4章 秘された聖域 - 1

 キャトルと名乗った女は色の濃いダウンコートにデニムのショートパンツを履いていた。髪は金髪で瞳は青色。スタイルはモデル顔負けの八頭身で、顔立ちもセッテに劣らず整っている。無表情のセッテと比べると、少し勝気な雰囲気が表情に滲み過ぎているようにも感じたが、美貌であることに変わりはないだろう。

 当然、僕の人生において―――少なくとも火星での生活において、こんな美女と接点はない。


「ど、どなた、ですか? それにさっきのは一体……」

「何? キャトルだって言ったでしょ。何度も名乗らせないで」


 キャトルはあごをしゃくり、僕に立つよう促す。僕はなんとかして立ち上がるもよろめき、キャトルに支えられた。


「だらしないわね。しっかりしなさいよ」

「す、すいません……」


 どうやらここへ落ちたときに足を挫いたらしい。ここへ引っ張り落としたのは他でもないキャトルなのだろうが、助けてもらった手前、ここで恨み言を吐くのはあまりに情けない気がして僕は言葉と痛みを呑み込んだ。


「あの……それでキャトルさん、これは一体、どういう状況なんですか……?」

「見れば分かるでしょ? 助けたのよ」

「あ、いえ、それはその分かるんですが……」


 肩越しに強烈な睨みを利かされる。僕は口を噤む。


「とりあえず黙ってついて来て。話はそれから」


 僕は先行するキャトルの後に続く。キャトルは僕が足を挫いていることなど一切考慮せず、足早に進んでいってしまう。僕は額に脂汗を浮かべながら、必死にキャトルの背中を追った。

 歩いているのはどうやら下水道のようだった。すぐ横を流れる排水路からは生臭いヘドロの臭いが立ち込めている。息を吸うのさえ躊躇うような臭いだったが、キャトルは気にならないらしく平気な顔で歩いている。僕はキャトルの様子を伺い、首筋に刻まれたシリアルコードを見つけた。


「何?」

「あ、いえ、キャトルさんも、ドールなんですね」

「だったら?」

「あ、いえ、特に意味は……」

「なら黙ってて」


 同じドールなのに、セッテとはひどい違いだ。

 もちろんドールにもそれぞれ性格や趣向が備わっている。無害であることが必須なので気性が荒いドールは存在しないが、キャトルというこのドールはかなりそれに近い部類だと言えるだろう。


「もしかして、セッテさんの同僚の方ですか?」

「は?」

「あ、いえ、キャトルってフランス語で数字の〝4〟って意味ですよね。セッテさんと由来が似ていますし、その、お綺麗なので、そうかなと……」

「あ、そう」


 振り返ったキャトルが向けた視線は、もう本当に喋るなときつく告げていた。

 沈黙は不安と痛みを助長した。僕は懸命に耐え、心のなかで何度も落ち着くよう自分に言い聞かせて歩く。助けてくれたのだから、少なくとも敵ではないはずだと自分を納得させた。

 やがてキャトルの持つライトが、殺風景な汚れた下水道の壁に埋め込まれた扉を照らした。寒気のする引っ掻き音とともに扉が開けられ、キャトルに入るよう促される。

 扉の向こう側は上り階段になっていた。キャトルに上るよう指示され、僕は階段を上がる。上がると同じような扉がもう一枚、行く手に立ち塞がっていた。ドアノブに手を掛けたが、扉はびくともしない。


「人間には開けられないようになってるのよ。どいて」


 僕を押しのけたキャトルが扉を押し開ける。おそらくはドール内部の微弱な電磁波を感知して解錠する仕組みなのだろう。そんな扉を拵える意味は不明だが、技術的には理解できた。

 扉の先は三メートルほどの通路のあと、もう一枚の扉で塞がれていた。先行したキャトルが扉を開けると、重低音と目まぐるしく動き回るビームライトがこぼれた。


「もたもたしないで」


 呆気にとられる僕をキャトルが急かす。僕は強引に引っ張られながら、扉の向こう側に足を踏み入れる。フロア全体を揺るがすような重低音が、僕の五臓六腑を突き上げた。


「こ、ここは……」

「私たちは聖域って呼んでるわ。きょろきょろしないで。恥ずかしいから」

「だって、なんか僕、やたら見られるんですけど」

「そりゃそうよ。オーナー以外の人間なんて珍しいから」

「え?」


 僕は周囲の人々を伺う。性別や人種は様々。だが一様に皆、顔のどこかにシリアルコードが印字されていた。


「ここは一体何なんですか……」

「言ったでしょ。聖域。私たちドールの、秘密の楽園よ。ついてきて、ルイ・ナナオ。私たちのオーナーを紹介するわ」


   ◇


 キャトルの案内でソファへ通された僕の元へ、間を置かずに水と煙草が運ばれてくる。煙草の銘柄が、僕が好んで吸っているものなのは偶然ではないだろう。つまるところこれは、僕のことなど隅から隅まで調べ上げているぞ、という〝聖域〟側の意思表示に違いない。

 僕はありがたく煙草を手に取り、机の中央に置いてあるガラスケースからマッチを取り出して火を灯す。肺に取り込まれた煙の感触が、随分と久しぶりに感じられた。

 僕の前にはまだ空席の三日月型に湾曲したソファが置かれている。オーナーとやらが座るのだろう。キャトルは僕の視界の隅で、時折僕を睨みつけて牽制してくる。

 僕は広がるフロアを見渡す。ステージから流れるダンスミュージックに身を委ねる者。バーカウンターに陣取って、雑談に花を咲かせる者。床に座り込み、ぼんやりと天井から吊るされるミラーボールを眺めている者。とにかく過ごし方は様々だが、そのどれも、僕が知るドールの在り方とは違っていた。


「本当に、これが全部ドールなのか……」

「まるで人だな―――そう思うかい?」


 思わず口を突いた僕の独り言に、声が返ってきた。音に満たされているフロアにあってもしっかりと通る、太く聞きやすい声だった。振り返れば、薄暗いフロアでもくっきりと黒いと分かる肌の色をした男が僕に笑顔を向けていた。


「初めまして。ルイ・ナナオ。俺の名前はアシャラ・ウフキル。このクラブのオーナーをやっている者だ」

「は、初めまして。ルイ・ナナオです」


 僕は煙草を灰皿へ捨て、差し出されたウフキルの右手を握り返す。彼の上背は僕とそう変わらなかったがひどく大きく、分厚い手だった。

 クラブのオーナーというと、僕は真っ先に上等かつ派手なスーツに身を包んだ人間を連想したが、ウフキルは白いTシャツにジーンズというラフな装いで、傷の目立つ腕時計以外、どんな装飾品も身に着けてはいない。


「それにしても災難だったな。ドール捜査官はしつこいだろう?」

「ええ、まあ、そうですね」


 僕は曖昧に頷く。自分が置かれている状況が全く理解できないせいか、ドール捜査官に追われて逃げていたことが遥か遠くの昔のことのように感じられた。


「あの……ここは一体? さっき聖域とお伺いしたんですが、どういう意味なんでしょう」

「聖域か。そんな大それたものじゃないが、そう思ってもらえているのは嬉しいね」


 僕が訊ねると、ウフキルはそう言ってから声を上げて笑った。キャトルは恥ずかしさと嬉しさが混ざったような笑みで肩を竦めている。


「ここはね、俺がドールのために作った交流の場だ」

「作った?」

「ああ。インフラ整備に着手しながら、極秘裏に地下道を造り、各所にこうした交流ポイントを設けながら、ドールが出入りできるようにした。さながら俺は、この地下迷宮の主というところかな」

「ウフキル……そうか、ウフキル建設」


 僕はようやく目の前の男の正体に合点がいって頷いた。

 火星ではその名前を知らないほうが珍しい。ドーム建設を始めとするインフラ整備から開拓に至るまで、火星のテラフォーミングに多大な貢献を果たしている巨大企業の名前だ。


「そう構えないでくれ。会社の名前なんてのは所詮、親のものだ。俺の功績なんて何一つありはしない。この火星でだって、俺はお飾りの支社長にすぎないさ」


 ウフキルは溜息を吐く。その言葉は謙遜ではないのだろう。吐いた息に、疲労と無力感が滲む。


「ナナオ、君は火星のドールたちについてどう思う?」

「どう、ですか……?」

「ああ、そうだ。具体的には、彼らの現状……搾取の構造について」


 僕はすぐには解答できなかった。

 深く考えたことがなかったのだ。地球では隣人として扱われるドールが、この火星では単なる道具であること。事実としては理解していたが、その是非について考えたことなどない。地球は地球で、火星は火星。そういうものなのだと、思っていた。いや、思うことで疑問を持たないようにしていたのかもしれない。


「俺も君同様に地球の出身でね。小さい頃からドールに育てられたも同然だった。父も母も仕事で忙しく、俺を構ってなどくれなかった。だから俺にとってドールは親であり、友だった。だからこそ、火星に来てこの惨状に唖然としたよ」

「それで聖域を?」

「ああ。だけどいくらドール同士の繋がりを作ろうと、根本的な解決にはならなかった。だから俺はドールの互助会を組織したんだ。〈誰でもない者〉。ここにいるドールのほとんどがそのメンバーになっている」

「互助会、〈誰でもない者〉……」

「そう構えることはない。簡単に言ってしまえば、あらゆる職業を横断した労働組合のようなものだ。ドールの権利保証を是とし、最終的にはこの火星でのドールの労働環境を地球水準にまで上げることを目標にしている。だが言うは易し、というやつでね。なかなか成果には結びつかない」

「は、はぁ……」


 苦笑いを浮かべるウフキルに、僕は曖昧な相槌を返す。


「それに〈誰でもない者〉はまだ公にもなっていない互助会だ。これから動き出す力を蓄えている矢先、一つ問題が生じてね。なんだか分かるかい?」

「いえ、分かりません……」

「君だよ。ルイ・ナナオ」


 刹那、それまで朗らかに喋っていたウフキルの口調が急激に硬質さを帯びる。僕は思わず息を呑んだ。

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