第8話
二人は駆けた。
駆けながら差し料の柄を掴み鞘を握り鯉口を切る。
怪しい黝い姿の揺らめく結界まで一間。棒一本の距離つまりは六尺手前で立ち止まり抜刀する二人。伊右衛門は右、又左衛門は左。それぞれは目の前に浮遊する鬼火に向かって、閃光の様な捷さの斬撃を振り下ろした。が、黒光る刀身には何も映らず残光もない。
その捷さに鬼火の身は真っ二つに裂かれるはずだった。
しかし手応えはない。
ただ空振りをするが如く刃の先が地を示す。
だが、それも一瞬。
ならば、これらはそもそも幻か。
ならば、その鬼火の曲輪の内の怪しき影。仄く青白く輝く焔の柱。あれはどうしたものなのか。挙動も脈動も変わりなく、こちらの敵意を何も意に介してなどいないが如く、ただ、びぃぃぃぃぃぃんと低い唸りの様な音と共に細かく震えて、かりかりと凶爪を光柱に滑らせ、一心にこの世に剥き出ようとしていた。彼の禍々しい姿を包む眩い光輝は、妖の護光なのかこの世に隔てる壁なのかは定かではない。
酷い臭いだ。
やはり瘴気。それに不用意に近づくことはならないとは知れる。瘴気の妖幕に阻まれ近づいて剣先で抉ることもままならない。
だがやはり黒い妖異はその光柱に阻まれて、世に顕現出来ずにいる様にも見える。全てが得体が知れない。力業ではどうにもならないのかも知れない。正真、妖異であるからには方術か修法でなくては方がつかないのだろうか。
その時。
星が流れた。
かの如く伊右衛門の眸を横切る光を一瞬はそう思った。蒼白く輝く粒子が闇を鋭く切り裂く音と共に飛来して来たのだ。その光点は伊右衛門の目の前の鬼火を穿つと一直線に過ぎて大地に突き刺さった。光は消えたが矢羽が揺らいで止んだ。夜目にでも
誰かが何処からか矢を放ったのだ。
よもや狙われているのか。
辺りを見回す。
四方は闇。
路の両側は屋敷の壁と家屋。矢の飛来した角度からすると屋根の上などの高い位置か遠い場所から。探り見るも人影は知れず気配も分からない。未だ何も判然としないが用心の上、又左衛門に声を掛けた。
「
又左衛門は伊右衛門の言葉に耳を
又左衛門は箭を引き抜くと目を細めて鏃から矢羽まで確認した。
「未だ是れ一射。某の眼前の鬼火に当たり撃ち消しました」伊右衛門は構えて気を妖異に向けたまま言った。
又左衛門は貌を上げ辺りを注意深く見回した。
頭上は星空。周囲は深い闇。
目の前には妖焔の
「油断するな。狙われているやも知れぬ」
「承知」伊右衛門がそう肯んずる間もなく、また一つ星が流れた。星はまた一つ鬼火を音もなく屠った。
「おおっ」今度は又左衛門も目の当たりにした。
「何ゆえ・・・ 」我らの撃では斬ること
次の星が流れた。
一呼吸後に更にまた次の星。星は鬼火に引き寄せられるかの如く正確に当たり消し鎮めてゆく。遂に鬼火の姿は後一つ。
ぐごごごごごごごごごごごごごぐご
ここに来て、光輝を弱めた焔柱の内のモノが、精気の基種を失い化体を振えさせて、息が出来ないが如くにもがき始めていた。
黒い触手が頻繁に乱れ震え動く。
首が右に左に前に後ろにのづりのづりと伸びては縮んでもがいている。
「
「うむ、伊右衛門。拾え。矢を拾うのだ」輝きが喪失われぬ内にと又左衛門は思った。
そして手にしている矢を己の膂力の限りで妖焔の柱に向けて投げ撃った。投げられた矢はぶれながらも目掛けた焔柱に向かって飛び突き刺さった。
なんと矢は光柱を貫いて彼の黒い妖異に突き刺さった。
はぐりっ
妖異の眼球が動揺している。鋭突な口吻の様な裂け目が閉じたり開いたりしている。喘いでいるのか。
「それ、次の矢じゃ」又左衛門は伊右衛門に促す様に声をあげて、自らも次の矢を投げ撃った。
ぐさりっ。
けぇぇーーんんん
「おお、喘いでおるわ」又左衛門は嬉々として声をあげた。伊右衛門の投げた矢が刺さる。
はけぇぇーーんんん
妖異は身震いをした後、痛みに堪えかねた様に身をくねらせた。黒く細かい飛沫が光に消える。
はけぇぇーーんんん、はけぇぇーーんんん
それは断末魔の如く身を空に伸ばして咆えると、やがてぱらぱらとほぐれる様に地に落ちた。
てけり・・・てけり・り・・・
光柱の中は白い煙が底から五寸ほどの高さまで立ち昇っている。が、それもすぐ様たち消えた時、妖異の姿は影も形も喪失していた。後を追うかの様に光もその輝きを弱め柱も消えた。瘴気さえも失せていた。
てけり・・・てけり・り・・・
伊右衛門と又左衛門は用心しながらも彼の辺りに近づいてみた。
モノは消えていたが居た場所には何やら痕跡が見てとれる。又左衛門が更に見定め様と、片膝を着いて殊更に顔を近づけた。
「婿殿、火打ちは有るか」又左衛門は振り向かずに聞いた。「持参しております」伊右衛門は懐から小さな箱を取り出して又左衛門に渡した。受け取った又左衛門は懐紙を取り出すと揉みしだいて裂き、かちりかちりと火花を打って火を点けた。仄かな明かりが地面を照らす。
炎にかざされた地面には、紋様らしき凹凸が浮き彫りにされた。
彼の土辺りには一面何か這いずった様な波打ち、それでいて文字文様が如くに記された様な幾何が残されていた。その正確な円陣は明らかに作為と見てとれた。
後にそれらの文様は画文帯神獣紋様と知れる。もっとも、神獣の姿は格別に異様ではあったのだが。
二人はその紋様を記憶に留めた。
又左衛門が足裏で踏み、ずりりと揉み消してゆく。
残してはおけない異形の円陣は跡形も無くなった。
闇に吸い取られた如くに炎は燃え尽きた。辺りが暗く閉ざされた。寂漠とした闇だ。何も顕さない無常を深める闇。そこに生まれ出ようとする禍々しい異質。光を善しとする人の心の内にも有る闇にも、定まらぬ何かを産み落とそうとする作為が、何処かで蠢いている気配だけが江戸の町に覆い被さろうとしている。
伊右衛門は消え失せた明かりの中での又左衛門のくらい表情を憶えていた。
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