梅の香
梅の花の薫りを知っているだろうか。
知っている人は花好きの認定を授与するとして、知らない人は想像してみてほしい。
かく言う私は隣のお方に教わるまで知らなかった。
梅と言えばしわくちゃになった球体の赤い果実を想像し、唾液が分泌されまいか。
そう、梅の薫りを考えると梅干、わざとらしい梅の香料、人によっては梅酒の匂いのようなものを想像するはずだ。
私は凡人であり人類の八割は凡人なので同じ考えを持つに違いないのである。統計をとったことはない。
しかし、実際に目の前にある鈴なりの梅の花に鼻を近づけてみて、その幻想は打ち砕かれたのである。
何ともつつましく可憐な花の薫りではないか。
花だからあたり前なのだが、梅干の強力な匂いのイメージが頭に付いていて意外に思ってしまったのである。
さらに、梅園にいても鼻を近づけなければわからない程度の薫りなのだ。金木犀のように自己主張するタイプではなく、まさにつつましい薫りだった。
さて、二か月程前の寒さに凍える季節に遡るのだが、私は大学の食堂でうどんとコロッケを食べていた。
何故うどんとコロッケなのか。
安さと栄養を突き詰めたときに現れる解答の一つだからである。合計百八十円のもたらす量と質と栄養は他のメニューを圧倒するだろう。
しかし、今はそんな事が問題なのではない。
私の視界の端に映る、当時は名も知らぬ女性がメインである。
仮にAさんとしよう。
Aさんは私が座るテーブルから二つ先かつ通路を挟んで隣のテーブルの席に座っている。
この位置であれば正面を見れば直視せずとも視界に入り、自然な観察ができるのだ。
Aさんは必ず再利用できるプラスチック製のお箸をお盆に乗せ、丼小二百五十円を注文し、セルフサービスの水を入れる。今日は鶏カラ丼だ。
良いチョイスである。
ちなみに再利用されるお箸を何とか自分のものにできないかと考えたことはあるが私は変態ではない。
なんとなく他の人に使われるのが嫌という気持ちから出たものであってそれを悪用するわけではないのだ。
そんなピュアな気持ちの私を変態呼ばわりすることは許されないだろう。
ただ、割りばしがあるにも関わらず、再利用できるお箸をチョイスするところは、素晴らしいと思う。
ところで、この建物は一階がラウンジ、二階が食堂、三階が物品販売という三層構造をしている。
ここで食事をする前、Aさんは必ず三階の本屋で立ち読みをする。
そして、食堂が空いてくる二時頃になったら近くの階段から降りて行くのである。
ちなみに私は二時前にAさんの姿を確認し、お菓子コーナーに行ってAさんが動き出すと同時にうまい棒を手にとりレジで清算して同じ階段から降りるのがセオリーである。
一応言っておくがストーカーではない。
たまたま同じ行動パターンなだけである。
万が一これがストーカーだとしたら、有名人のファンは全員ストーカー認定されるはずで、警察は大変なことになるだろう。
目下の問題は、三階の店のうまい棒の種類が豊富とは言っても続けていると種類が尽きるわけで、現在三周目に突入していることだがそんなことは些細なことである。
では、ここで左斜め前方に座ってゆったりと唐揚げを齧るAさんの容姿を紹介しよう。
髪は黒のセミロングで奇抜な髪型をすることもなく、後ろ髪半分くらいを束ねるハーフアップなる髪型をしているときが多い。
服装は昔流行った森ガールという森にいそうな女の子をテーマにしたゆるふわなジャンルなるものが存在していたと最近に耳にしたのだが、それをもう少し大人にした感じ、という表現が私の限界である。
顔立ちは日本人っぽく美人というより可愛らしいタイプで、大学にミスコンがあっても選ばれないが美少女コンテストがあればノミネートされるんじゃないかと思えるような、まぁ童顔なのであるが、私はロリコンというわけではない。
確かに童顔の方が好みであるとは言っても本物の小中学生が好みかと言われればそれは違う、断じて違うと言い切れるわけで、洋画に登場する女優さんや美人コンテストに出てくるようなお方は美人だと理解はできても、ちょっと引いてしまうという心情の裏返しかもしれない。
この感覚を共感してくれる諸君は多くいることを信じている。
ということで、Aさんの容姿が伝わったと思うが、Aさんが好みの顔だったから注目しているわけではない。
嘘だ、と言われそうなので弁解しておくが、確かに好みの顔だからこそ注目したきっかけにはなったのだが、可愛らしい人ということだけなら大学内をくまなく歩くと複数人発見できるだろう。
しかし、頭の片隅で可愛らしい人がいるということを認識するだけで次々と入る情報に埋れていくに違いない。
Aさんがこの情報の海に呑まれなかったのは別の理由がある。
Aさんを初めて発見したのは三階の本屋の中央部分である。
そして、中央部分にはサイエンスに関係する本が並ぶ。
丁度Aさんが立ち去るところだったので、私は本を戻した場所をさりげなく観察し、どの本を読んでいたのかを確認した。
弁明しておくが隠れて観察していたとかではなく、本当にたまたま見えていたのである。
それはいいとして、確認した結果は相対性理論の本だった。
ところで私は理系男子と呼ばれる生物だとここで明かしておこう。
そして、理系には女性が非常に少ないので、私のような人物でも大抵把握している。
脳内検索にかからない=文系のお方であり、相対性理論に興味があるなんてのは珍しいなという感想を持ったAさんとの初めての邂逅だった。
その後すぐに二階の食堂で二回目の邂逅を果たし、親子丼小食すAさんと例の場所でうどんとコロッケを食す私の図が完成した。
これは本当に偶然の産物で狙ったものではない。
そんなこんなで、Aさんは水曜と金曜は一時半から本屋に立ち寄り二時になったら食堂に行き丼小を注文して食堂の端から二列目の真ん中あたりで食事を開始するという一定のリズムを発見したのであり、これも気になる理由の一つである。
そこまで同じ生活を続けるタイプの人は珍しいからだ。
ということで、私は別の場所で会うこともなく特に詮索することもなく、ただ昼食時だけAさんとのささやかなランデブーを楽しんでいる。
そこまで気になるなら話しかければいいだろうと言う方もいるかと邪推するが、しかしそんなことができるならば私は私ではなかっただろうと主張する所存である。
ここで、特に求められてはいないだろうが私の容姿を紹介しよう。
リーズナブルでシンプルな大量生産品を取り扱う有名ブランドで身を固め、レンズも込みで五千円というリーズナブルさを売りとする有名ブランドの眼鏡をかけ、各地に展開するビジネスマンが手早くリーズナブルに利用するための有名散髪店で二か月前にカットしたような感じの、どこにでもいる普通の大学生である。
顔面偏差値なるものがあるならば五十、調子のいい時は五十五くらいいくんじゃないかと自分では思っているが客観的な数値は知らない。
主観より客観の方が下がる傾向にあるという話は聞いた事があるが、私には当てはまらないだろう。
とはいえ、そんな私が話しかけるのはハードルが高い。
さて、鶏カラ丼小を食べ終えたAさんは食器を返却しに行った。
そのまま一番近くの出入り口から出ていくのがパターンだ。
しかし、今日のAさんはこちらの方向に歩いてきた。
私の後ろ側にも扉はあるのだが、そちらから出ていくというデータはない。
いつもと変わらない凛としたオーラを纏いながら近づいてきて私の前の席に座った。
ふわりと微かに花の香りが鼻腔をくすぐる。
Aさんの行動に私は度肝を抜かれていたが、どこか冷静な部分がいい香りだなと思った。
Aさんはこちらを見つめながら携えていた鞄から不意にうまい棒チョコ味を取り出し、むしゃむしゃと食べ始めた。
私はどうしたらいいのかわからなかったが、何かしなければと思う気持ちが、私の手にさっき買ったうまい棒を取り出させる。
袋を開けて齧るとチョコの味がした。
短編集 出井啓 @riverbookG
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