風船葛が運んで来た幸せ 3

 敦志と付き合うようになった四月の半ば、彼が「庭に植えてもいいか?」と黒い種を持って来た。なんだろうと思ってその種を見せてもらうと、白抜きのプリントが施されたようなハート型がついている。


『可愛い! 何の種?』

『風船葛だ。知ってるか?』

『ううん』

『なら、あとでググッてウィキってみろ』

『そうするわ』

『グリーンカーテンにもなるから、窓の近くに植えるといい』

『ありがとう』


 敦志から種を預かり、窓際の一角の土を掘り起こし、肥料を混ぜながら土を柔らかくしたあとで種を蒔く。仕事をする傍らで、広い庭の半分ほどを家庭菜園にした。

 トマトにきゅうり、ピーマンとトウモロコシ、ナスやつるなしいんげんがところ狭しと並んでいる。夏にはたくさんの実をつけるのを楽しみにしていた。

 賢司も高校二年になり、そろそろ進路を考え始めたのか、時々何か言いたそうに私を見ている。たぶん、大学に行きたいんだろうけど、お金のこともあってか言えないんでいるんだろうと察しをつけ、然り気なさを装って後押しをする。


『ねえ、賢司』

『なに?』

『大学に行きたいなら、お金のことは気にしなくていいからね?』

『……え?』

『うふふー』


 席を立って箪笥の引き出しから通帳を出すと、それを賢司に渡す。


『え? 俺の名前? 姉さん、これ何?』

『開けてみて?』

『……! これ!』

『賢司が、バイト代の中から食費としてくれたものよ。まだ二年近くあるし、まだまだ貯められそうでしょ?』

『でも、姉さん。無理してるんじゃ……』

『え? してないわよ?』


 そう、無理はしていない。太陽光発電がついてるから電気代はほとんどかからず、自分の給料から支払うのは自分のスマホ代とネットのプロバイダー料金、水道光熱費。あとは税金と家にかかる諸費用くらいだ。

 外食もたまにしかしないから、食費もそれほどかかってない。

 それに、私も賢司も必要なものさえ揃ってしまえば、あとはほとんどお金を使わないので、電気代や余ったお金は貯金に回せるのだ。


『この家を買った時にお金はかなり減っちゃったけど、あの時残ったお金はほとんど手付かずで残ってるの。それに、前の会社よりも今の会社のほうが給料がいいから、支払い分や食費を差っ引いても、貯金に回せるのよ。なんなら私の通帳、見る?』

『……イエ、エンリョシマス』

『それと、私が結婚しようが何しようが、ここは賢司の家でもあるんだから、大学受かったら独り暮らししようとか考えないでよ? 就職しようと何をしようと、賢司が結婚したいと思う人ができるまで、ここにいていいんだから。なんだったら、私が出て行ってもいいし』

『姉さん……?』


 戸惑いを浮かべる賢司に、私は苦笑する。あの家から一時間かけて今行ってる学校に通う意味を、私は知っている。


『動物のお医者さんになる。そう言った賢司を、私は今でも覚えているわ。だから今の高校に行ったのも、そこから近い大学に行きたいこともわかってる。だから私は、二人しかいないのに、無駄に広いこの家を買ったの。この意味、わかるでしょ?』

『あ……!』


 席を立ってガバッ、と抱き付いて来た賢司に思わずよろけてしまったが、それを我慢して、賢司の背中をポンポンと叩く。今はもう私の身長を簡単に越え、百八十近い身長になった賢司。

 両親や優衣のことがあったにもかかわらず、ぐれることなく小さい時の夢を叶えようとしている賢司は、私にとって自慢の弟だ。


『俺、頑張って獣医師になる。ある程度修行して技術を身に付けたら、ここで開業してもいいんだよね?』

『もちろんよ。そのために買った家だもの。大学の費用までは出してあげる。だからその分ちゃんと勉強して、開業するまできちんと貯金しなさい』

『ありがとう!』


 他人なら、弟の犠牲になることはないと言うだろう。

 大学に入って、本当に取りたかった資格を諦めた。

 だからこそ、賢司だけは自分の夢を諦めてほしくなかった。




 この家を買って一年。賢司は夢に向かってますます勉強を頑張り始めた。敦志との交際も順調で、敦志と賢司の関係も良好で嬉しい。

 敦志は四月からあの家があった警察署に移動になってしまったのは寂しい。それでもあの街の駅で敦志と待ち合わせてデートしたり、私がいる街でデートしたり、三人で食事をしたりということを繰り返していた。


 夏のある日、あの街で敦志とデートとしている時だった。


「お姉ちゃん!?」


 いきなりうしろから腕を掴まれた。怪訝そうに眉を顰めて後ろを見ると、会いたくもない優衣が私の腕を掴んでいた。

 隣にいた敦志も怪訝そうに私を見ている。


「今までどこにいたの!? お姉ちゃんや賢司に連絡しても全然繋がらないし、洋治さんに聞いても、洋治さんに連絡とってもらっても繋がんないって言うし……」

「彩、誰だ? それと、洋治って?」

「……縁を切った、元妹の優衣よ。洋治は私の元婚約者」

「ああ、なるほど」


 そう言った敦志の目は冷ややかで、でもどこか眩しそうな目をしていて。そのことに心がざわめく。


「それで? 今さら何の用?」

「お父さんが倒れたの。時々、譫言うわごとでお姉ちゃんの名前を呼んでいて……」

「ふうん。でもそれ、私には関係ないわよね?」

「お姉、ちゃん?」

「だってそうでしょ? 縁を切るって言ったのはあの人自身で、その原因を作ったのは貴女なんだから。洋治もそう。今さら私に何の用があるって言うの?」


 冷ややかにそう言うと、優衣を唇を噛んで俯いた。


「洋治さんは私と結婚したあともずっと後悔してて、謝りたい、って言って……」

「あら、結局式場をキャンセルしないで洋治と結婚したんだ。さぞや大変だったでしょうね」

「……っ」

「貴女を通じて今、洋治の謝罪は受け取ったからこれ以上の謝罪は必要ないし、私は洋治にもあの人にも会いたくないの」

「お姉ちゃん!」


 焦るような元妹の声に、知ったことじゃないと切り捨てる。

 本当に今さらなんだと言うのか。それとも私に入院費を出してほしいとか?

 それこそ冗談じゃない。貯金があるとはいえ、私にだって生活がある。

 それに貯金を切り崩すわけにはいかない。


「お願い! 一目だけでもお父さんに会ってあげて!」

「必要ないでしょう? 目に入れても痛くない、愛娘の貴女がいるんだから。悪いけど、デート中なの」

「お姉ちゃん……」

「敦志さん、行こう?」


 優衣の腕を引き剥がし、敦志にそう声をかけるも敦志は動く気配がない。


「敦志さん?」

「俺は、優衣ちゃんと一緒に病院に行ったほうがいいと思う」


 そう言った敦志の目は、私には冷ややかな目を向け、優衣には優しい目を向けている。私が見たことないほど、優しい笑みを浮かべて。

 そのことに、ズキンと胸が痛む。


 美人で可愛い優衣。その目には涙が浮かんでる。

 その姿は庇護欲をそそるのだろう。

 それに比べ、姉妹とは思えないほど平凡で地味な私。世の中の男がどちらを選ぶのかなんて、わかってる。

 でも敦志は違うと思っていた。敦志だけは、私を見てくれると思っていた。

 でも違ったのだ。そう信じた私はなんて愚かなんだろう。


 そう思った瞬間、敦志に本気で恋した私の心は粉々に砕けた。


 溜息をついて目を瞑ったあと、ゆっくりと目を開ける。敦志と目が合った瞬間、敦志は目を見開いて息を呑む。

 その目に映る私の表情と目は、無表情で虚ろな目をした女だった。


「……そう、わかった」

「お姉ちゃん! 一緒に行ってくれるの!?」

「行かない」

「お姉ちゃん……?」

「敦志さん、デートはここまでにしましょう。病院でもデートでも、二人で仲良く行ったら? 邪魔はしませんから」

「彩……?」

「本当に貴女は疫病神よね。貴女に会うと碌なことがないわ。……敦志さん、今までありがとう。さよなら」

「彩!」

「お姉ちゃん! 待って!」


 踵を返して走りだす。近くにあったバス停に停まっていたバスに乗り込むと同時にバスの扉が閉まると、バスは発車した。

 バスの中からちらりとうしろを振り返ったが、敦志や優衣が追いかけて来る気配はない。

 バスはそのまま駅があるほうへと走り続けた。

 それから、バスの中で敦志のアドレスや番号を消した。

 その後連絡が一切ないから仕事が忙しいのか、デートが忙しいのか、私に愛想をつかしたかしたんだろう。


 虚ろな目と無表情で、予定よりも早く帰って来た私に賢司は何があったのか聞き出した。眉をしかめて哀しそうな顔をしたものの、結局は何も言わずに抱き締めてくれた。

 それにすがって泣く私を、背中を撫でながら慰めてくれた。


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