第三章 ドラゴニュート

1 上皇

 あきらは手を伸ばす。濡羽色の髪がさらさらと手からこぼれていく。

 好きねえ、と夕陽ゆうひがくすくす笑う。彼女の吐息が明の肌をくすぐる。

 遊びに行くから泊まれる準備をしておいてほしい、と夕陽から急に言われて、明は大慌ててで自室を片付け、両親におもてなしの用意を言いつけ、人型作業機械アンチ・ヒューマンに買い出しに行かせた。

 夕方過ぎに手土産を持って現れた夕陽は、街灯の照らすなかでぼんやり光って見えた。

 それから夕陽は如才なく両親と会話して、明はなんだかびっくりするぐらい楽しい夕食会を経て、楽しすぎてなにを食べたのかさっぱり思い出せないのだった。

 夕陽に誘われたけど一緒にお風呂に入るのはさすがに恥ずかしくて、別々に入ってからお揃いのジェラートピケに着替え、六畳の部屋に布団を並べて横になったのだ。

 だからといって、明はすぐに寝られる気はしなかった。隣に夕陽がいるのだ。寝るのが惜しかった。いろいろなことを話して話して、楽しすぎてささいなことで笑いころげて時間が飛ぶように過ぎていった。そうして、さすがにちょっと明が眠くなってきたときだった。

「レイメイは、これからどうするの?」

 手の中から髪がこぼれ落ちていく――不意に投げかけられた問いに、明は茫然とした。

 夕陽は未来のことを考えている。

 明には、いまここ以外のことはなにも考えられなかった。

 ただひとり生き残った人類だと言われ、それでも諦めきれずに死にたい死にたいとうめきながら、夕陽に会いに行こうとしているだけだ。

 隣に寝ているはずの夕陽からは、風呂上がりの匂いがしなかった。

 手の中からも感触はうすれて、残っていない。

 このときレイメイがなんと答えたのか、もう彼女自身も覚えていない。二百年と少しまえの出来事だ。ひとが外部装置の補助なしに記憶を保持しておくには、無理のある年月だ。

 ガタン、という衝撃でレイメイは目覚めた。

 ストレッチャーが屹立した。レイメイは拘束されたままだ。

 レイメイの正面には、一段高くなったところに人が座っている。いや、竜人族ドラグニュートだ。長い竜髪を畳に垂らし、鮮やかな紫紺を基調とした環境スーツを身にまとっている。薄い層状の素材をいくつも重ねており、かつての着流しや和服のようでありながらどこか違和感を覚えるデザインだった。彼が座っている上段は本格的な書院造りとなっており、花鳥の欄間が目に鮮やかだった。

 二匹の黒い蛇が畳を這っていることに、レイメイは気がついた。竜人族の髪だ。意志を持っているように長い竜髪が迫ってくる。レイメイまでたどり着くと環境適応服EnvironmentSuitsを這い登り、竜人族にとってちょうど竜髪が生えているあたりで――硬質な音を立ててバイザーに弾かれた。

 怜悧なおもてを少し驚きに染め、仕方がないと竜人族の男は口を開く。

「失礼。改めて初めまして、私は上皇オーバーロード、竜人族を束ねる者です」

 どこか遠くから水の流れる音が聞こえる。本当に久しぶりに聞いた気がする。この塔のなかでそんな音が聞こえることの不自然さに、上皇と名乗った竜人族の言葉が耳に入ってこない。

「急に呼びたててしまいましたね。お名前を、聞かせてもらえますか?」

 上皇の竜髪が再度レイメイに向かって伸びてくる。そのときになって部屋の両脇に幾人もの竜人が控えていることに気がつく。色とりどりの積層構造の環境スーツを着ている。そして、上皇と同じように、いくつもの竜髪が伸びてきた。黒い蛇が押し寄せる波のように、レイメイへと近づいてくる。

「どうせ、知ってるんでしょ?」

 ゴシックドレスのすそが視界の端で揺れて、ふわりとユウヒが現れ、上皇へ舌を出して見せる。電子的なロックが解除され、自由の身になったのだ。

「私はレイメイ……」

 自分でも思った以上に疲れた声だった。

 そのことに、ユウヒが顔を歪める。

「上皇よ、どういう了見か。わが虎目の公主オーバーロードの領域を侵し、あまつさえレイメイを強奪するとは!」

 ネルヴァの批難を、手を上げて上皇がさえぎる。

「手荒な真似をしてしまいましたね。ただ、虎目の公主タイガーズアイ殿がやすやすとレイメイ殿をお譲りいただけるとは思えませんでしたので」

「そもそも何なのよ、竜人族ドラゴニュートって、ヒトじゃないの?」

 レイメイのうめくような問いかけ。

 侮りのある笑いが、さざなみのように広がっていく。

 ユウヒの顔が怒りでさらに歪んだ。

「レイメイよ、わかっていると思うが竜人族の最大の特徴は、頭部に竜髪があることだ。それ以外は身体的に旧人類と大差ないのだ!」

 故に我々マシーナリーよりも劣っている、とネルヴァが言外に言い切る。

 竜人族の笑いがいっそう深くなった。

「ネルヴァ〜、なんか違うみたいよ〜」

 ユウヒがからかう。

 それって八つ当たりじゃん、とレイメイはぼんやり思う。なんでホログラムAIが八つ当たりなんかするんだろう――。

「いえいえ、そんなことはありません。我々の多くはさほど旧人類とは違わないのです。ただのその違いが、決定的であるというだけで」

 空気が急速に冷えこむような、怜悧な笑いを浮かべ、上皇は言葉を続ける。

「お願いがあります、レイメイ殿。我々竜人族の悲願のため、ご助力ください」

 依頼のようでいて命令だった。他者に指示することに慣れきったものの言葉――ユウヒは顔を歪め、レイメイはぼんやりと聞いている。いまの自分にそんなことができるとは到底思えなかった。

「いまここで! 私が自爆したらどうするというのだ!」

 上皇の一方的な要求に、憤慨したネルヴァが羽根をばたつかせる。

「仮にそうであったとして――そうですね、大きくふたつの問題があります」

「それがなんだと――」

 上皇が手をあげ、ネルヴァをさえぎる。

「ひとつは単純なことですが、戦争が始まります。あなたの攻撃によって私が死亡し、階層フロア間の小競り合いではなく全面的な戦争が。竜人族われわれ機械知性マシーナリーとの百年ぶりの、全面戦争が」

「そんなもの! 我が公主オーバーロードは望むところ――」

「そしてもうひとつは、レイメイ殿も死亡するでしょう。いま、ここで、速やかに」

「それはすごくうれしい」

 思わず本音がこぼれた。ずっと抱えていて、抱えきれずにあふれてしまった。

 ネルヴァはその言葉に目を剥き、上皇は興味深い顔を浮かべ、ユウヒは――ホログラムAI相手に怖がっても仕方がないのにどうしてかレイメイは、ユウヒの顔を見ることができなかった。

「どうかしたのですか?」

 気まずい沈黙を破ったのは、幼さの残る声だった。

 のたのたとした足取りで子どもが謁見室に入ってくる。大人用の環境スーツの着丈を短くして、それでも裾をひきずるように歩いていた。おかっぱの前髪、その生え際から竜髪が伸びている。だが、上皇やそばに控える竜人たちに比べると明らかに短かった。

「交渉が難航している? 父上、いや上皇陛下よ。そんなことよりも早く用件を伝えるべきではありませんか?」

 旧人類にかまけている暇はありませんよ、と言わんばかりの口調。レイメイを見ることもなく、上申する姿勢は幼子のそれではなかった。

「わかったわかった、御子みこよ、おまえの言う通りだ」

 そう苦笑すると上皇はレイメイに協力の内容を提示した。

 竜人族は、長命化による免疫力の低下が問題となっており、旧人類を研究対象とすることでその問題を解決したい。もちろん研究対象とはいっても賓客として扱う。ここにずっと住めばいい。機械知性どもよりもよっぽど快適な生活を約束する――と目下の者に伝えることに慣れきった口調で、上皇は続ける。

 その時だった。

「そんなの無理! レイメイは地上に行くんだから!」

 ユウヒが上皇の演説をさえぎる。腕を大きく広げ、レイメイをかばうように、上皇のまえに立つ。立ってくれている。

 身体の底から震えがわきあがってくる。

 ユウヒに夕陽を見てしまう。

 彼女が味方になってくれている――その事実に、レイメイは身体の震えを抑えられない。

 仕方のないことだった。ユウヒはいつだって私の味方でいてくれる。安心できる、大切な存在だ。そんな彼女が自分をかばってくれている――。

「しかしどうやって? この場から? 我々から逃げられるとでも?」

 上皇の言葉に、追従のくすくす笑いが広がっていく。

「かんたんよ」

 ユウヒは負けなかった。

「ここに衛星を落とすわ」

 竜人たちが色めきだった。

「あたしのコントロール下にいくつか古ぅい人工衛星があるの。処分するのにちょうどいいわ。それをここに落としてあげる。どうなるかはわかるでしょ?」

 この階層に大穴が空いて、ひとが住める場所ではなくなってしまう。

「だから、それが嫌だったらあたし達を解放しなさい!」

「おまえにロックをかけてしまえば問題ないのでは?」

 幼さの残る声が、竜人族を静めた。御子がなんてことのないように言うのだった。

「ご忠告どーも。でもね、少年。そんなのあたしだってわかってる。だからね、もう動かしてる。こっちに向かわせてるの。そうね、だいたいあと二時間ぐらい」

「上皇!」「陛下!」竜人たちがさんざめく。彼ら独自のネットワークでユウヒの言葉が事実であると確認したのだろう。

「――わかった。これは交渉だ。そういうことだな、ホログラムAIよ、ユウヒよ、レイメイ殿の身柄は解放しよう」

「あたし達がここから脱するまでは、軌道を変更することはできない」

「わかっている。早急に送らせよう」

「それと、人質がほしい」

 地上に行くまで放っておいてもらわないとだしね、とユウヒは御子を指差す。

 レイメイが動き出す。彼女の身を守る環境適応服であり、彼女の動作を補助する強化外骨格でもあるEスーツがレイメイを動かし、御子を小脇に抱える。

「監視してもいいし、誰かついてきてもいいけど、少年の頭が胴体から離れるような、そんなことにならないよう気をつけてね」

 きっと首をねじ切るのはユウヒが動かすレイメイだ。

 ああ、ユウヒに感じていた夕陽がどんどん強くなっていく。――どうしても涙があふれてしまう。ここはちゃんと目をあけて、見ておかなければ。

「ほら、レイメイ、ぼうっとしてないで。大丈夫? 歩けそ?」

 レイメイは首だけでうなずき、Eスーツに支えられて歩き出す。夕陽の待つ、地上に向かうのだ。この建物が、この階層がどうなっているのかわからかないけれど、いまのレイメイにはユウヒがいる。そう思ってしまっている自分に、レイメイはどこか安堵すらしていた。

 ネルヴァが風を切って先導する。その後を追って、ユウヒがふわりと飛びあがる。レイメイをふりむき、白い手をさしだしてくる。レイメイはその手を握って、歩き出した。

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