第3話 退院と転院

「水樹さんの骨髄検査の結果を知り合いの医師に渡して、意見を伺いました。個人情報なのに勝手なことをしてすみません」

「いえ……。それでなにかわかりましたか?」

「顕微鏡検査で異常細胞の有無と、芽球がきゅう……もっとも幼若な血液細胞のことで、白血病の可能性が高い細胞なのかを調べてます。水樹さんの場合は白血病ではない可能性が高く」

「それは前にも聞きました」


 少し苛立つ声が出た。

 

「お知り合いの医師は僕の検査結果に目を通して、どのような意見をおっしゃっているのですか?」

「血液の癌である可能性は捨てきれません。血液の癌には白血病以外にも、悪性リンパ腫や多発性骨髄腫などがありまして、あとは染色体検査、遺伝子検査などの結果をふまえて総合的な判断が必要だと」

「それじゃ、その検査をお願いします」

「……ここから少し遠いですが、紹介状を書きました」

「えっ?」

「残念ながら当院では十分な施設がありません。骨髄移植を視野に入れた治療ができる病院へ、転院してください」

「今すぐ……ですか?」

「できれば、今すぐ。救急車を呼んでもいいですよ。どうしますか?」

「歩けるので、大丈夫です」

「そうですか。ですが、水樹さんの免疫機能は落ちていると考えてください。病気やケガにも注意してください。鼻血や歯茎からの出血があればすぐに病院へ。安静にしてくださいね」

「わかりました」


 一礼をして診察室を出た。

 僕は普通に歩いている。体に痛みはない。それなのに、今すぐ転院。救急車を呼んでもいいって、一刻を争うようなことなのか?

 泥のような不安が足もとから広がると、のどの奥から酸がせり上がってくる。

 吐きそうだ。

 口に手を当てて、その場にしゃがみ込んだ。


「カナ兄ぃ!」


 見上げると、泣き出しそうな顔をした香奈恵がいる。

 気が強いくせに昔っから泣き虫で、いつも僕の心配をして……。

 僕が弱いときに「ひとりじゃないよ」と支えてくれる妹だ。そしてユイは、その支えを持っていない。

 凍えるような寒い日に、ひとりでパンをかじっていた、ユイ。鼻先も手も、真っ赤にしながら、とても孤独な姿だった。

 孤独は人を強くする場合と、人を狂わせる場合がある。


「大丈夫、少し目まいがしただけだ」


 香奈恵の手を借りて立ちあがった。

 人の手は温かい。ユイにそれを教えたい。できることなら――。

 僕は目を閉じて、考えるのをやめた。今は目の前のことを淡々とこなすだけ。


「今すぐここを退院して、別の病院に行くことになった。悪いが手伝ってくれ」


 老婦人の医師から告げられたことを、香奈恵にも話した。

 有名大学の医学部に通う香奈恵は、顔を真っ青にして現実を受け止めきれない様子だった。


「どうしてカナ兄ぃまで……血液の癌に……」


 どうして、それは僕が一番聞きたい。


「まだ決まったわけじゃないから、大丈夫だって」


 軽くおどけて見せたが、正直、複雑な気分だ。


「病室に戻る前に、なにか飲んでいいか?」

「いいけど、大丈夫?」

「そんなに心配するな。平気だって」


 僕はウソつきだ。

 不安で、不安でたまらない。すべてが夢で、これは現実ではないと、心が無駄に抵抗して苦しい。

 それでも僕は、笑みを作っている。


「あっ……」

 

 コーヒーショップの前で足が止まった。

 ユイがいる。

 テーブルに頬杖をついて、空っぽになったグラスの氷をストローで突きながら、時間を持て余している。


「カナ兄ぃ、どうしたの?」

「えっ? あ、ごめん。ちょっと待ってて、ユイがいる」


 安静にしろと言われていたが、駆けだしていた。


「ユイ、まだここにいてくれたんだ」


 ほんの少し走っただけで、息切れをしていた。 


「わわわ、水樹!?」


 ユイは驚いた顔で勢いよく立ちあがると、テーブルに並んだ小皿を隠そうとした。

 おそらくケーキを三つは食っている。相変わらずの食欲なので、作り笑いではない笑みがこぼれた。

 同時に張り詰めていたものが、消えていく。


「主治医の先生は、なんて言ってたの?」

「退院していいって。これから退院の手続きをして……、あ、夏休み中に一度、学校へ行くことにした」

「やったね、退院おめでとう。悪い病気じゃなくてよかったね!」


 なにも知らないユイは、僕とハイタッチをして無邪気に喜んでいる。

 その小さな手から伝わる温もりと、喜びに満ちた顔に胸が痛い。


「ユイに報告できてよかった。待っててくれてありがとう。でも、遅いから気を付けて帰れよ」

「わかった。また学校でー」


 笑顔で手を振り、途中で何度も振り返りながらユイは病院を出る。


「カナ兄ぃ、いいの? ウソついて」

「ウソ? これから退院するのは本当だろ? 学校にも挨拶に行かないといけないし、ウソなんかついてないぞ」

「再入院の話は? あの子、勘違いしたまま帰ったわよ」


 答える気になれなかった。

 今後のことを考えると不安で、想像以上に動揺している。それなのに冷静なふりをして、かっこうをつけて。

 もう二度と会えないかもしれないユイに、勘違いさせたまま帰らせた。


 それが良いことなのか悪いことなのか、言われなくてもわかっている。

 でも、これ以上僕にどうしろと。

 ユイには支えが必要で、できることなら――、一緒にいたい。

 正直な気持ちに気がついても、僕は智也のように死ぬかもしれない。


 怖いと、言えばいいのか?

 どうして僕がこんな目に遭うんだと、誰かを責めればいいのか?

 ユイに、僕の命が消えかかっていると伝えればいいのか? ……そんなことできるはずがない。


 屋上ではじめて言葉を交わした日、ユイの泣きはらした目は光を失い暗く沈んでいた。今の状況を話したら、ユイがまた暗い海の底に沈んでしまいそうでゾッとする。

 守りたかった。

 幼子のように笑う顔。苦手な勉強もウンウンとうなずいて頑張る、ひたむきな姿。小さな手の温もり。そのすべてを。


「ユイにとって僕はただの先生だから、急にいなくなっても、そのうちきっと忘れるだろ」


 ただの教師が夢を見すぎた。

 今川が数学研究室に来たとき、ユイはハッキリと言ったじゃないか。

 

 ――水樹は、先生だ。私はなにも望んでない。あんたなんかと、一緒にしないで


 それが答え。

 いい先生と思われているうちに離れられるなら、それはそれでよかったのかもしれない。







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