第11話 理由

 なぜその日にしたのか覚えてないが、二月二十一日のバスに乗った。当時、山本一力の「背負い富士」、阿佐田哲也の「次郎長放浪記」と、立て続けに清水の次郎長物の小説を読んでいた私は、静岡に寄り道してから、東京に行くつもりだった。大阪まで一旦バスで出て、そこから静岡を目指そうと思っていたが、前日にチケットを買いに行くと、『いざ名古屋!』と書かれた広告がやたら貼られていた。それを見て、なんとなく名古屋経由で静岡に変更した。


 出発前の三十時間は、ずっと彼女と過ごした。早朝からのサービスタイムでホテルに入って、夕方に出た。そのあとようやくバスのチケットを買いに行き、本当はそこでお互いに家へ帰って、翌日出発前にまた合流する予定だった。でも別れがたくて、家族風呂に行くことにした。私は自分がいくら持っているのか確認するのが恐ろしかったので、会計はずっと、有り金を入れた封筒の中身を見ずに払っていた。九十分間の利用で風呂を出たあと、やっぱり離れられなくて、少し変わった母親に会わせるのが不安で、ずっと避けていた家に彼女を連れて帰った。


 私がようやく荷造りをしている最中、彼女は母と、手形が不渡りになったせいで家を失い、ウチに転がり込んできていた母の彼氏を相手に仲良く話ししていてくれた。

 夜中、寝ようとしている彼女の背中と壁の間を、ネズミが走り抜けていった。彼女は驚いた声で、「ネズミに背中を触られた」と言って笑った。たくましい女でよかった。


 見送りは彼女にだけ来てもらった。立ち飲み屋の仕事は楽とはいえないが、それなりに味わい深かった。これだけ好きな彼女も出来た。それでなぜ、旅に出るのか。今の私には分からない。きっと、誰にも分からなかっただろう。当時の私にだけ分かる、なにか理由があった。


 天気が良かったのを、停留所で手を振る彼女の姿とセットで覚えている。

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