観葉植物の夜

Ⅰ|京美 

 四十代を半ばを過ぎて離婚した京美きょうみは、実家から電車で二駅、味の素スタジアムの最寄りでもある飛田給駅からほど近い住宅街に小さな家を構えた。

 中古とはいえ、別れ際にもらった財産分与の一部で購入したものだった。

 実家の母は「戻ってくればいいじゃない」と何度も言ったが、子どももいないし、生活に当面の不安もなかったから、誰にも邪魔されず、一人で静かに暮らすことを望んだ。


 そうして穏やかな一人暮らしが始まった矢先、世界はあの新型コロナウイルスの騒動に呑み込まれた。

「一人のんびり暮らす」といっても、出歩くことすらままならなくなってみると、その“のんびり”が少しばかり鬱屈としたものに変わっていく。

 閉じられた部屋。ヒステリックなテレビ、ネットでの騒動を映し出すスマホ。やがて有り余る時間の使い方を見失い、日々は淡く、無為に流れた。


 そんなある日、「公園なら問題ないでしょう」と思いついて、京美は神代植物公園へ足を運んだ。

 目にしたのは、整然と並んだ植物たちの静謐な美しさ。中でもベゴニアが目にとまった。鮮やかな花を咲かせるものもあったが、彼女の目を惹いたのは、小ぶりで葉に美しい模様の入った種類だった。繊細で、けれどどこか力強い。


 その足で深大寺方面へ抜けると、小さな園芸店がいくつも並んでいた。

 その中の一軒で、「原種ベゴニア」という聞き慣れない名の植物が売られており、京美はひと鉢買い求めた。

 可愛らしく、掌ほどの大きさで、まるで手のひらに載せたガラス細工のようだった。すぐに愛着が湧き、リビングの窓辺に置いて毎日眺めた。


 だが、それも長くは続かなかった。数日もしないうちに、ベゴニアは葉を丸め、やがて静かに枯れてしまった。

 失った小さな命に、京美は奇妙なほどの寂しさを覚えた。人ひとり消えてしまったような──そんな錯覚。


 その夜、彼女はネットで「原種ベゴニア」と検索した。

 葉の形も模様も実に多様で、ひとつひとつに名前があり、育て方もそれぞれに多少異なっていた。なかにはネットフリマで出品されているものもあった。


 ほどなくして、京美はネットフリマで何鉢かを購入した。

 届いたベゴニアたちは、どれもどこか儚げで、神経質そうだった。だが、やはりうまく育てられない。土が悪いのか、水やりが下手なのか。葉は茶色くなり、茎はしおれ、また一鉢、また一鉢と枯れていく。

 ある出品者に相談すると、思いがけず丁寧な返信があった。


 ──育て方も大事ですが、環境のほうがもっと大切ですよ。

 ──うちはガラス水槽で管理しています。湿度と光のバランスが決め手です。


 ガラス水槽、と言われても、京美にはピンとこなかった。ペットショップで見かけるあれだろうか? そんな疑問を投げかけると、出品者はさらに具体的なアドバイスをくれた。


 そしてある日、その人はふいにこう申し出たのだ。


 「もしよければ、直接手ほどきしましょうか?」


Ⅱ|出会いの午後

 ネットで少しやりとりをしただけの相手と会う──それはやはり、どこかしら不安があった。

 けれど相手は「植物の話をしたい」という人だったし、やりとりも穏やかで誠実だった。そもそも、ベゴニアについてこれほど詳しく、愛情深く語れる人に悪い人がいるとも思えなかった。

 それに、寂しさというものは、ときに警戒心よりも強く働く。


 そうして京美は、直接会って話をすることに決めた。

 とはいえ、自宅近くの駅で会うのは気が進まなかった。何かあったときに、自分の生活圏に関係を残したくなかったのだ。

 そこで彼女は、実家の最寄り駅にある「珈琲館」を待ち合わせ場所に指定した。


 待ち合わせの前にふらりと実家に立ち寄った。

 母は久しぶりの訪問に驚きつつも、どこか嬉しそうだった。近況をざっと話し、最近は植物栽培に凝っていることを少しだけ語った。「あんた昔から凝り性だものね」と母は笑い、「また変な虫とか連れてこないようにね」と付け加えた。

 もちろんこのあと、ネットで知り合った人と会う、なんて話はしない。


 待ち合わせの時間より十分早く、京美は珈琲館に入った。

 広すぎず、静かで、少しだけレトロな落ち着いた店。

 午後の光がカーテン越しに差し込んでいて、植物の話をするにはちょうどよさそうな空気感だった。

 窓際の二人がけのテーブルを選び、カフェラテを頼む。指先がやや冷たく、カップを包むとほっとした。


 五分ほど経った頃、ひとりの人物が入ってきた。長身で、マスクをした男性。

 目元は柔らかく、少し落ち着きなく店内を見回していた。


 ──あの人だ。


 京美にはすぐ分かった。やり取りしていた文章からもなんとなく分かる感じ。そんな感じの人。立ち上がり、軽く手を上げて近づいた。


 「恩田さんですね? 京美です。こんにちは」


 男性は少し驚いたように目を細めたが、すぐに頭を下げた。


 「初めまして、恩田です。フリマではいつもありがとうございます」


 その声には、年齢相応の落ち着きと、どこか植物を扱う人らしい優しさがあった。どぎまぎするような派手さはなく、安心感があった。

 マスク越しにでもわかる笑みが、ほんの少しだけ、京美の肩から緊張を解いた。


Ⅲ|ベゴニアの話、それから少しだけ

 二人は向かい合わせに腰を下ろし、改めて軽く会釈を交わした。

 京美はすでにカフェラテを手にしていたが、恩田はホットコーヒーを頼み、届くまでのあいだ、卓上のメニューを眺めながらこう言った。


 「写真と違って、ベゴニアって実際に育ててみないと分からないことも多いんですよね」


 「そうですね。ネットだと立派に育った葉の写真がたくさんあって……自分が育てると、全然違ってがっかりする」


 「環境って、本当に大きいんです。温度、湿度、日照。それに空気の流れ……人間の部屋って、実はあんまり植物向きじゃない」


 届いたコーヒーの湯気が、ふわりと二人のあいだに揺れる。

 恩田はカップを手に取りながら、ぽつりと言った。


 「僕が植物を育て始めたのは、ちょっとしたきっかけでね」


 京美はうなずいた。「どんな?」


 「数年前に、妻が……亡くなって。それからかな。なんか、部屋の中が空っぽで。

  無理に何か置こうとしても意味がなくて。でも、ふと鉢植えをひとつ置いてみたら、それだけで部屋の空気が少し変わった。生きてるっていうか……」


 それは、予想よりもずっと重い告白だった。

 けれど、話しぶりに重たさはなかった。語り慣れているようでもなく、むしろ、ようやく口に出せるようになったというような、慎ましさがあった。


 京美は言葉を選んでから、そっと返した。


 「それ、すごくわかる気がします。

 一人でいる時間が長くなると……部屋の空気が、閉じるんですよね。何かが、どこにも流れていかなくなる感じで」


 恩田は軽く笑いながら、「そうそう」と言った。


 「で、気づいたら熱帯植物にどっぷり。気難しいけど、それがまたいい」


 「私、原種ベゴニアって、育てる前はもっとベゴニアは育てやすい素直な子かと思ってました。すぐ萎れるし、気難しい……ちょっと、昔の自分みたいだなって思ったりして」

 思わず言ってしまった言葉に、京美は少しだけ照れた。

 けれど恩田は、「ベゴニアって、まさにそういう生き物かもしれませんね」と優しく返してくれた。


 そのあとも、二人は数十分、育てた品種の名前や、置き場所の工夫、水やりのタイミングなど、あれこれと話をした。植物の話は、どこまでも尽きなかった。


 「これ、よかったらどうぞ」

 帰り際、恩田が小さな紙袋を差し出した。


 中には、透明なプラケースに入った小さな葉挿しがひとつ。赤茶色の斑が入った、原種のベゴニアだった。品種名は──ベゴニア・ネグロセンシス。

 「あ、この前分けていただいて枯らしちゃったやつだ。」とても美しく出来ていて、葉の色合いはどこか妖しいほどに赤い点が美しく、京美の心に小さな灯がともった。


 「この大きさなら大丈夫でしょう。少し湿度が要りますけど、水槽まではいかなくても、プラケースに入れるだけで大丈夫。もし失敗しても、また送りますから」


 「……ありがとうございます。本当に綺麗ですね」


 恩田は自分のことのようにうれしそうな表情をした。


Ⅳ|神代植物公園

 それから何度か、京美と恩田は会うようになった。

 きっかけは、どちらともなく「また今度」と言い合ったあの日からだった。新型コロナの影響で、長らく人に会わずにいた日々の静けさは、いまや少しずつ、温もりをともなったものに変わりつつあった。


 恩田は、自宅のマンションでリモートワークをしているという。一人暮らしになって空間に余裕もあり、趣味で育てていた観葉植物をネットで販売するようになったそうだ。「月に一万円前後の副収入なるんですよ」と、少年のような笑顔で話していた。


 ある日、神代植物公園へ出かけた。

 まるでデートのように。

 大温室のなか、恩田は得意げに熱帯植物たちの名や性質を語り、京美はその語り口に、柔らかな愛情を感じた。前に訪れてから二度目となるベゴニアの展示室では、前よりも花の数が多く、深紅の花々が湿気をまといながら空気を染めていた。

 ふいに、胸の奥がざわめいた。圧倒されるような花の密度に、どこか官能的な気配さえ感じていた。


 温室を出たあと、広場にレジャーシートを広げ、京美が持参したサンドイッチをふたりで食べた。恩田が「おいしいですね」と嬉しそうに口にしたのが、妙に印象に残った。


V|静かな宇宙のオアシス

 京美の部屋には、いま、小さな水槽がある。

 恩田と新宿のデパート屋上の熱帯魚売り場で選び、あれこれと相談しながら揃えたものだった。恩田が丁寧にセットアップしてくれたその空間は、ミニチュアの熱帯雨林──パルダリウム──まるで「アバター」の中に出てくるような幻想的な景観を映している。


 夜になると部屋の照明を落とす。

 そのLEDライトだけ光る。青く揺れる湿潤の森が、部屋の中に静かに息づく。暗闇の中で、それだけが異界のように浮かび上がり、京美の心はそのまま深い安らぎに落ちていった。


 そして、その夜──


 ベッドが微かに軋む。

 指先が京美の肌に触れた。

 乳房を優しく包み、やがて唇が首筋を這い、静かに口づける。舌が触れ合い、ふいに、京美の喉が小さく震えた。


 「ん……」


 繊細な指が、秘めた場所をそっとなぞり、京美の身体が、まるで波紋のように静かに震える。

 感覚が、内側から拡がり、どこまでも深く沁みわたっていく。恩田の動きは、丁寧で、まるで植物を植え替えるときのような繊細さを帯びていた。


 やがて、身体と身体が重なり合う。

 突き刺すような激情ではない。

 だが、それだけに──そのぬくもりと律動は、深く、静かに、京美のすべてを貫いた。


 宇宙が、揺れていた。

 脳裏の奥に、湿ったジャングルの匂いと、赤いベゴニアの花弁が滲む。

 京美の内側で、何かがそっと芽吹く音がした。


 目が覚めると、パルダリウムはまだ灯っていなかった。

 部屋の中は薄暗く、カーテンの隙間から朝の光が一筋、床を横切っている。


 京美は、右の掌で左の乳房をそっと包んだ。

 そこには、柔らかな疼きと熱量がある感じがした。

 タイマーが働いてパルダリウムのLED照明が灯された。

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