マルシャン伯爵家の一人娘であるアリアが高熱を出したのは、五歳の誕生日パーティーが終わってすぐのことだった。

　伯爵家の小さなプリンセスは、周りからの祝福に大喜びしていたのだが、それが一転、熱に浮かされ、水も飲めない状態になり、それが三日続いている。

　当初、伯爵家の主治医は子どもにはよくある発熱だと診断したのだが、いっこうに良くならない娘の病状に、マルシャン伯爵は宮廷医を招き診断を仰いだ。

　最年少で王立医学校を卒業した秀才であり、皇太子の専属医である。しかし彼もアリアを目覚めさせることはできなかった。アリアの意識は戻らず脈は弱々しい。

「これは病気ではありません」

　若い医師の言葉に伯爵夫妻は当惑の表情を浮かべた。すると医師は声を落とし、囁くように付け加える。

「呪いです。僕ではなく魔術師に診せるほうがいい」

　一瞬にして青ざめる夫妻。

　立ち眩みを起こした妻の肩を伯爵はたくましい腕で抱き寄せた。

「誕生日の祝い客に怪しげな奴が混ざっていたのかもしれん」

「でも客人リストは何度も確認したでしょう？」

　伯爵夫人は夫を見上げ、眉間に皺を寄せる。

「不審な人なんていなかったわ。警備だっていつも以上に厳しくしていたじゃありませんか」

　だが、数日の間に新しく雇った者はいない。発熱の時期から見て、パーティー客、あるいは準備の時に出入りした者が怪しいだろう。

「裏切り者がいたのね。きっとアリアの愛らしさを妬んだんだわ！」

「伯爵」

　若い医師が穏やかな、しかしはっきりと響く声で言った。

「お抱えの魔術師はいらっしゃいますか？　急いだほうがいいかもしれません」

　彼はアリアの小さな手首に指を当てる。

「脈が弱すぎる。体温まで下がり始めたら危険です」

　険しいまま伯爵は先代からひいきする老魔術師の名をあげた。すると夫人がすかさず「だめよ」と否定する。

「余興の占い程度なら役立つでしょうけど、彼はもう老いぼれだわ。もっと若くて優秀な魔術師を呼ばないと」

「しかし……」

　王国ジャルディネイラは偉大な魔術師を祖として建国した歴史ある大国だった。しかし数百年のうちに魔力は低下し、今では国民の多くは魔力を持たない。わずかに残る魔術師や弟子は国が徹底して管理しており、雇うには国王の許可がいる。

「今から宮廷に行って申請しても遅いのではないか？」

　不安げな眼差しをむける伯爵に、若い医師はゆっくりと首を振る。

「間に合わないでしょう。今夜が峠です」

「今夜……」

　夫妻は同時に窓を見る。三日月が浮かんでいた。

「あなた、誰でもいいから連れて来てくださいな。私のアリアがなぜこんな目に！」

　夫人は悲痛な声を上げると娘が横たわるベッドにすがりつく。

　伯爵は妻の肩に手をやると、硬く引き締まった表情で部屋を出て行こうとした。今からでも王宮に行って、国王に直談判するつもりだ。

　伯爵は荒っぽくドアを開けた、その瞬間だ。

　う、と微かに呻く声。

「アリア！」

　夫人の叫びに伯爵も踵を返してベッドに駆け戻る。

「アリア、パパだ。しっかりしろ」

　五歳の幼女が険しい苦悶の表情を浮かべている。何かから逃げようとしているのか、小刻みに顔を左右に振り、小さな手足をバタバタさせた。

「お嬢さま、アリアお嬢さま」

　医師が呼びかけると、少女は、まぶたをぴくぴくと痙攣させた。

「アリア、ママよ」

　伯爵夫人は涙を浮かべて娘の小さな肩を揺らす。

　それを医者が手を重ね制止した。

「落ちついて。無理に目覚めさせないほうが——」

　ぐっ、と喉がつかえたような音を立て、硬直するアリア。緊張が走るが、すぐに彼女は胸を上下させ長く息を吐き出した。そして、ぱちりと目を開く。

「？」

　わっと歓声が上がり、夫妻と医師が破顔する。そして騒がしい足音と共にドアが盛大に開いた。駆け込んできたのは、廊下で状況に耳をそばだてていた使用人たちだった。

「お嬢さま」

　白髪が混じる乳母が頬を涙で濡らしている。その後ろにも若いメイドたちが「良かった」と繰り返し泣き笑いしていた。

　アリアはぼんやりしたまま、その光景を眺めていた。伯爵夫妻は抱き合い、互いの肩や背を優しく叩き合っている。若い医師が安堵の息のあと笑顔を見せると、アリアの手首に指を当てた。

「脈が戻りましたね。声は出せる？　名前を言えるかな」

　アリアは目を瞬かせ、「あり」とだけ答えた。かすれ声に、乳母がベッドサイドに置いてあったグラスを慌てて手に取る。

「ゆっくり飲ませて」と医師。「呪いなら目を覚ませば大丈夫と聞きますが、僕は専門家ではないので」

　そう伯爵夫妻に小声で伝える。

「念のため魔術師にも診断を仰いで下さいね。僕からは栄養剤を出しておきます」

　足元にあった鞄から小瓶を取り出すと、医師はスープに混ぜて飲ませるよう指示を出した。

　そうして医師が乗る馬車が王城に戻る頃、コック特製のオニオンスープが完成する。こっくりとした黄金色のスープは香りだけでも心満たされた。栄養剤を混ぜると、やや混濁したが味に変化はなく、アリアはぺろりと完食した。その様子に誰もが安堵の息をつく。

「おやすみ」

　伯爵夫妻は娘のひたいにキスすると静かに部屋を出て行った。ベッド脇の椅子に腰かけた乳母は、しばらくアリアを見守っていたが、時刻は深夜だ。安心したこともあり、こくりこくりと舟を漕ぎ始める。

　アリアお嬢さまの回復に、邸宅は数日ぶりに穏やかな眠りにつこうとしていた。

　……ただ一人をのぞいて。

「何よ、この夢」

　アリアは目を荒っぽくこする。頬をつねる。

「何がどうなってんのよ⁉」

　大声に窓の外では鳥がバサバサと飛び立ち、乳母がはっと目を覚ます。

「お嬢さま？」

　五歳のアリア・マルシャン——の中にいる丸島ありさは、信じられない思いで自分の手を見つめ、頬をぺたぺたと触る。

「え、ちっさ。わたし、子どもになってんの⁉」