管を通じて届けられる声には、やはり力がない。大規模かつ連続での魔法の発動で彼女にかかる負担の重さが気がかりだった。

「戦果としては十分だ。疲労を感じるならここで切り上げても構わないぞ」

「……気遣ってくれているのか?」

「当然だろう。こっちは非武装で、お前だけが頼りなんだ」

「大丈夫だ。お前はわたしが守る。ユベールはこのまま操縦に集中してくれ」

「……分かった。変化や違和感があったらすぐに言えよ」

「了解した。最後までやりきろう」

 陣形を維持できなくなって漂流する艦隊と、倒すべき敵を見出せずに混乱する迎撃機隊を余所に、来た道を再び引き返す。アルメア艦隊はリーリング海峡への突撃を敢行している頃合いだ。海峡に近づけば航空部隊だけではなく、陸からの攻撃も受けることになる。彼らが任務を果たすため、援護する必要があった。

 シャイア艦隊も馬鹿ではない。瞬く間に機動部隊を壊滅に追いこんだ正体不明の攻撃が冬枯れの魔女の仕業だと気付き、味方の航空部隊やイーストファー基地に無線で連絡を取っている可能性もある。そうなれば、ペトレールが集中攻撃を受ける危険性が高まる。魔法の精密な操作には集中する必要があり、防御が甘くなったところを狙われれば為す術もなく撃墜されることも考えられた。

 思い切り体をひねって振り返れば、ヘッドレストとキャノピーの間にある隙間からフェルの姿を確認できる。目を閉じてシートに体重を預けているように見えるが、魔力の知覚による索敵は続けているのだろう。呼吸はやや浅く、無意識にか頭を動かし、目を閉じたまま何かを見ているようだった。

「戦況から考えて、アルメア艦隊に接触するまで敵影はないはずだ。監視はこっちでやるから、フェルは少し身体を休めておけ。お前が戦略の要なんだ」

「……分かった。そうさせてもらう」

 冬枯れの魔女として力を振るうフェルは、たった一機でどこにでも飛来し、機動艦隊ですら壊滅に追いこむ戦略兵器にも等しい存在となった。味方にすれば頼もしいことこの上ないが、敵から見れば悪夢そのものだろう。

 そして、そのような存在を完成させたのは、ある意味ではユベールだった。

 出会った当初、彼女は今ほど魔法を使いこなせてはいなかった。接触をキーとして、触れているものの魔力を根こそぎ吸い尽くし、物理的な破壊力へと変換する。その力は豊穣な土地を草木も生えない不毛の地へと変じ、飛行機に乗りながら使おうものなら機体を空中分解させ、乗員の命を吸い尽くすような危険な代物だった。

 彼女の魔法の変質、あるいは進化に気付いたのは、ブレイズランドでの一件がきっかけだった。火山の噴火から島民を逃がすため、フェルは文字通り海を割って避難路を作ってみせた。それだけの奇跡を長時間に渡って行使したのだから、島は不毛の地となってもおかしくなかったが、そうはならなかったのだ。

 後から聞いた話では島の植生に目立った変化はなく、噴火が収まった後に島へ戻った島民たちは元通りの生活を営んでいるとのことだった。年齢による成長、あるいは繰り返し魔法を行使した結果としての熟練。理由は色々と考えられたが、いずれにせよフェルの魔法は時が経つに連れてより効率のいいものになっていった。

 今になって思えば、サウティカを訪れた際にフェルが話した、ウルリッカとの旅の話にも疑問を持つべきだった。触れたものから魔力を引き出すという理屈を、自分は使えない力だからと『そういうもの』として受け入れてしまった。柔軟な頭と言えば聞こえはいいが、あれは考えることを放棄しただけだった。

 そもそも、接触とはどのような条件や状態を意味するのか。

 魔法の効果とその代償としての不毛化現象は、フェルが直に触れていない広範囲に渡って影響を及ぼしている。どこまでが魔法の対象となり、どこからが対象外となるのか。その境界条件を突き詰めていけば、彼女が持つ力の本質、その至るべき場所を前もって予測できていただろう。

 フェルリーヤ・ヴェールニェーバは聡明な女性だ。まだ若いながらも責任感が強く、自らの力量を冷静に把握し、成すべきことを成そうとする善良な人物だ。多くの人間が命を散らす戦争を止められるのならば、彼女は自らの手を汚してでもそれをやろうとする。ユベールとの旅が、彼女をそのような人間へと成長させたのだ。

 それを誇らしく思うと同時に、彼女に対する責任も強く感じる。彼女はきっと自らが成したことへの責任を手放そうとはしないだろうから、ユベールはせめてその歩みの助けとなることを自らに課していた。

「フェル、起きてるか?」

 そろそろ先行するアルメア艦隊に追いつく頃合いだ。後席に呼びかけると、やや間が空いてから返事があった。

「……おはよう、ユベール。よく眠れたよ」

「本当に寝てたのか?」

「冗談だ。だが、眠っても大丈夫だと思えるくらい、安心していた」

「それは何よりだ」

 眼下には大破したアルメアの駆逐艦。すでに船体は大きく傾斜し、沈没は免れないだろう。ボートで必死に脱出を図る彼らにしてやれることはない。そのまま上空を通過し、まだ健在な味方の援護に向かうことを彼らも望んでいるだろう。

「見えた。黒煙を吐いている艦もいるな。急ぐぞ」

「了解した。こちらでサポートする」

 フェルの言葉と共に、強烈な追い風が吹いて機体を後押しする。同時にエンジンの出力が一気に上がった。おそらく吸気口に流れこむ空気の流量が増えているのだ。

「まとわりつく敵機をかき回してやれ。誰が空の支配者か教えてやるんだ」

「了解した。慣れてきたな、ユベール」

 先の艦隊決戦で北央海における全ての空母を喪失したアルメア艦隊は、ありったけの対空兵器を積んでこの作戦に臨んでいる。すでに駆逐艦一隻が脱落し、さらに駆逐艦と巡洋艦が一隻ずつ戦列から落伍しつつあるが、戦艦カルニアを含めた四隻は今なお健在であった。だが、この先どれだけ持つかはわからない。

 艦隊の上空に付けると、ペトレールに気付いた敵機が迎撃に向かってくる。だが、攻撃態勢に入ったフェルがそれを寄せ付けない。乱気流に翻弄された戦闘機は機関銃の射程まで接近するどころか、機体の姿勢を立て直すので精一杯の様子だ。さながら空域にペトレールを中心とした風の結界が張り巡らされているようだった。

 攻撃の手は低空で艦隊を付け狙う爆撃機や雷撃機にも及ぶ。急降下、あるいは海面すれすれでの飛行中に乱気流で姿勢を崩された機体はまともに狙いを付けられず、何機かはそのまま姿勢を立て直せずに海へと突っこんでいった。

 無線で飛び交う悲鳴に異変を感じ取ったのだろう。シャイアの航空部隊が攻撃を中止し、アルメア艦隊から距離を取り始める。すでに爆弾や魚雷の投下も終えた機もいる上に、彼らの母艦は航行不能になっている。停泊中の空母への着艦は航海中のそれに比べて難易度が高いか、機種によっては不可能なこともある。その場合はイーストファー基地まで飛ばなければならないので、燃料計も気になる頃合いだろう。思った通り、航空部隊は攻撃を再開せずイーストファー基地方面へ離脱を開始した。

「追撃の必要はない。このまま艦隊の護衛を続けるぞ」

「了解した」

 いよいよ作戦の最終段階だ。ここまで来たら、覚悟を決めてやり切るしかない。リーリング海峡への突入。誰もが不可能だと考えた困難な作戦への挑戦が始まる。


5


 敵機が去ったのを確認したユベールが高度を下げる。低空で艦隊をフライパスすると、ペトレールを見た乗組員たちが帽子を振って感謝を示す。

「見ろよ、フェル。お前に感謝してるんだぜ」

「……そうだな」

 わずかに言い淀んだのを、ユベールは聞き逃さなかった。

「間に合わなかった、とか考えてるのか?」

「その通りだ」

 大破した駆逐艦が一隻と、ダメージで船足が落ちて落伍した駆逐艦と巡洋艦が一隻ずつ。これらを除いて、戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦二隻がアルメア北央海艦隊の全戦力だ。ペトレールとアルメア南央海艦隊による支援を計算に入れても、大量の砲台と航空機が待ち構える海峡への突入には心許ない。

「それは違う。これは俺たちが参加しなくても行われていた作戦だ。北央海における劣勢をひっくり返すために、アルメアはどこかで博打をする必要があった。作戦がこの段階に及んで四隻も残ってるのは、フェル、間違いなくお前の功績だ」

 慰めの言葉ではなく、事実を述べて納得させようとするのがユベールらしい。

「相変わらず、ユベールは慰めるのが下手だな」

「なっ……お前なあ……」

「気持ちは伝わった。ありがとう、愛してる」

「……ああ、俺もだよ」

「言葉にしてくれないのは残念だが、今は仕事に集中しよう」

「了解だ。無事に作戦が終わったらいくらでも言ってやるよ」

「楽しみにしておこう」

 短いじゃれ合いで、いくらか疲労も和らいだ。燃料はまだ十分にあり、弾切れの心配は最初からない。ユベールと二人でなら、まだ戦える。

 リーリング海峡の入り口が目視できる距離まで艦隊が接近すると、沿岸に設置された砲台が火を噴いた。まだ距離があるので、風の方向を変えて砲弾を叩き落とす。着弾地点から弾道の再計算が行われ、再度の砲撃が行われるが、今度は何も手を加えない。砲弾は艦隊を飛び越え、後方の海面に着弾した。

 単純な手だが、複雑な弾道計算の下で行われる長距離砲撃はこれでほぼ無効化できる。怖いのはまぐれ当たりと、より接近してから浴びせられる十字砲火だ。敵艦接近の報はイーストファー基地にも伝えられ、航空部隊もすぐに上がってくるだろう。

 アルメア艦隊も反撃を始める。瞬く間に激しい砲火の応酬となり、フェルが手出しする余地はなくなってしまった。初手での弾道計算の誤りが尾を引いているのか、シャイア側の砲撃の命中率は低い。これなら艦隊に任せておけそうだった。

「基地の航空部隊が上がってくる。俺たちはそっちを押さえるぞ」

「了解した」

 機動部隊がたった一機の飛行艇による正体不明の攻撃で航行不能に追いこまれたとの情報が基地に届けば、シャイア軍は冬枯れの魔女がこの戦場にいると推測するだろう。彼らの持つ魔法の知識が以前のままであれば、次に取る行動も予測できる。

 相手はおそらく、航空機による波状攻撃を仕掛けてくるはずだ。魔力切れを狙って、航空部隊を惜しみなく投入してくるに違いなかった。それで構わない。戦力がペトレールに集中すれば、それだけアルメア艦隊に向かう航空機の数は少なくなり、アルメア艦隊の海峡への突入が容易になるからだ。

 そう、相手にはペトレールが本命だと認識してもらう必要がある。

 リーリング海峡を抜けた先、南央海でも両軍の艦隊が激突している。アルメア艦隊の突入を阻むだけの戦力的な余裕はシャイア軍にもないはず。つまり、ここが正念場ということだ。先ほどアルメア艦隊を襲っていた航空部隊に倍する数の戦闘機が、戦闘用ですらない飛行艇ペトレール・ブランシェに殺到してくる。

「あれが全部、俺たちを狙ってるのか」

 流石にユベールの声にも緊張が滲む。

「心配するな、ユベール。わたしが付いている」

 不思議と不安はなかった。魔力切れの心配はないのが理由だろう。

 かつての戦争における冬枯れの魔女は、魔法を連発できず、また一度でも使えば同じ場所では年単位で再使用できなくなっていた。魔力を引き出す対象も大地や海、あるいは生命体に限られ、空中に漂う希薄な魔力はそもそも意識すらしていなかった。

 空気、ひいては空に触れるという感覚。

 それはユベールとの旅、飛行機に乗って航法士として働く中で身に付けたものだった。機体を揺らす風の流れ、キャノピーを開いて手のひらに感じる空気の感触、操縦桿を通して感じる手応え。時が経つに連れて、自らが空に在るのだという実感が増していった。そうして空に触れることを知り、気付いたことがあった。

 空には名前がない。

 空には境界がない。

 自然か人工かを問わず、地上ではありとあらゆるものに名前と境界が存在する。平地と山地、川や海岸、街に道、そして国境。海も例外ではない。現代では名前のない土地などほとんど存在しない。それらの名前と境界は、人の認識を縛り付ける。

 触れているという条件をキーに魔法を発動するフェルにとって、認識はとても重要だ。名前や境界があることで、違う名前の場所、境界の向こうにある場所を、無意識に『触れていない場所』として認識の外に置いてしまうからだ。

 その結果、かつてのフェルの魔法は『触れている』と認識できる狭い範囲の魔力を吸い尽くす性質のものとなった。使用する際にはその場にいて、手で直接触れなければならないという制約も、同じく認識の問題だ。空を何もない、空っぽの空間と認識していたから、当然のように『触れている』という感覚はなかったのだ。

 今は違う。空はどこまでも途切れなく広がり、あらゆるものに『触れて』いる。視界に捉えられる限りの海や陸地はもちろん、ウルリッカやユベールとの旅を通して訪れた全ての国、全ての人々と、空を介して繋がっているのだという実感がある。

 それらの秘める魔力量は膨大で、少しずつ借り受けたところで動植物の生命や作物の収穫に影響を及ぼすには至らない。例えるなら、海からバケツですくった水を砂浜にぶちまけるようなものだ。そんな子供の悪戯で海は干上がったりしない。

 今のフェルは、無尽蔵の魔力を手にしているに等しい。

 地上に影が差す。晴れ渡っていた空に、急速に積乱雲が発達していく。熱帯気候のアヴァルカ半島とはいえ、真冬のこの時期に異様な光景だった。全天が分厚い雲に覆われ、灰色の天井は雷鳴を伴って今にも底が抜けそうだった。

 囮としての役割を果たすべく、手加減する必要もなくなった。

 運の悪いシャイアの戦闘機に落雷が落ち、戦場に轟音が響き渡る。それを合図に、堰を切ったような大粒の雨と荒れ狂う暴風が叩き付ける。季節外れの嵐にかき回され空戦どころではなくなっているシャイア軍を余所に、風雨はペトレールの翼を優しく打つだけだった。嵐の中で悠々と飛び続ける異様さに恐れを成したか、どの機体もこちらを遠巻きにするだけで近寄ってこない。そもそも飛行を維持するだけで精一杯の機体も多く、空間識失調に陥って墜落する機体も出始めた。

 指揮官がこれ以上の戦闘の継続は不可能と判断したのだろう。すぐにシャイア機が退却を始める。この天候では最寄りのイーストファー基地に着陸できないため、リーリング海峡を挟んで反対側のエンロン半島にある基地まで飛ぶ必要がある。残燃料を考えれば、この場に留まっていられる時間にほとんど余裕がないのだ。

 嵐が続く限り、イーストファー基地に残った機体が飛び立つこともできない。この隙を突いてアルメア艦隊は海峡に突入する手筈となっていた。彼らが無事であることを祈りながら、機体を旋回させて海峡を目指す。

 海峡の狭隘部、戦艦や空母がギリギリ通り抜けられる場所の手前に、彼らはいた。船体のあちこちに砲撃によるダメージが認められ、火災による黒煙を噴き上げつつも、突入を図った四隻は生き残っていた。見れば、ダメージが特に大きい戦艦と巡洋艦の横にそれぞれ駆逐艦が横付けして、乗組員が避難しているようだ。

「彼らを護衛する」

「了解だ。最後の仕上げだな」

 アルメア艦隊が台風の目に入る。もちろん、フェルの操作によるものだ。それに気付いた乗組員たちが空を見上げ、手の空いている者はこちらに向かって帽子を振って歓声を上げている。そんな彼らの頭上をゆったりと旋回しながら、周辺の警戒を続けること一時間あまり。戦艦カルニアおよび巡洋艦ニューテリスの乗組員は、その大半が駆逐艦ダリウスおよびパクストンへの移乗を終えた。

 そして、満身創痍の戦艦カルニアと巡洋艦ニューテリスが海峡の狭隘部に並んで進入していく。一隻通れるだけの幅と水深しか持たない海の難所に無理な進入を試みた結果、当然の帰結として両艦は船体がこすれる軋み音を上げつつ座礁した。

 座礁を確認した後、残っていた乗組員も脱出ボートで艦を離れる。残された二隻の駆逐艦は、彼らを収容した後に魚雷を発射した。魚雷は両艦の後部に命中し、盛大な水柱を上げる。すぐに浸水が始まり、二隻は互いの重みに耐えられなかったかのように折り重なって沈んでいき、艦の上部を水面に残したまま着底する。

 甲板に集まった乗組員がその光景を見つめていた。誰に命令されるでもなく無言で敬礼する者がいて、すぐに周囲の人間もそれに習う。海面に突き出したマストは墓標を思わせ、しかし乗組員を最後まで守り切った誇りと威厳に満ちた碑のようでもあった。乗組員たちの頬を伝うものが雨だったのかどうかは、彼らだけが知っている。

「作戦完了。彼らの離脱を確認したら、俺たちも戻ろう」

「了解した」

 敵の目から隠れるため、嵐の続く北央海へ戻っていくアルメアの駆逐艦たちを見送りながら、思わず安堵のため息がこぼれた。全身を心地よい疲労感が包んでいる。

「無事に生き残れたな、ユベール」

「この嵐だ。着陸するまで分からんがな」


6


 アルメアによるリーリング海峡封鎖から半年。世界情勢は大きく動いていた。

 戦艦カルニアおよび巡洋艦ニューテリスの自沈により海峡を遮断され、南央海との行き来が不可能となった北央海は閉じた海となった。冬枯れの魔女の介入により、北央海に展開していたシャイアの機動部隊が壊滅的な損害を受けたことと併せて、一時的にではあるが北央海に戦力の空白地帯が生まれたのだ。

 当然、シャイア側は自沈したアルメア艦の撤去を図ったが、アルメア軍の妨害とリーリング海峡の海流の早さもあって撤去作業は容易に進まなかった。その結果、北央海における制海権はより早く戦力の立て直しに成功した側に委ねられる、純粋な工業力と生産力の勝負へとステージが切り替わった。

 もちろん、封鎖を仕掛けた以上は始めからアルメア側に勝算のある戦いだった。大型艦の建造に必要不可欠なドックの数に倍以上の開きがあったのだ。加えて、シャイアにはもうひとつの誤算があった。北央海で建造されるシャイア艦の約半数を建造するシャイア領ユーシア自治区においてクーデターが発生したのだ。

 レジスタンス組織『眠れる獅子』とシャイア軍のユーシア人部隊が中核となって発足した臨時政府は国内の重要な港を素早く制圧し、ドック入りしていた艦と新造艦を押さえた。元々大陸国家であるシャイア帝国は、北央海における艦船の建造と修理でユーシアに大きく依存していたため、これが決定打となった。半年足らずで機動部隊の体裁を整えたアルメア海軍は北央海の制海権を取り戻したのだ。

 一方、事実上の植民地であったルーシャとユーシアを失い、北央海の制海権も失ってアヴァルカ半島に逼塞するシャイア軍は厳しい状況に置かれていた。アヴァルカ半島から先へは一歩も出さないとばかりに遅滞戦術に徹するアルメア軍を攻略できないまま時間を空費し、その間に国内では厭戦気分が蔓延していったのだ。

 とどめとなったのは、ケルティシュ、エングランド、アルメアの連合軍がディーツラントの首都リンバーを占領したことだった。これを受けてディーツラント帝国は連合国に対して無条件降伏を宣言。シャイアは貴重な同盟国を失い、実質的にシャイア一国のみで世界を敵に回して戦う羽目に陥ったのだ。

 戦争に勝ち、領土を拡大し続けることで統合を維持してきたシャイア帝国は多数の国家の集合体という側面を持つ。そして、相次ぐ敗戦の報と立て続けに植民地を失う事態に大きな衝撃を受けた結果、それまでに蓄積された内部の不満が一気に噴出し、ついには単一の国家という枠を守れなくなった。

 最終的にシャイア帝国は四つの国家に分裂した。地図上の位置関係から便宜的に用いられた東シャイア、西シャイア、南シャイア、北シャイアの呼称は主に連合国において定着し、正式名称を定まってからも非公式に使われ続けることになった。

 四国のうち、最初に独立を表明したのは金融と貿易による外貨の稼ぎ頭であった南シャイアだった。次いで豊富な地下資源を持つ北シャイアがそれに追随。シャイア帝国は東西に分断され、戦争の継続が著しく困難となった。数ヶ月の後、アルメア大陸側に位置する東シャイアが講和を申し入れ、アルメアもそれを受諾。最後に残された西シャイアも連合国と休戦条約を結ぶことで世界大戦は終結を見た。



 アルメア連州国サンシア州、エルム湖のほとりにあるヴェルヌ社の第二工場にて、フェルはアルメア連州国大統領が世界大戦の収束を宣言するラジオ放送に耳を傾けていた。傍らにはデッキチェアに座るユベールの姿があり、穏やかな湖面にはすっかり馴染んだ愛機がその優美な流線型を誇示している。

 この半年で起きた最大の出来事は、やはり結婚式だろう。相変わらず戦争は続いていたが、フェルのアルメア国籍取得のために式を挙げることにしたのだ。左手の薬指に輝く、仕事の邪魔にならないシンプルな指輪を見る度に唇がにやけてしまう。

「暇さえあれば指輪を見つめて、そんなに嬉しいか?」

「嬉しいに決まっている。最愛の人とお揃いなんだからな」

「そりゃよかったな」

 ユベールもいい加減に慣れてきたと見えて、ちょっとやそっとでは恥ずかしがる素振りも見せない。それが少しだけ悔しいような、寂しいような、それでいて喜ばしい気持ちが湧き上がってくるのだから不思議なものだった。

 身近な人々も、それぞれの道を歩み始めていた。

 ユベールの元相棒、フェリクスの孫娘であるヴィヴィエーヌ・ヴェルヌは戦争の終結を見越してカーライト社のテストパイロットを辞職し、新たにエアレースチームを立ち上げていた。ヴィヴィの才能と人柄に惹かれて集まってきたエンジニアと一緒に、戦争を通じて大きく進歩した航空技術を取り入れた、新時代のエアレーサーの開発に励んでいるのだという。フェルも二人組での長距離レースに航法士として参加しないかと誘われたが、ユベールに嫉妬されそうなので丁重にお断りした。

 フェリクス・ヴェルヌはペトレール・ブランシェの量産化プロジェクトをルインと一緒に進めている。戦争を終結させた影の立て役者がフェルであることは半ば公然の秘密となっており、彼女の愛機に乗りたいという人間も多いのだという。アルメア政府からの報奨金でペトレール・ブランシェの建造費用は返済を終えており、今度はヴェルヌ社からの依頼で量産機の宣伝飛行を行うという話も出ている。彼はユベールと引き合わせてくれた恩人でもあり、その恩にはできるだけ報いたかった。

 ひょんなことからトゥール・ヴェルヌ航空会社に所属することになったアンネマリーたち女性パイロットたちにも再会できた。彼女たちのことはアルメアを離れる際にフェリクスに託していたのだが、アディントン・エアクラフトでの輸送業務を着実にこなしてきた彼女たちはフェリクスの助けを得て新たに会社を立ち上げることを決めたそうだ。アンネマリーを代表とする民間航空会社は、こちらの手が足りない場合に仕事を依頼できるいいパートナーになってくれるだろう。

「そうだ、フェル。ルーシャへの渡航許可が下りたぞ」

「本当か?」

「大統領に面会できるかはともかく、訪れるだけなら今すぐでも大丈夫だ」

「……ユベール」

「行きたいんだろ? 準備ができたら出発だな」

「ありがとう、愛している」

「はいはい、そりゃどうも」

 ルーシャ共和国はシャイア領となる以前の領土を回復し、救国の英雄ウルリッカ・グレンスフォーク大統領の下で新たな歩みを始めている。祖国がシャイアの植民地になるのを防げず、凄惨な報復を招いた冬枯れの魔女への風当たりは今なお強いだろうが、それでもフェルにとっての祖国がルーシャであることに変わりはない。

 ルーシャ以外にも、訪れたい場所はいくらでもあった。戦争中でゆっくり滞在することが叶わなかったケルティシュ共和国を始めとして、エングランド王国、ブレイズランド、サウティカなど、ユベールと一緒に訪れた国々で出会った人々の顔が思い出される。もちろん、まだ訪れたことのない国への興味もある。

 空はどこまでも繋がっている。

 ユベールと一緒なら、きっとどこにでも行けるだろう。

「準備はいいか? 行くぞ、相棒」

 先にペトレールに乗りこんだユベールが声をかけてくる。

 もう見慣れた光景が、とても愛おしくて。

『ええ、わたしの大切なひと、かけがえのない相棒。ずっと貴方と一緒です』

 ルーシャ語のつぶやきは風に溶け、フェルの耳にだけ届いて霧散していった。

「……何か言ったか?」

「別に。行こう、相棒」

 怪訝な顔で声を張り上げる相棒に、にっこり笑って返事をした。

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空飛ぶ魔女の航空会社〈Flying Witch Aviation Company〉 天見ひつじ @izutis

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