僕はただの先生だから

第1話 突然の病

 僕は寝付きがよくて、体力の回復も早い。それなのに疲れが取れない。

 食欲が落ちて、体重も減る。難しい勉強をしながらでも、おいしそうにパクパク食べるユイが羨ましかった。

 そしていつも以上に疲れているのは、突然やってきた今川のせいだと思い込んでいた。


 そもそも今川は誰から僕の居場所を聞いて、どのような目的を持って数学研究室にやってきたのか、未だによくわからない。ただ、香奈恵が『カナ兄ぃが結婚したら、お嫁さんを刺しに来るわよ』なんて言うから、数学研究室に今川とユイがいるのを見て、心臓が止まりそうだった。


 幸い、殺傷事件は起こらなかった。だが、やはり今川は今川。いきなりの行動になすすべがなく、不本意ながら……今川の唇が……。

 ユイは床に向かって「うわああああああぁぁぁぁッ」と叫んでいたが、叫びたいのは僕も同じ。今川はユイの前で……いや、生徒の前でとんでもないことをしてくれた。


 それからユイは数学研究室に来なくなった。 

 喜怒哀楽の激しいユイだから、姿を見せないことは度々あった。でも、今回の出来事はいつもと違う。

 勉強は大丈夫か? しっかり飯は食ってるか? 

 いくら心配しても、合わせる顔がない。おそらくユイも僕に会いたくないだろう。


 今川のせいで色々なことがありすぎた。だからゆっくり休んでも、疲れがとれない。そのうち元に戻るだろう。

 僕は軽く考えていた。突然、体が悲鳴をあげるまで。

 

 とても寝苦しい夜に、激しい息切れと胸の動悸に襲われた。

 今まで感じたことのない息苦しさに焦ったが、気休め程度の対処方法なら知っている。

 僕は仰向けになって目を閉じた。

 胸に手を置いて心臓の音を感じながら、できる範囲で深呼吸を繰り返す。「大丈夫」と自己暗示を入れながら……。


 気が付くと朝だった。

 動悸も息切れも、夢のように消えている。まるでキツネにつままれたよう。それでも、いつもと変わらない朝を迎えてホッとした。


「兄貴に助けられたかな」


 兄の智也は血液のがんで、入退院を繰り返していた。

 時々発作を起こして、親が智也の背中をさすっていた。ゆっくりと深呼吸するようにうながして、手のマッサージもする。

 息を整える姿を覚えていたから、助かった。そう考えて起きあがると、倦怠感に包まれる。


 元気だった智也が急に「疲れた」と言って、横になる姿が頭に浮かんだ。

 首にあるリンパ腺が腫れていたから、何気なく伝えると、おそるおそる首に手を当てて、さらに顔色を悪くした。

 そして今、僕もおそるおそる首に手をあてて目を閉じる。すると指先が真っ先に異変を感じ取った。

 智也とまったく同じ場所に、複数の腫れがある。


「……まさか」


 手が震えた。

 早く病院に行った方がいい。スマホを起動してスケジュールを確認した。それからすぐに、ユイのことを考えてしまった。

 数学研究室にユイは来ない。それがわかっているのに、こんな状況でも気にしている。


 ――私は、水樹を先生だと思ってる。


 もちろん僕もユイは生徒のひとりだ。

 それなのに、なんだろう。落ち込んでいるのか寂しいのか。よくわからない感情が胸の中に渦巻いていた。

 落ち着いて考えるとひとつの答えが出そうだったが、僕はだるい身体を引きずって近くの病院に向かった。


 病院で症状を訴えると、ずんぐりした医師が「夏風邪かな?」と首をかしげる。その態度があまりにものんきだから、智也の話をした。すると念のため、血液検査をすることになった。

 血液検査の結果に視線を落とした医師は、すぐに「骨髄穿刺マルク」と看護師に告げる。

 え? と驚いても、医師は僕の顔を見ない。代わりに看護師さんが説明をしてくれた。


「血液検査の結果、汎血球減少はんけっきゅうげんしょうが見られますので、骨髄穿刺こつずいせんしをします。処置室まで案内しますね」

「血中細胞成分が全体的に少ないんですか?」

「あら、詳しいんですね。血液中の赤血球、白血球、血小板、すべてが若干減少してるようなので、骨の中にある骨髄液を少し抜いて観察します」

「痛い……ですか?」


 智也は、胸骨または腰にある腸骨に針をぶっ刺す、骨髄穿刺が嫌だと言っていた。それを覚えているから、つい逃げ腰になる。

 看護師さんは「大丈夫ですよ」とほほ笑んで、処置室の扉を開けた。

 処置室にはベッドがずらりと並び、一台ずつ仕切りがある。


「手前のベッドでうつ伏せになってください」


 まだ心の準備ができていない。それでも指示通りに従う。

 先ほどのずんぐりとした医師がやってくると、看護師さんは僕の真横で注射器の準備をはじめた。

 ガチャガチャと金属がこすれる音を耳にしながら、今まで見たこともない太い針の注射器がトレイに並んでいく。

 逃げ出したいと思ったとき、背骨のあたりをヒヤッとした感触が走り抜けた。


「あ、冷たかったですか? 今、背中の消毒をしてますので我慢してください」


 先に言ってくれたら驚かなくてすんだのに……。

 そして僕が「わかりました」と返事をする前に、ずんぐりとした医師が「いきますよー」と。

 

「水樹さん、麻酔をします。チクッとしますが我慢ですよ」


 僕はもう、まな板の上の鯉。普通の注射と同じ程度の痛みを感じた。

 これからもっと痛くなるのか?

 憂うつな気持ちで身構えたのに、まったく痛くならない。「骨の方に針が入っていきますよー」と言われても、余裕だった。

 これなら楽勝。

 智也が入院していた昔と違って、いまは医療技術が良くなったのだと安心していたが、本番はこれからだった。










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