第40話 指切り

 部活から帰ってきた大知は夕飯の支度が遅れていることに文句をつけた。お父さんがそれをなだめる。


「運動部って疲れるんだよ。雅やなっちゃんと違って俺は腹が減るのが早いんだよ」


 大知は食い下がった。


 そうか、運動すればお腹も減るのか。それは物の道理に適ってる。

 でも頭を使ってもお腹は減る。頭もエネルギーを必要としているんだろう。


 空腹には逆らえず、怒りながらシャワーを浴びに行く大知を横目で見ながら台所に手伝いに行く。


「大知、あんな言い方ってないと思わない?」


「思うけど、確かに運動すればお腹は減るでしょうよ。お腹が減ればイライラしやすくなるし、まぁ、仕方ないんじゃない? うちでは運動する子、珍しいからよくわかってあげられないけどねぇ」


 お母さんはくくく、と笑った。大知を面白い子だと思っていることが伝わってきた。


「じゃあさぁ、わたしやなっちゃんみたいに運動しない子、つまらない?」

「……そんなこと言ってないじゃない。どっちも自慢の子だけど」

「そう……」


 じゃがいもの皮を剥く。

 ごつごつしたじゃがいもからは芽を出そうと予定されている窪みがあって、皮を剥くのが面倒だ。ピーラーだけではなかなか上手く剥けない。


「なっちゃんはダメなの?」

「え? 何言ってんの?」


「だって最近、叱られてばかりだから……。わたしは、なっちゃんは偉いと思ってる。普通の人ができることを超えてがんばってるんだから、疲れても仕方ないと思う。あれだけ成績優秀で週に三回もバイト、普通できないよ」


 ソファの片側に寄って座っていたお父さんは静かにゆっくりと口を開いた。


「雅、それは違うよ。大人になったら『人よりがんばってるから疲れた』という理由はなんの言い訳にもならない。やらなくてはいけないことの範囲を自分から超えて尚はやっているだろう?

 自分が選んだことなんだから、責任があるんだ。決してそのせいで学校をおろそかにしていいというわけじゃない」


「そうかもしれないけど……毎日叱られてたらなっちゃん、家出しちゃうよ?」


 お父さんとお母さんは目を見合わせた。ふたりの間には何か通じるものがあって、それはわたしには測り知れないことだった。


「そういうこともあるかもしれないよ、雅。尚もすぐ高校を卒業するだろう。家を出て、一人暮らしをして大学に通う子はたくさんいる。特に男の子なら。尚みたいにできる子は、可能性がたくさんあるからね」


 じゃがいもが、シンクにごろんと転がった。ほんの一瞬、気を抜いただけで、手のひらから転がり落ちた。


 もちろんそういうことが世の中にあることはわかっていた。知っていた。でももしそうなるなら、毎朝、なっちゃんの寝ぼけ顔を見ることができなくなる。


 なっちゃんが遠くの大学に進学することになったらどうしたらいいんだろう?


 なっちゃんやお父さん、お母さんにその覚悟があったとしても、わたしにはそれはなかった。なっちゃんのいない毎日なんて、気の抜けたコーラと一緒で「意味の無いもの」だった。


 わたしってどこまでブラコンなのか……。自分で自分がわからない。


 でもきっとまだ中学生だから、なっちゃんから離れられないのかもしれない。なっちゃんが言っていたみたいに、高校生になればなっちゃんより好きな人ができて、笑ってなっちゃんを送り出せるのかもしれない。


 そしてその考えは、ちっとも面白くなかった。


 ⚫ ⚫ ⚫


「なっちゃん、今日はバイトのシフト、入ってないの?」


 ソファに転がりながらなっちゃんがつけたバラエティ番組をなんとなく見ていた。モニタリング。非日常が日常に入り込む人気のある番組だ。


 今日も一般の人が、番組の仕掛けで突然、人気の女優さんと相席になっている。この前まで連ドラでヒロインだった人だ。

「かわいいよな」と以前なっちゃんも言っていた。


「バイト、辞めたから」

「え? すぐに辞められるものなの?」

「普通は無理だけど、親に……なんでもない。辞めたんだよ。雅もその方がいいって言ってただろう?」

「……うん」


 お母さんは素知らぬ顔で食器を棚にしまっていた。カチャン、カチャンと規則正しい音がして、お皿は棚に重ねられていく。


 親が。


 つまりお父さんとお母さんが反対したということだ。お父さんはさっき言っていた。『やらなければいけないことの範囲を超えて』と。


 それはそうか。学校はサボり気味なのにバイトをしているのはおかしい。なっちゃんのバイトは、日常生活に支障のない範囲で行うもののはずだ。


「これで連ドラも途切れなくリアルタイムで見られる」

「……そんなにドラマ好きだっけ?」


 なっちゃんは口を閉じてわたしの顔を見た。ドキッとする。


「お前、余計なこと言うなよ」


 珍しく怒られたと身構えると、わたしの転がるソファになっちゃんは背中を預けた。位置が近くなる。


「そんなわけだから、夕食後はなっちゃんを少しかまってあげなさい」

「はい」


 カチャン、カチャンという音はまだ続いていた。わたしたちはもう骨折していない右手の小指を使って、そっと指切りをした。


 なっちゃんもわたしも微笑んだ。まるで秘密の協定を結んだ時のように。

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