第七話

「カミラ。折り入って話があります」

「何かしら?」


 あくる日の朝、ダレルはフォーサイス公爵家を訪れた。応接間で迎えたカミラが浮かべる社交辞令の笑顔が覆い隠す気だるさに気づいていないふりをして、ダレルも微笑を張りつける。


「――貴方との婚約を、破棄させていただきたい」


 ダレルを見つめる紅蓮の瞳が一瞬だけ輝いた。しかしそれを隠すように、カミラは呆れた風を装って自らの肩にかかった金の髪を払いのける。


「あなた、自分が何をおっしゃってるかわかってらっしゃるの?」


 ようやく第一王子が墓穴を掘った。そんなカミラの心の声が聴こえた気がして、ダレルは思わず心の中で笑ってしまった。

 そう、ダレルはこれからカミラとオーガストの思い通りに踊り狂う。愛に惑い、恋に溺れ、責任を忘れた道化師のように。


「ええ。ですが私は気づいたのです。世の中には、何よりも大切なものがあるのだと」

「大切なもの?」

「真実の愛ですよ。愛する人のためならば、たとえ世界を敵に回しても構わない。この想いを貫く事ができるなら、何を失っても構わない」


 その言葉はカミラを呆れさせるためのものであると同時に、ダレルの本心でもあった。コーディリアのためならすべてをなげうてる。その覚悟はもう決めていた。


「私は真に愛するべき人を見つけました。ウォーカー伯爵家の客人コーディリア。彼女こそが私の生涯の伴侶となるべき方です」

「……」


 これでダレルは公爵令嬢という婚約者と名門公爵家の後ろ盾を自ら手放した事になる。カミラは笑みをこらえるのに必死だろう。第一王子は恋に狂って頭の中に花畑を作ってしまったのだ。彼女にとってこれほど愉快な事はないに違いない。

 ダレルとカミラの婚約は、カミラ側からでは白紙にできない。たとえどれだけこの関係をカミラが望んでいなかったとしても、彼女の父である公爵は円満な解消など受け入れないだろう。だからこそ二人の関係に終止符を打つのは、ダレル側から一方的に告げる破棄しかありえなかった。


「それがあなたの答えなら、わたくしからは何も言う事はありませんわ。どうかお幸せに、ダレル殿下」


 最後の言葉は嫌味かそれとも憐憫か。どちらでも構わない。ダレルは笑顔のまま公爵邸を後にした。

 ダレルがカミラを袖にした事は、たちまちのうちに知れ渡るだろう。しかし父王にはすでに話を通してある。あとは婚約が正式に破棄され、新たな婚約が結ばれる時を待つだけだ。


* * *


「そなたから継承権の返上を命じたうえで、オーガストを王太子とする」


 四人とも顔を上げよ。続くライアンの言葉に彼らは従う。ライアンの視線の先にいるのはコーディリアだった。


「……コーディリア。もう、よいのではないか?」 


 滴る脂汗を拭う国王の顔色はどことなく悪いように感じる。まるで怯えているようだ。それに疑問を覚えたのはオーガストだった。この尊大が服を着て歩いているような父王が、一体何に怯えているのだろう?


「ええ、もう結構ですわ。陛下、ありがとう存じます。……わたくし達の我が儘に付き合せてしまって、申し訳ございません」

「めっそうもございませぬ、コーディリア様。さぁ、どうぞお立ちになられてください」


 騒めきが謁見の間を満たす。立会人ならともかく、王と謁見している者が立ち上がるなどめったな事ではありえない。そのうえ王が急に態度を変えてへりくだるなど。だが、そんな困惑の視線をものともせずにコーディリアは微笑を浮かべながら立ち上がった。


「ライアン国王陛下。先のお言葉は、ダレル王子とわたくしの結婚を認めるだけではなく、ダレル王子をわたくしの婿として認めてくださる、という事でよろしいのですよね?」

「……婿?」


 カミラは思わず呟いた。果たしてコーディリアは何を言っているのだろう。

 この国におけるコーディリアの後見人はウォーカー伯爵だが、王家を追放されたダレルとその原因を作ったコーディリアをウォーカー伯爵が歓迎するとは思えない。だからカミラは、ウォーカー伯爵は婿としてダレルを迎えるのではなく、コーディリアを嫁としてダレルに押しつけて彼女の祖国に帰すのだとばかり思っていた。しかし、当のコーディリアはダレルを婿にしたがっているようだ。

 まさかウォーカー伯爵がダレルを歓迎してくれるだろうだなどと、この後に及んで現実がわからない話をしだす事もないだろう。それなら彼女は、ウォーカー伯爵家ではなく故国の生家に婿入りを求めているのだろうか。異国で醜聞を作った男を、娘の我が儘で婿としなければならないコーディリアの実家に憐れみを覚えるが、それはすぐに嘲笑に上書きされた。


「ええ。そちらの提案は受け入れさせていただきましょう。……ところで、コーディリア様」


 ライアンは窺うような視線をコーディリアに向けた。コーディリアは微笑を浮かべ、懐から一枚の羊皮紙を取りだす。


「これは我が父より賜った書簡でございます」


 では、読み上げさせていただきます。湛える微笑はそのままに、コーディリアはそう言って羊皮紙を胸の辺りで高く掲げた。この手の震えを悟られるのはダレルだけでいい。そしてダレルさえいてくれれば、この程度の事など乗り越えられる。安心させるような笑みを浮かべて自分を見上げるダレルの存在に安堵を覚えながら、コーディリアは喧騒さえ静まらせる朗々とした声を響かせた。


「一つ、グレーツェン王国第一王子ダレルは、グレーツェン王族としての権利を破棄する事。一つ、グレーツェン王国とエルアス帝国は、ダレルとコーディリアを仲介としてよき友人となる事」 


 エルアス帝国。それはコーディリアの祖国の名だ――――しかし何故、今その名前が出てくる? オーガストの頭は疑問符で埋め尽くされた。そしてそれはカミラやミッチェルはもちろん、この場にいる貴族達も同様だ。例外なのはウォーカー家の面々と、ダレルとライアンだけだった。

 読み上げられる項目は、ダレルとコーディリアの婚姻にまつわる事だけではない。政治的な、外交的な項目ばかりがずらずらと並ぶ書簡をすべて読み終え、コーディリアは深々と頭を下げた。


「後日、父より正式に遣わされた使者が陛下のもとに訪れる事でしょう。詳細な条約は、その時に結んでいただければと存じます」

「あいわかった。……では、どうぞよしなに」


 下がってもいいと示され、ダレルはおもむろに立ち上がる。ダレルと並び、コーディリアはドレスの裾をつまんだ。


「我が国は、グレーツェンからの皇配こうはいを歓迎いたします――グレーツェン王国第一王子ダレル・グレーツェニウス様と、エルアス帝国第一皇女コーディリア・ド・エルアスの婚姻をもって、グレーツェン王国とエルアス帝国の恒久的な平和が結ばれますように」


 貴族達のどよめきがいっそう大きくなった。ミッチェルとオーガスト、そしてカミラ。三人の顔色と表情も面白いほどくるくると変わる。だが、ダレルとコーディリアは彼らに一礼するだけにとどめて謁見の間を後にした。



「緊張しました……」


 ダレルの部屋で二人きりになり、コーディリアはようやくほっと息を吐く。ダレルは微笑を浮かべながら着席を勧め、お茶の支度をした。


「貴方のおかげで、私はようやくグレーツェンの呪縛から自由になる事ができました。ありがとう、コーディリア」

「お礼なんて、そんな……。わたくしはただ、あなたに幸せになってもらいたかっただけですもの」


 ダレルがコーディリアの前にティーカップを置くと、頬を赤く染めたコーディリアは目を伏せる。長いまつげが切なげに震えていた。


「それにしても、わたくしの名を告げた時の皆様はたいそう驚いていらっしゃいましたね。……わたくしは、それほどまでに皇女としての貫録が備わっていないのでしょうか」

「考え過ぎですよ。まさか帝国の皇女様が、身分を偽って遊学に来たなど誰も思わないでしょう?」


 冗談めかして唇を尖らせるコーディリアに、ダレルも口元を綻ばせる。眼前の少女が大帝国の帝位継承権第一位の座についていると知った時は自分も驚いたものだ。

 わざわざライアンを巻き込み、コーディリアの身分を限界まで隠したまま婚約発表を行ったのは、ミッチェルからの横槍を防ぐためだ。実子を差し置いて継子が大帝国の皇女を射止めたと知れば、彼女がどんな反応をするかは目に見えている。そのための一芝居だったのだが、予想以上に反響が大きかったようだ。

 コーディリアが帝国の皇女だと最初から知っていたのは、国王ライアンとウォーカー伯爵夫妻程度のものだろう。もしも王妃ミッチェルがそれを知っていたとしたら、オーガストをコーディリアに近づけさせていたはずだ。ダレルとは一度も接触させようともしないだろう。そうやって、コーディリアとオーガストを結ばせようとするに決まっている。しかしそれをしなかったという事は、ミッチェルはコーディリアの素性を知らなかったという事に他ならない。

 身分を隠して他国に遊学するのは、成人前の帝国皇族のならわしらしい。公平な視点から他国のありようを知り、国に帰って来た時にその経験を活かして政を行う事を目的としているそうだ。

 コーディリアの遊学先にはグレーツェン王国が選ばれた。ウォーカー伯爵の弟が、エルアスの宮廷でひとかどの地位を築いているからだ。彼は貿易で財を成しており、見識が深いこともあっていい相談役として多くの宮廷人達から取り立てられているらしい。

 ウォーカー伯爵という伝手を辿って王国にやってきた異国の少女を愛おしげに見つめ、ダレルは神に、そして彼女に感謝した。今までの不幸も、すべてはこの幸運のためだと思えばどうという事はない。


「ですが、本当によろしかったのですか? 国を離れたいがために、好きでもない、」

「コーディリア」

「っ!」


 ダレルは険しい顔をしてコーディリアの言葉を遮った。だが、その表情はすぐにやわらぐ。

 そういえば、覚悟は決めたが彼女の気持ちに応えるような事を言っていなかった。とうに通じ合っていると思っていたから、わざわざ口にするまでもないと思っていたのだ。この三ヶ月間、コーディリアはその事を気に病んでいたのだろうか。それならば、彼女のそれは杞憂であると伝えなければ。

 跪いてコーディリアの手を取ったダレルは、そのまま彼女の手の甲にキスをした。コーディリアの顔がさらに赤くなる。あでやかな赤い髪と相まって、まるで顔がめらめらと燃えているようだ。コーディリアはぱくぱくと口を動かして言葉にならない声をあげた。


「貴方がいようがいまいが、私はいずれカミラとの婚約を破棄して王子の地位を剥奪されていたでしょう。……そして貴方がいなければ、私は貴方とともに帝国に行こうとはしなかった」


 愛しています、ディリィ。そう小さな声で囁くダレルの顔もまた赤い。コーディリアは感涙に瞳を潤ませ、花が咲いたような笑みを浮かべる。


 ――――こうして第一王子が公爵令嬢との婚約を破棄した事で、すべてが丸く収まった。

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王子が婚約を破棄したら 角見有無 @Ca_D_mium-48

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