第16話 夏休みのとある一日
夏休みが始まって一週間が経った今日、夏休みになってから長田が家に来るのは七回目。
夏休みだというのに、皆勤賞が狙えそうなほど勤勉だ。
なぜこんなにも俺の家にやってくるのか理由は単純だ。
「暇だから」
璃奈がいるからでもなく、俺と志望校が同じだからでもない。
その証拠に長田は家に来ても、勉強もしないし、璃奈を見てもあいさつ程度の会話しかしない。
夏休みまで二週間を切ったころから毎日カウントダウンをするほど楽しみにしていたとは思えないほど、奴の夏休みには中身がない。
だがそれは、そんな中身がない奴の夏休みに「暇だから」という理由だけで付き合っている俺と志田も同じだった。
朝の十一時くらい(この時間を朝だと認めてくれる人は、家族に一人もいない)に起きて、朝ご飯(昼のワイドショーを見ながら食べるご飯を朝ご飯だと認めてくれた人ももちろんいない)を食べて、志田と長田が来て夕方までダラダラして、二人が帰って、晩御飯を食べたり風呂に入ったりして、申し訳程度に勉強して寝る。というのが、俺のルーティーンになりつつあった。
だが、今日は違う。
今日は八月の第一週の金曜日。
NIFすなわち、ニッポン・アイドル・フェスティバルの日である。
日本最大のいや、世界最大のアイドルフェスが行われる夏の風物詩というか、象徴というか、もはや夏休みはこの日のためにあるのではないかと言えるような日を前にして、俺たちのようなアイドルオタクが、平常心でいられるはずもなかった。
そんなこんなで、昨夜(とはいっても日付はとうに変わっていた)三人で電話しながら、璃奈からもらった会場見取り図にペンを入れる作業を何時間も続けた。
さらには、「一つ目のステージが始まる二時間前に会場に着いて、三人でばらけてブースを回って三人がそれぞれほしいグッズを買い集めて、余裕をもって一つ目のステージから最前列でフェスを楽しむ」という作戦を例年通り立ててしまったせいで、俺は寝不足どころか、瞬きよりも長い時間目を閉じることさえできていないのだ。
これが学校の行事なら適当な理由をつけて保健室のベッドに転がり込みたい気分になるのだろうが、なぜかそんな気分にはまたくなれないまま、ステージに立つ璃奈がまだ寝ている時間に家を出て、こうして長田と上石井駅まで来ているのだ。
「志田どこにいるって?」
「コンビニで日焼け止め買うってライン来てた」
「じゃあコンビニか」
「たぶんそうだな」
確か、去年もまったく同じようなやり取りをした記憶があるのだが、夕方になったころには志田は真っ赤に日焼けしていた。
いくら日焼け止めを塗っても、グッズの半袖のTシャツで、首にかけた推しタオルを振り回しながら飛び跳ねていては意味がないのだろう。
とはいえ、いくら思っていても、美容?に気を使っている女子高生にそんなことを言えるはずもなく、俺たちは何が違うのか全く分からない日焼け止め売り場の前で、あーだこーだと言っている志田のことを何分も待つ羽目になった。
普段ならば、文句の一つも言いたくなるような扱いを受けた俺と長田だったが、西武新宿線で高田馬場、山手線で恵比寿、埼京線で東京テレポートと一時間以上電車に揺られている間、文句だとか恨み言だとか、そんなことは一切口にしなかった。
ハイになっていたというのも原因の一つだろうが、単純に忙しかったのだ。
コンビニで志田が日焼け止めを選んでいる間にプリントアウトした璃奈からもらった会場見取り図のコピーを二人に渡した。
各々が分担して買いに行くグッズは何なのか、そしてそのグッズはどこにあるのかというのを叩き込むのは、結構難しいものだ。
さらに、このフェスでは一般的なフェスと違って、ステージの数が物凄い。
お台場・青海周辺エリアとかいうざっくりしたかなり広いスペースに、十ものステージがあるのだから、グッズを買った後もどのパフォーマンスを見たいかによって移動しまくらなければならないのだ。
その移動の確認をしないと、せっかく遠出したのに、見たかったものが何も見れないという本末転倒的な未来が待ち受けているのだから、俺たちが諸々のことをこの短時間で確認し、頭に叩き込むには、テスト勉強よりも、受験勉強よりもはるかに真剣に取り組む必要があった。
したがって、文句だとか嫌味だとかそんなものを言っているような暇は俺たちにはなかったのである。
「うわあっつ」
数十分ぶりに、熱されたアスファルトの上に足を置くと思わず声が出る。
「こりゃはだしで歩いたら、ヤバいな」
「靴作ってくれた人に感謝だねー」
長田と志田はそんなことを言いながら、歩いている。
まったくもってその通りだ。アスファルトは思ったよりもガサガサしていて足の裏に刺さるし、なにより日差しに何時間も照らされたアスファルトは想像を絶する暑さだ。
俺にはその実体験があるのだから、それがどのくらいつらいのかよくわかる。
小学二年の夏休み。学校のプールが解放されて自由に使っていいということになり、俺はお気に入りだったサンダルを履いて、学校まで行った。
久しぶりに会うクラスメイト達と遊んでいて、十二時の鐘が鳴ったから、帰ることにした俺は靴箱のところで、俺のサンダルがなくなっていたのに気付いた。
いちおう、「はだしで家まで帰るのはしんどそうだ」と考えはしたのだが、走れば一分くらいで着くような近所に住んでいたため、どうにかなるだろうと歩き出したのだ。
その結果、足の裏は想像を絶する熱さで、それを逃れるために走ろうとすると足の裏に石ころなんかが刺さり、サンダルなんて普通に生活していたら絶対無くさないものをなくしてしまって親にこっぴどく怒られるだろうというプレッシャーもあり、俺は歩いて五分もかからない道のりを泣きながらゆっくり歩いたのだ。
「おーい、勇人?暑さで頭でもいかれたか?」
長田が目の前で手をフリフリしている。
「いやちょっと昔のこと思い出してな」
「それ、あのサンダルの話?」
志田がマップを見ながら言う。
大正解だ。
「そうそれ」
「まあ、さすがにフェスで履物無くすことはないだろ」
その通りだ。ずっと履いているのに無くすわけがない。
「てかそろそろ急いだほうがよくないか?」
長田の一言で、俺たちは各々で役割を決めた通りに会場に散った。
グッズを買いそろえた俺たちは、第一ステージの前に集合していた。人がかなり多くて、さすがメインステージと言ったところだ。
「Mu-ve見た後に移動か?」
「そだよ、」
ちょうど俺たちがまとめたタイムスケジュールを見ていた志田が答える。
やっと、俺たちのNIFが始まった。
ペンライトを振り回し、声を上げて、俺たちは昼ごはんを食べ終わってもまだそれを続けていた。
いや、まだというよりも今からが本番なのだ。
あらゆるイベントのほとんどがそうであるように、人気があるグループやユニットは後の方にしか出てこないのが、NIFのお約束であり、もうその時間帯が始まろうとしている。
早い時間にパフォーマンスしたグループやユニットのパフォーマンスが全然ダメだったというわけではない。そもそもこのフェスに出ることができた時点で、アイドルとしてはかなり上位層であるのだ。
実際、志田が俺と長田に見てほしいと連れて行ったクール系ダンスユニットのソラリスはトップアイドルよりも遥かにすごいダンスをしていたし、長田が顔だけでも見てくれと言って連れて行ったY,Sという妹系アイドルグループの顔面偏差値は、テレビドラマの主役を張っている女優を可愛い順から連れてきたものよりもはるかに上回っていそうだった。
そして俺たちは、アイドルの聖地とも言われる第三ステージに向かっていた。
「セミファイナルまであと何分だ?」
「あと二十」
腕時計を見ながら、「あと二十」なんてことを言うのは、なんだか気分がいい。少し社会的地位が高くなったような気がする。
「ツイッターのリーク情報で、新曲やるって言ってたよ」
「「マジか」」
俺と長田のシンクロ率かなり高めの振り返りに、結局努力むなしく真っ赤になってしまった志田は、まるで毛虫でも見たかのようなリアクションをする。いや、志田は虫は苦手じゃないと言っていたから、毛虫を見てもこんな顔はしないのかもしれないが。
「う、うん。ソースはわかんないけど」
「ガセか?」
「わかんねーな」
「フェスで新曲発表ってほとんどないからねー」
「別に好きじゃないやつらもいるからな」
長田が早歩きしながら言う。
その通りだ。そういう第三者的な客がいるから、人気曲で知名度を上げないといけないのが、フェスの難しさのはずだ。そんな場所で誰も知らない新曲を歌うというのは、少しばかり冒険し過ぎている気がする。
「はぁ、やっと着いた。」
志田が、推しタオルで汗を拭きながら言う。
ピーンポーンパーンポーン
「NIF運営本部よりお知らせいたします。メインステージにてパフォーマンス予定だったニュートリノがメンバーの体調不良で、パフォーマンスできなくなったため、第三ステージにて、パフォーマンス予定だったFLYが、メインステージ、ファイナルのパフォーマンスとなります。」
「初出場で、ファイナリスト?すごーい」
「おいおい勇人。お前、NIFファイナリストの兄貴かよスゲーな」
「ああ。」
「そんだけかよ。」
「いや、普通にめちゃくちゃうれしいんだけど、妹がって考えるとなんか現実じゃないみたいで」
「メインステージまで行かないと」とか、「メインステージまで行くのマジでめんどくさい」なんてことを誰も言わなかったのは、俺と同じように疲れも忘れて夢見心地になっていたからだろう。
第三ステージまで行くのは、とてつもなくしんどかったが、メインステージまでの道のりは、ものすごく短く、そして快適なものに思えた。
周りの人やグッズを売っているブースなど気にも留めず、俺たちは月を歩いているかの如き軽やかな足取りで、メインステージへと向かった。
当たり前のことだが、メインステージは超満員だった。キャパの120パーセントくらいの人が入っているのではないかというくらいギュウギュウだ。
俺も長田もどちらかと言えば背が高い方だし、志田も女子にしては高い方なので、俺たちはさほど苦労せずとも、ステージの端から端まで見えそうな場所を探すことが出来た。
そして、隣の人と肩がくっつくどころか、二の腕も太もももくっついているくらいギュウギュウ詰めの状態で十分ほどたった時、やっとスクリーンがついた。
「秋田満、プロデュース」
「一万人規模のオーディションから選ばれた三人と、昨年のセミファイナルを飾ったcolorfulの人気メンバー二人からなる新時代のアイドルグループFYL」
「伝説の始まりを、今ここで見届けろ!」
「うぉー」
煽りVTRともに歓声が上がる。
真っ暗でスクリーンだけが光っていたステージのスポットライトが一斉につく。
「私たち、せーのっ!FLYですっ!」
歓声の地響き。
メンバー発表配信の時の様子から、制服で来ると思っていたが、その予想は全く違った。
いや、制服という点では同じだが。
彼女たちは、長めのスカートに軍服のような上着、そして軍服のような帽子をかぶっていた。
ミニスカートの制服や、水着でのパフォーマンスを一日中見てきたオタクたちには、少なくとも俺には控えめに言って効果抜群だ。
そして、彼女たちは目を閉じ、右手をゆっくりと上げる。
前奏が始まると同時に、彼女たちはリズムに合わせて体を左右に揺らす。
どこか悲し気な旋律。
Colorfulにはこんな曲はなかったというのに気付くのに一秒もかからない。
「新曲だ!」と誰かが叫ぶ。
オイ!オイ!オイ!オイ!
リズムに合わせて、会場全体が揺れる。
「何気ない日々の中で私たちが躍っても、誰も振り向かない」
清水愛花の歌声が響く。喋っているのを配信で見たときから感じたが、彼女の少しハスキーな低音は、耳に残る。
「明日の朝も次の日も、君への歌は届かない」
三笠柚希のパート。歌もダンスも未経験だと言っていた割には、かなりのうまさだ。
「暗くて怖いトンネルが私たちに迫る」
長田が、リナちゃーんと叫ぶ。彼女は軍服姿で、帽子の横でツインテールを揺らしながら、悲し気に歌う。
「ほんの小さな光が見えるだけ」
青井咲のパート。ステージの前に出てきた彼女に黄色い声援が飛ぶ。彼女はまるで美少女戦闘ゲームからそのまま連れてこられたかと思うほど、軍服が似合っている。今日が初ステージだというのに、もう女性ファンがいるのもわかる。
「いくらもがいて苦しんでも、もう後戻りはできない」
みっちゃーん!俺の声に、彼女は少し微笑んだ。ような気がした。
「でもそこに光があるから」
ステージ上の彼女たちが、一列に並んで、右手を上げる。
ドラムの音が鳴る。
「私たちは走る、光へ」
「私たちは歌う、光へ」
「今changing history!」
「あなたに届ける、これからの光を、私たちの光を」
後奏が流れ、曲は終わった。
うぉぉぉぉー
大河ドラマの合戦シーンかと思うほどの声援が上がる。
彼女たちは、何も言わずに後ろを向いた。
「今後とも彼女たちの活躍を応援よろしくお願いします」
と彼女たちの背後のスクリーンに文字が映る。
その瞬間、もっと大きな歓声が上がった。
彼女たちが、たった一曲でパフォーマンスを終えても、誰も文句を言わなかった。
「さすが、秋田」
「曲かっこよすぎだろ」
「みんなマジ可愛い」
と観客の誰もが余韻に浸っていた。
もちろん、俺たちも例外ではない。
「リナちゃんやべー」
「みっちゃんやべー」
「咲ちゃんイケメン」
「歌詞エモすぎ」
「ダンスかっけー」
「衣装かっこいい」
どうしても溢れてくる感想をただただ排水のように垂れ流して、俺たちの会話は全くかみ合っていない。
だが、語らずともよかった。
この時に、この場所で、このパフォーマンスを見ることが出来た。
ただそれが、一番の幸せだと、俺はそう思っていた。
帰りの電車でも、俺たちの会話は尽きなかった。
去年もその前の年も、三人で同じことをして帰ったのだが、その二回とも帰りにはすっかり疲れ切ってしまって、電車の中でほとんど口を開くこともなくそのまま家に着く、という感じだったから、今年のファイナリストになったFYLのパフォーマンスはすさまじいものだったのだ。
志田が上石井で降りて、俺と長田もその次で降りる。
もうすっかり暗くなって、すっかり涼しくなっているが、俺と長田の熱はまだ冷めていなかった。
「お前、リナちゃんに、マジで良かったって伝えろよ」
と同じことを四回も言って、やっと長田は家に向かって歩いて行った。
「ほんとにいいパフォーマンスだった」
「ワオン!」
「うわっ!」
また独り言が漏れたところを犬にほえられた。
我が家の二軒挟んだ隣の家の犬だ。
確か、今日出かける前にも吠えられた気がする。
犬は八時過ぎでも寝ないんだな。もしかすると本当は夜行性なのかもしれない。オオカミも夜のイメージあるし。
「早く寝た方がいいぞ」
と鈴木さんちの犬に言って、俺は家に向かった。
璃奈はとっくに帰っていた。
母親曰く、スタッフさんとメンバーとご飯食べに行って、そこからタクシーで帰ってきて、今お風呂入ってる。とのことだったので、俺たちはよほど長い間、立ち話をして余韻に浸っていたのだろう。
晩御飯の苦手ななすびの漬物を平らげたところで、璃奈がお風呂から出てくる。
「NIFすごかったぞ」
「ありがと」
左手を腰に当てて、右手にコップを持つおっさんスタイルで、答える。
女子高生とおっさんというのは汚れた組み合わせに思えるが、意外と相性がいいのかもしれない。
「たぶん、もうオーディションのことで文句をいう奴はいなくなる」
「なんで?」
首と一緒にコップまで傾く。
「今日のステージ見た奴らに文句言われるから」
「でも、臨時でファイナリストってことで叩かれたりしないかな?」
風呂上がりだからか、疲れているからか、璃奈の声には力がない。
「大丈夫。新曲売れるから。」
「そっか、見に来てくれてありがとう」
やっぱりおっさんスタイルで、璃奈は言った。
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