第10話 『私』から『僕』

 「そもそも、殺し屋さんって男性なんですか?女性なんですか?」


 「それすら言ってなかったっけ?」


 「言ってませんよ・・・。殺し屋さんは自分のことを隠すのを当たり前にしすぎです。苗字が篠原さんっていうのも今日、初めて知りましたし!」


 「・・・郵便物に名前書いてなかったっけ?」


 「え、・・・書いてました?」


 「うん」


 「・・・でも直接教えてもらったことはありません!なので改めて教えてください!


 ヘイ!自己紹介!私は柳澤 亜衣!17才!女!好きな食べ物は塩キャラメルです!」


 「・・・そこまで言うの?」


 「言うのです!」


 「え・・・・と、篠原 こころ。年齢は今年で28かな。戸籍上は女性だけど、生殖機能がないから主観的にはどっちでもない、無性。好物は・・・キウイかな」


 「ヘイ、ちょっと待ってください。情報量が多くてパニックしてます」


 「うん」


 「えと、まず、こころさん。どんな字を書くんですか?」


 「えと、心に愛で心愛こころだよ」


 「かわいい。で、えーと、28歳。11歳差」


 「うん」


 「いや、これは重要じゃないです。多分こっちの方が重要、女性だけど、主観だと女性じゃない」


 「うん、ややこしいけど。男性でもないんだ。無性別に近い」


 「なるほど。で、そこ掘り下げる前に、キウイ好物だったんですね」


 「うん、最近、よく出てきたけれど。いつ好物だってわかったの?」


 「あれは安眠効果があるので出していただけです。まあ、今後も出していきましょう、そうしましょう」


 「うん、で、性別の話かな」


 「はい、深く聞いていいやつですよね?」


 「うん、最初から話すから、ちゃんと聞いてて」


 「はい!ばっちり聞きます!一言一句だって聞きのがしません!」


 「ふふ、じゃあ、話すよ」


 ------------------


  はじめて、自分の身体のことを聞かされた時はどんな気持ちだったっけ。確か、あれは小学4年生ぐらいの頃。


 同級生が生理の話を始めたから、そのことを親に聞いた日だったと思う。親はしばらく回答を濁し、数日遅れて僕、いや当時は『私』だった、に事実を告げてきた。


 私は生まれた時点で、女の子としての機能が失われていて、子どもが作れないこと。ホルモンバランスが崩れているから、今後、その兆候がでてくるだろうということ。ちゃんと成長できるかも、よくわからないこと。両親は泣きながら、そのことを私に話した。ちゃんとした身体に産んであげられなくてごめんねって。


 怖かった気がする。寂しかった気がする。悲しかった気もする。頬に涙が伝うのを感じながら、ごちゃ混ぜになった私の心は声を上げることもできなかった。


 将来、子どもができないというのはもちろんショックだった。なんとなくそういう選択肢は自然とあるものだと思っていた。


 自分がみんながしているような成長を味わえないことが残念だと思った。たくさんの大人の女の人が抱えているものが、私の身体には訪れない。


 ただ、何より、自分がちゃんとした「女の子」じゃないんだ、ということを皆に知られるのが怖かった。


 どっちでもない、という正体を知られるのが、それを知られた時にどう扱われるのかがわからなくて、怖かった。


 同級生の年齢が上がることに増える話題。性の話。生理。胸。当たり前に表れる成長。その全てが私の身体には起こらない。


 その後の数年、みっともなく、何度もその兆候がないか確認した。だけどナプキンも、ブラジャーも私の身体にはまったく必要なかった。必要なかったけれど、無理言って買ってもらったりした。普通のふりをするために。私の正体を隠すために。


 そんなことをしていると、徐々に人の集団に交じっていくのが怖くなった。バレてしまったらどうしよう。でも、目に見える差は徐々に顕著になっていく。今は、成長が遅いの一言で片づけられることが段々、気付かれ始めていくんだろう。お前は何かがおかしいって。


 そもそも、ホルモンバランスの影響なのか、身体の成長が根本的に遅かったのだ。中学に上がるころには周りがどんどん大人の姿になっていくのに、私はいつまでたっても変わらないまま。中学生に上がって支給された女子の制服は、胸がなく小さな私の体では全然似合わない。サイズも極端に小さくて、小学生が無理矢理、着ているようにしか見えない。その時はだいぶ、髪をのばしていたからまだましだったけれど、裸になれば身体は男の子みたいだった、いやその男の子にすらなれていないのだけれど。


 バレたくなくて、必死にごまかした。別に好きでもないかわいいグッズをつけたり、アクセサリーをつけたりした。女の子らしい、何かに必死にしがみついていたんだと思う。


 でも、同級生の特に女子の話には交らないようにしていた。どこでボロが出るか、ひやひやしながらしゃべらないといけないから。落ち着いて会話もできない。だから、代わりに男の子たちと遊んだ。他の女の子と違って、気兼ねなく遊べる私に男の子たちは気軽に心を許してくれた。そうして、男の子たちと遊んでいると自分がまるで男の子になったみたいで、楽しかった。少なくとも、どこかに所属している誰かでいられた。でも男の子たちもたまに私に気を遣ってしまう「女の子」として。仕方ない、優しくしてくれてたんだ。でもそれを言われるたび私は辛かった。違うんだよ、私、「女の子」ですらないんだよ。そう叫びだしてしまいそうだった。


 高校生に上がるころには、そういった輪にもなかなか入れなくなる。男の子も女の子も、幼さがなくなってそれぞれのらしい姿になっていく。どちらでもない私にはいるべき場所がどこにもない。今、思うと別にそんなことはなかったのだけれど。問題が問題だから、怖がっていることを誰にも言えずじまいだった。言うすべも、わからぬまま、秘密だけを抱えて生きていた。


 高一のころ私はクラスで唯一、140にも背が満たなかった。他のみんなは一様にどちらかの姿に成り代わっていたというのに。


 私だけ、未だに何者にもなれていない。そんな焦りだけが私の心を占めていた。


 クラスのみんなはそれとなく、小さい子を扱うようにかわいがってくれた。だけれど、私の心は薄い笑みを張り付けたまま、じわじわと冷えていたんだ。


 それから、少しでも、何かになれる確率をあげようと思っていっぱい運動をした。成長を促すようにいっぱい食べて、身体を作る方法を勉強して、色々と実践した。女性ホルモンが出るからと盲信して自分の胸を必死に触っていたこともあったっけ。今思うと、滅茶苦茶迷走していた。いやあ、あまりに恥ずかしい。まあ、あのころに運動をする下地ができたんだから無駄ではなかったのかな。


 頑張りの甲斐あってか、大学に入るころに徐々に背丈は伸び始めた。最初は飛び跳ねて喜んだものだけれど、相変わらず、胸は膨らまないし、生理も来ない。何度か検査してもらったけれど、やっぱり私の女性としての機能は完全に死んでいるみたいで、結果を受け取るたびに震えながら泣いてしまった。


 大学2回生くらいで身長は160を超えた。嬉しかったけれど、やはりというか女性としての兆候は何も現れなかった。しばらくすると、成長も止まる。何者でもないというのが自分の最終到達点なんだと明確に自覚すると、少しやるせなかった。何度も懊悩し続けて、さすがにそのころにはそれで悩むのにも飽きがきていたのだけれど。


 それでもたまに、風呂上がりに自分の身体をよく眺めた。胸は膨らまない、体毛は薄く、性器も教科書で見るようなものとは何か違った。発達した陰毛や性器は人によっては汚いものだったのだろうけれど、昔の私には喉から手が出るほど欲しいものだった。


 鏡に写る身体はサイズこそ大きくなったけれど、どこか子どもめいていて、女性的な柔らかさも、男性的な硬さもなかった。男性ホルモンが少ないから大きくはならない薄い筋肉、女性ホルモンが少ないからあまり蓄えられない薄い脂肪。何者でもない、どちらでもない身体。何度かそんなふうに眺めて、それもいつしか飽いて辞めてしまった。


 いろいろと飽きてしまったのだ。悩むことにも。


 大学はなんとなく、心理学科に入っていた。いわゆる、そういったものに関して勉強すれば、自分の糸口が何か見つかるかと思っていたんだと思う。


 「で、君、主観的にはどっちなの」


 大学の教授にLGBTの心理について、教授の部屋に質問しにいったらそんなことを聞かれた。


 「・・・私が、LGBTだって言いました?」


 「違うの?自覚しているか知らないけれど、随分、興味が偏ってるから、そうなのかなって」


 そのゼミの教授は40代くらいの女性で、カウンセラーと兼業で心理学科で教鞭をとっていた。何かとあけすけで、ぶっきらぼうなものだから、あまり知らない生徒からは怖いともっぱらの噂だった。あれでよくカウンセラーなどやっているものだと。


 「・・・レズやバイセクシャルじゃない、と思います。恋とかしたことないけど」


 「性的指向を聞いたわけじゃないわよ、主観としてどっちなのって聞いたんだけれど」


 痛いところをつかれたなあって思ったっけ。


 「男性?女性?」


 私はどっちにもなれないから、答えられない質問。


 「それとも無性?」


 「・・・無性・・・?」


 「そ、男と女でもない。主観としてどっちの性別にも属してない、そういう人」


 「そんなの・・・・いていいんですか?」


 「・・・・いていいかっていうか、事実として


 いいとか悪いとかじゃないでしょ、と教授は言葉を締めくくった。


 不思議と心にストンと何かが落ちた。歯車が少しかみ合った感じがした。


 「んー、無性っていう概念を知らなくて、自己受容ができてなかったパターン?」


 「・・・やっぱり、カウンセラーって心が読めるんですか?」


 「最初の講義で教えたでしょ。そんなことできんって、君の行動と言動から推測してるだけ。心の中身なんてわかったらもっと人生楽だわ」


 そういえば、この先生は最初の講義でそんなことを言っていたっけ。カウンセラーに心なんて読めない、読める気になってるやつはヤブだって。他にも、人のことを救おうとする奴なんて、だいたい精神病だとか。というかだいたいの人間はぶっちゃけ病気みたいなもんだとか。というか、カウンセラーに人を救う力なんてないとか。心が弱い奴はカウンセラーなんて目指すな、辞めろとか。精神論が語りたきゃスクワットでもしてろとか、大分無茶苦茶言っていた。なのに、不思議と教授をクビになったりはしてなくて、むしろ他の教授はいい先生なんだと口をそろえて言っていた。最初の授業を受けた大半の学生がええ、と首を傾げていたっけ。


 よくわからない匂いのする中国のお茶をずるずるすすりながら、教授は少ししわの寄った眼で私を見た。


 「カウンセリングは仕事じゃないからしないけれど、うら若い学生のイタイ自分ガタリくらいなら付き合ってあげてもいいよ」


 そう言って、ポットから私の分のお茶を淹れて私の前に置いた。


 私はしばらく呆けて、目の前に置かれたコップを眺めた。


 話して・・・いいのかな、自分のこと。


 話したいな。どう話していいのか、わからないけれど。


 話せば何か変われる気がしたんだ。


 そうやって、意を決した。


 「あ、話してもいいけど、スクワットしながらね。話しながらネガティブになられても面倒だから」


 「・・・・・・・はあ?」


 やっぱり変な人だった。脳内で他の教授たちがアノヒトハスゴイヒトダヨーと片言で唱和していた。ほんとかい。



 ------------------


 「へー、珍しい身体背負ってんね。そりゃ大変だ」


 「はあ、はあ・・・・ひぃ・・・ひぃ」


 教授は眼前で優雅に変なお茶をすすりながら、太ももを震わせてうずくまる私を見下ろしていた。しん・・・・どい、ちょっとでも甘いスクワットをすると、しゃべるなというポーズで話を止められた。話を終えるころには、肺と大腿部が順調に死にかけていた。


 「ま、私は身体女、主観女、指向は男性オンリーだから君の苦悩はさっぱりわからんのだけれど」


 「ええ・・・・」


 ここまで、話した意味・・・・。


 「わからん、が少し楽になったんじゃないの?」


 教授はそう言って、ひらひらと手を振った。思わず、はあ?と返しそうになって、自分の胸に手を当てて気づく。


 少し、ほんの少しだけ軽い。重くのしかかっていた何かが、なくなっている。なんで。


 「んー・・・。本質はなんだろうな、自己受容ができていないことと、自分を他人に受け入れられるかどうかを考えるあまりの不安と恐怖か?その不安に足がとられて、現在をすすむ感覚が欠如しているのも併発してる感じか?」


 「カウンセリング・・・・しないんじゃなかったんですか?」


 「ん?そんなものしてないよ。君が勝手にしゃべって勝手に救われただけでしょ?カウンセラーに人を救う力なんてないって言ったじゃん」


 「・・・・・」


 訝しげに睨む私を見て、教授はくっくっくと笑っていた。


 「ま、後は飯食って運動してよく眠りな。身体が幸せになれば、心は勝手に幸せになるから。そんで精々今を生きなさい。どんだけ頑張っても君は君にしかなれん。あとは瞑想・・・が良くわからんかったらお祈りでもしときな」


 「お祈り?」


 「そ、食事前にご飯になってくれた生き物にごめんなさい、ありがとうってね。できれば10分、慣れたら30分くらい」


 「そうしたら・・・どうなるんですか?」


 「ちょっと幸せになる」


 「・・・・ちょっと幸せになると、どうなるんですか?」


 「何かといいように転ぶ」


 「・・・具体的には?」


 「はは、知らない。そんなもん、あとは君しだいでしょ」


 「・・・・もういいです」


 荒れた息と、震える足を抱えて私は部屋を出ようとした。なんだか、ひたすらに煙に巻かれたというか、いいように弄ばれた感じがどうにも腹が立った。胸の奥が軽くなったのはこの際、無視しておく。


 「あ、そうだ」


 ドアに手をかけたところで、声がかかった。思わず、足を止める。


 「そういえば君、『私』って言うときに、若干違和感あるぞ。なんかためらってるみたいな、自覚してる?」


 「・・・・・失礼します」


 腹は立ったけれど、それだけじゃない。心が揺さぶられたのは、それだけ深いところが、自分でも気づいていなかったところを指摘されたから。


 怒りで誤魔化していたけれど、そんなことはとっくに気が付いていたんだ。


 三回生のゼミを決める際の希望用紙が配布された時に、その教授のゼミを志望した。悔しいけれど、言われたことの大半が私の心を動かしていたから。


 私は女じゃない。女の人にはなれない。でも男でもない。どっちでもない。 


 身体だけじゃない、主観も、心もきっとそうだった。


 眼をそらしてきた事実、でももういい加減、受け入れるしかない事実。


 私は、私以外にはなれない。


 ゼミの顔合わせの時、教授は最初、私が分からなかったみたいだった。しばらくぼーっと私の顔を見ることで、ああ、あの時の君かとようやく思い出していた。怒って出ていったものだから、どう思われるかと悩んでいた自分が馬鹿らしくなる。


 自己紹介で、生徒たちがそれぞれ名前と自分の興味のある分野を述べていく。


 順番が巡って私の番が来た。


 席を立って、周りを見回した。どう思われるかは怖い。でも、残念ながら、これが私だ。変わりようのない、私なのだ。


 そのころには伸ばしていた髪も切って短くして、あまり好きじゃなかったかわいい系のグッズも大半捨ててしまった。


 口を動かそうとして、少しためらう。女でも、男でもない自分は、自分をどう呼称すればいいのだろう。


 分からなかったから、少し自分の身体を見た。どこか子どもめいた身体。眼をそらしていた自分。


 その在り方にふさわしい言葉。しっくりくる言葉。


 それはおのずと口から出ていた。


 「『僕』は篠原 心愛。主観で性別がない無性の人間なので、そこから興味を持ってLGBTの心理について調べています」


 少し、どよめきがあった。若干の動揺と好奇が室内に満ちる。どう思われているんだろうか。怖さでひるみそうになった。


 拍手があった。


 音のした方を見ると、教授がにやにやと笑いながら、私、いや、僕を見ていた。


 「よし、今ので最後だね。このメンバーで一年間やっていくわけだ。ま、私から教えることなんて特にないから、各自、


 少し強調された自分らしく、という言葉に生徒たちが笑って頷いた。


 その日のゼミの終わりにすれ違いざまに、教授に肩を叩かれた。


 振り返ると、彼女は何も言わずただただ優しく笑っていた。


 ------------


 「----、で、その後ゼミでの活動は全然心理学関係なくてね。ダイビング連れていかれたり、心霊スポット回らされたり、寺に突っ込まれて座禅くまされたり、やりたい放題だったよ。卒業論文以外まともなことしてなかったね。それでーーーー」


 「・・・・・」


 「ーーーいや、長く話しちゃったね。今日はここまでにしようか」


 亜衣は話の最初から、最後までじっと黙って僕の話を聞いていた。


 私が僕になる話。


 僕という何者でもない人間がその形を得るまでの話。


 亜衣は僕がそう言ってもしばらく動かなくてじっと僕を見つめていた。何かを考えているような、感じたものをじっくりと呑み込んでいるようなそんな表情だった。


 「こころさん、こころさんって呼んでいいんですよね?」


 しばらくした後、亜衣はそう呟くみたいに口を開いた。僕は黙ってうなずいた。


 食事の後始末をして、シャワーを浴びて、少ししてから僕達はそれぞれの寝床に入った。その間、亜衣はずっと何かを考えているみたいに押し黙っていた。


 僕は本を読もうとページを開いたけれど、どうにも遅々として進まない。違和感を感じて、本から目を離したときに、ふああと欠伸が出た。


 「眠いな・・・」


 前回の眠りからまだ二日もたっていない。最近はよくこうなってしまう。体調が悪いわけではなく、むしろ良すぎるから身体がおのずと自然な在り方を望んでいる。しばらくそのまま眠気と格闘しようとしたけど、勝てそうにないので諦めてベッドに横になった。


 布団にくるまって、亜衣の顔を少し思い浮かべる。急に、色々明かしすぎたかな、などと考えてしまう。やはり、自分のことを晒すのはいつまでたっても慣れなかった。どう思われるのかと考えてしまう。


 扉の開く音がした。電灯は落としてあったから、姿は見えない。


 「こころさん」


 亜衣の声。


 「なに?」


 「一緒に寝てもいいですか?」


 「・・・いいよ」


 返事を返すともぞもぞと布団がすれる音がして、亜衣がベッドに入ってくる。そのまま、僕の隣まで来た。


 亜衣の温かい吐息と体温が僕の隣で揺れていた。


 「こころさん」


 「うん」


 決意がにじんだ、ちょっと緊張したそんな声。


 「私、こころさんがいいです。女の人じゃなくても、男の人じゃなくても、何者じゃなくても、こころさんがいいです」


 「---うん」


 「それに、私にとっては、こころさんはもう十分、立派な誰かなんです。誰でもない人なんかじゃないんです。こころさんはこころさんなんです」


 「うん」


 身体に手が回された。


 ゆっくりと抱きしめられる。


 すると、胸のあたりに暖かく湿ったものが感じられた。少しして、暗闇の中で、亜衣が涙をすする音が聞こえた。


 「わかってる。ありがとう」


 胸のあたりにある頭を撫でた。手の中で亜衣がうなずくのが感じられる。


 昔から、僕は誰でもなかった。


 そうじゃないって、きっとたくさんの人が伝えてくれていたけれど、僕はそれをちゃんと自分で認められなかった。


 他人にどう思われるかが怖くて、そればかり気にしてた。誰かに否定されるかもしれない自分を、自分で否定してた。


 でもどこまで怖がっても、僕は今ある僕でしかなくて。


 何度かそれを肯定して、何度かそれを否定して、いまここにいる。


 そして、何度目かの肯定を、きっと今までで一番近くで、この子は僕に向けて伝えてくれている。


 ありがとう。


 あとはお前しだいだよと、遠い記憶の向こうで教授が笑ってる。


 そうかな、そうですね。


 きっと、あとは僕しだいだ。


 気づくと、撫でていた頭から泣き声がやんで、落ち着いた呼吸音がしていた。


 泣き疲れて、寝入ってしまったのかな。


 僕は笑いながら、亜衣の頭をもう一度撫でた。


 眼を閉じる。


 すると眠気はすぐに落ちてきた。


 深く、深く沈むこむみたいに。きっと、夢も見ないほど、深く落ちていく。


 先のことはわからない。まだ僕の話も終わっていない。


 でも今は、深く、深く、ただ深く。


 亜衣の温もりを感じながら僕は静かに眠りについた。

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