3.老人がいる
小樽の雪解けが進み、海の青さが増してくる。
まだ風は冷たいが、歩く道筋には残雪の隙間から蕗の薹が顔を出し始めた。
そんな頃だった。
今日も目が疲れるなとかんじ始めた夕方前。
すっかり日が長くなり、もう夕になっても空は明るいまま。春を感じる瞬間でもある。
また少し休憩でもするために、温かいお茶を――と事務室に戻ったときだった。
「親方! 見て見て!!」
黒髪の女の子が事務室に訪ねてきたところだった。
長めのトレンチコートを羽織って、お洒落なパンツスタイルの彼女が潔へとまっしぐら、元気に駆け寄ってきた。
「
「うん! バイトもない日だよ。それでね、さっき家に帰ったらパパも帰ってきていて、これ見せてもらったの! パパ、ついにやったの!!」
工房オーナー大澤杏里の娘、一花だった。成人を目の前にして、母親の杏里にそっくりになってきた。
セミロングの毛先が彼女の肩先でぴょんぴょん跳ねるほどに彼女は興奮していた。彼女の片手には雑誌があり、それを潔へと差し出してきた。さらにパラパラとページをめくり、あるところを開いて、さらに潔に突き出してくる。
「見て。去年の夏に、親方をモデルに撮影したパパの写真。入選したんだよ!」
「えっ!」
一花が開いたページ、そこには仕事をしている潔の姿があった。
グラインダーに向かい、グラスに切子を入れている職人の写真。
撮影者:大澤 樹 切子職人 とある。
「え、ええ!? そういえば社長が、
社長さんの趣味はカメラ撮影。いつも持ち歩いて様々なものを常に撮影しているので気にしていなかった。
これも花南の影響だった。彼女も常にカメラを携えていて、気になったものを撮影していた。彼女にとっての写真は『スナップメモ』という扱いで、目にしたものをメモ代わりに視覚的にカットしておくという感覚。出来上がった写真は彼女のインスピレーションのヒントとしているようだった。同時に、商品として人の手に渡っていく『ガラス製品』を記録するためにも撮影をしていた。
『あーこんな素敵な切子、親方のところから旅立っちゃうんだ。撮っておこう。親方にも写真できたら渡しますね!』
潔の切子作品を、いつもきらきらした眼差しで見つめてくれて、憧れるようにうっとりとしながらカメラで撮影してくれていた。
いまも花南が撮ってくれた写真は大事にまとめて、たまに見返している。
そんな花南が撮る写真に感銘した大澤社長も、カメラで撮影活動を始めたのだ。
徐々に社長さんも、あちこちのコンテストに応募するようになった。
趣味だからのんびり。落選してもあたりまえ。でもチャレンジはやめないというフランクさで、あれこれ撮影をしていたのは知っている。
いつも落選していたから、潔も自分が撮影されても、『いつもの社長さんの気楽な趣味』ぐらいに思って笑って流していたのを覚えている。
それが。入選――!
「親方の渋みが自然に出てるでしょう。わたし、この写真すっごい素敵と
ひと目見ただけで思えたから、パパにこれ応募しなよって言ったの。そしたら、ほら、ほんとうに! だって親方が切子している姿は、かっこいいもん。それがちゃんと出てるの。見た人に伝わってるの!」
一花はいきいきと潔に語りかけて、元気いっぱいきらきらとした笑顔で興奮している。
ああ花南もこんな顔をしてくれることがあったな。潔は若い女子大生の一花を見ながら目を細めた。
大澤家末娘の一花は、ご夫妻にとって遅めにできた末っ子お嬢ちゃんだったため、蝶よ花よでも好きなところに飛んで行けというふうに育てていた。イマドキ女子大生らしくお洒落で明るく、活発な女の子に育った。
いまは医療系の技師になるための大学に通っている。
「そっかー。一花ちゃんが選んだ写真でもあるんだね」
「そうだよ。パパ、ちょっと違うものをいいと思って送っちゃうから、今回は私が選んであげたの」
なるほど。いい写真は撮るけれど、応募する作品の選び方がパパさんはダメだったのか。そんなところ、あの樹さんらしいなと潔は苦笑いをこぼす。
社長になるために育てられた資産家の長男さん。三代目父親が暴君だったとかで成人するまでの育ちには苦労があった人だ。それゆえに、恋愛観が歪んでいた。女性を大切にするようやり手の母親にきっりち女性優位に育てられたが、彼が選んだ結婚は『契約婚』だった。子供が産めない長年の恋人をそばに愛人とし、家を支え出産をしてくれる女性を妻としたのだ。彼だからこそ、ふたりの女性の生き方それぞれを尊重し、大事にしていた。だが、やはり歪んでいる。『世の中、なにが喜びか』を素直に感じ取れない大人として育ったのだろうかと、潔は感じていた。
工房オーナーの夫、大澤の事業をすべて管理して経営をしている社長さんだから、社長一家でなにかが起きていると知っても、潔は知らぬ振りを続けてきた。ただのいち従業員だからだ。
しかし息子ふたりと末娘は、しっかりまともな価値観になるよう育てたようだった。
長男の一颯君は成人して社会人になると、札幌の食品会社に数年勤めた。その後、社長であるお父さんの補佐をするために、大澤倉庫の社員になった。おそらく五代目社長になるのだろう。
次男の一清君も活発な次男君そのもので、スキー大好きが講じて学生時代はクロスカントリーの選手になり、成人してインストラクターに。それだけでは食べていけないとかで、札幌でワインバーを経営している。お父さんが観光向け飲食店を展開させている影響なのか、こちらの事業を引き継ぎそうだ。
そして、夫妻がアラフォーという高齢出産的な時期に生まれた末娘の一花。いまの時代を自由に闊歩するような女の子に育って、彼女は実家事業とはまったく関係なく、医療の道へ進もうとしている。
末娘の人生選択に、パパもママも、一緒に子育てを担ってきた優吾叔父ちゃんも、そしてお兄ちゃんふたり、そしてまだまだ元気なお祖母ちゃん、家族みんなが大プッシュ、応援をしてくれている。
愛されて育った子はまっすぐだな。そう思える女の子だ。
ここは、花南が二十代だったときと異なる。花南は小樽に来た時点で影を背負っていたことがわかっていたからだ。
そして潔はまた、そんな一花をみていると今度は『孫ってこんなかんじなのかなー』とにこにこせずにはいられなかった。
「じゃあ、一花ちゃんのおかげで、パパは入選できたんだね」
「うん。お祖母ちゃんも、優吾おじちゃんもそう言ってる。パパは仕事はできるけれど、芸術的感性はないんだからって。そうするとパパが拗ねちゃうの。でも入選という文字と、届いた受賞の盾を見てにまにましてるんだ。面白いんだよ」
「そうか、そうか」
樹社長のそんな顔が思い浮かび、潔はまた笑む。
幸せそうなご一家としてまとまって、良かったと思える瞬間でもある。
このご夫妻もいろいろあった。潔はそれを黙って見守ってきた。
「ちょうどお茶タイムだったんだよ。ミルクティーをいれてあげようか」
「うん! 親方のミルクティー、ちっちゃい時から変わらなくて大好き」
また花南と重なる。こんなに明るい二十代女子ではなかったけれど、潔が煎れるミルクティーを喜んでくれた時の素直な笑顔が忘れられない。
この一花ちゃんもそう。『娘とは』そんな愛おしさをかんじさせてくれる存在なのだといまも思う。
「一花ちゃんひとりで来たのかな?」
「そうだよ。自分の車で来たんだ。『親方に知らせなくちゃ』って。私がいちばんに教えるんだってきちゃったの。お父さんとお母さんもあとで来ると思うよ。それまでここで待ってよー」
応接ソファーに座った一花は、テーブルにある切子食器を眺めている。
ガラス工房オーナーの娘だから、絶対に勝手には触ったりしない。
「わー、綺麗。ほんとに親方のグラスがいちばん綺麗。模様が素敵なんだよね。いいなー」
この子もガラスが大好きだ。花南と同じように瞳を輝かせてくれる。
「一花ちゃんの成人お祝いに作ってあげるよ。お兄ちゃんたちにもそうしてきたんだから」
「ほんと!? うわーどうしよう。何色にしようかな。真っ赤がいいかな! 親方が作ってくれるガラスなんて、超最高級じゃない!」
妻に捧げた色……。潔はふと思った。
でももし彼女と娘が生きていたら、お揃いにしていただろう。
『赤』にもいろいろある。緋色、朱色、珊瑚色。この子はどれを好むのか。それも楽しみだ。
事務室のちいさなキッチンで紅茶を煎れている傍ら。一花が持ってきてくれた雑誌をふたたび開く。樹社長が撮ってくれた『己』をじっくりと眺める。
モノクロで仕上げられた写真、フレーム内には透明のグラスを持ちグラインダーに向かう老眼鏡を掛けた男。
丸まっている背中、視点を合わせているために目を細めている。そのために浮かび上がる眉間の皺、ぼさっとした白髪頭、質素な身なり。荒れて皺だらけの手、手の甲のシミ。たるんだ頬。『老人』がいる。
自分でもわかっているつもりだったが、こんなに年老いていたのかとじわじわと少しずつ心に迫ってくる落胆を覚えた。
なのに、手の中で生まれ出ている『透明な切子ガラスの輝き』。身につけ磨かれた技の煌めき。それが余計に強調されている。
人々は、この写真を見て思うだろう。『この年齢まで真摯にガラスに向き合ってきた職人の老い姿、しかしそれは比例して美しい切子ガラスを生み出しているのだ』と。老いはしたが生きてきた分、美しさを生み出す揺るがない技を身につけた努力とか真摯とか……愚直とか……。そんな言葉で讃えてくれるのだろう。
でも潔は、この写真の中に居る本人だ。
職人として全うに生きてきたところで、晴れないものが残っている。
本当の意味で『作りたかった輝き』をまだ持っていない。
そう、急に羨ましくなってきた。花南が。
心残りをガラスで打ち消した彼女のことが。
雑誌をそっと閉じ、一花にわからないよう背表紙を握りしめていた。
樹社長は『本物の写真』を撮っている。
潔だけにしかわからない『心』をこの写真で引き出してしまった。
臆病なまま老いた後悔が押し寄せてくる。
最後に出てきた心の声は、『花南に会いに行こう』だった。
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