第40話 幼馴染の叫びと僕に起こったこと

 七月十日 雨


 いじわるが過ぎるよ、この街の神様は。

 私が好きなのは、ひっくんであって、たっくんじゃないのに、それなのに。

 どうして、私から高浜廻っていう幼馴染を奪おうとするの?

 もう、たっくんの匂いも、たっくんの体も、私は感じることができない。このぶんだと、そろそろ、たっくんの声も、もう聞けなくなっちゃうのかなあ……。

 嫌だ、そんなの嫌だ……。


 でも、たっくんを突き放すことなんてできるはずがない。それができたら、もしかしたら恋忘病も収まるのかもしれない。そういう意味では、神立先輩が言っていたことは正しかったんだ。

 ……いや、多分私だってわかってはいたんだ。でも、それから目を逸らすために、ひっくんが好きって思いこむようにして。

 そんな言い訳すら、神様には、お見通しってことなのかな……。


 七月十七日 曇り


 とうとう、たっくんの声すら、私は聞こえなくなった。そして、そのことが、陽菜乃ちゃんとたっくんに知られてしまいました。

 残ったのは、あとは視覚だけ。でも、それもきっと長くはもたないと思います。


 もし、たっくんのことを、見ることすらできなくなったら、そうなったら、次は、

 私は、高浜廻という名前の、ひとつ年上の男の子を忘れちゃう。

 そうなったら、今度こそ、私たちは、幼馴染ですらなくなって、ただの他人になっちゃうのかな。私だけが覚えていた、ひっくんとの時間も、消えて、なくなっちゃって。


 何もかも、なかったことに、なっちゃうのかな……




「……わ、忘れる?」

 日立さんの悲痛な叫びが綴られた日記に書かれていた、「忘れる」という単語に僕は反応した。


「……ご、五感が溶けるだけ……じゃないの? だって、小木津さんと光右は、そんなこと言って」

 ……待って。「ただの他人」になる……。それって、僕がこの春初めて日立さんと会ったときに抱いた印象と同じ……。知らない、女の子……。


 もしかして……。

「……いや、馬鹿な……。そんな、こと、そうそう起きてたまるか……」


 ふと思い浮かんでしまったひとつの仮定を打ち消すために、僕は以前の日立さんの日記を手に取る。とりあえず、ひとつ前の④番の日記だ。

 はやる気持ちを押さえて、僕はノートを開く。


 四月二十日 雨


 この日は、私の家でひっくんと漫画を読んだり、テレビを見たりしてのんびりと過ごしました。春から三年生になったひっくんは、高校受験も控えているので、なんかちょっとだけ忙しそうです。


 そんななか、ついこの間買ってもらったスマホのパスコードを私はひっくんと一緒に決めました。相談するものじゃないかもしれないけど、誕生日以外に思いつかなくて、でも、誕生日だと意味がないともわかっていて。

 それで悩んでいると、ひっくんはお互いの誕生日を足したものにしたら、と提案してくれました。

 私の誕生日は、八月八日。ひっくんは一月十九日。確かに、足したら簡単じゃなくなるし、これだったら私でも覚えられそう。よし、採用っ。


 五月五日 晴


 ゴールデンウィーク、普段は勉強で忙しいひっくんを連れ出して、この日は電車に乗って遊園地に行きました。ここ最近、なんとなく朝の目覚めが悪いし。やっぱり疲れているのかなあ。

 朝から日が暮れるまで遊び倒して、私は大満足でした。またいつか、行けたらいいな。



「……ほ、ほら、大丈夫……大丈夫。そんなこと、あるはずない」

 ④番の日記は、二年前、すなわち僕が中三、日立さんが中二の春のことから書き始められていた。春先は、僕はまったく覚えていないけど、日立さんが楽しそうに、いきいきとした文調で日々のことを書いていた。


 ……それでいい。何も起きるな、そのままでいてくれ。

 けれど、淡い期待とは裏腹に、声が震えてしまった僕の予想を、日立さんの日記は裏切らなかった。



 五月二十六日 雨


 ……やっぱりおかしい。最近、妙にひっくんが朝の目覚めが悪い。いくら体を揺すっても、足の裏をこちょこちょしても、ぜんぜん起きてくれない。前まではそんなことなかったのに。やっぱり勉強疲れかなあ。嫌だなあ、受験生って……。


 六月三日 雨


 とうとう、ひっくんに私のこと無視されるようになってしまった。たまに何かを話しても無反応なことがでてきたし……。

 なんだろう……私、何かひっくんを怒らせるようなことでもしたのかなあ……。


 六月十日 曇り


 ……おかしい、何かがおかしいよ。だって、今日、ひっくんの部屋に繋がる呼び鈴を鳴らして、話をしようと思ったのに、ベランダに出たひっくんは私と話もせず、首をひねってまた戻っていっちゃったんだから。私が呼び止めていたのに。

 そんな、無視なんてレベルじゃないくらいに。

 ねえ、ひっくん、何が起きているの……?


 六月十三日 晴


 神立先輩も、そしてひっくん自身も、ひっくんに起きている異変に気がついたみたいです。そして、神立先輩が言うには、もしかしたら、もしかしたらだけど……

 ひっくんは、恋忘病にかかっているんじゃないかって……。

 街の神社に言い伝わる、嘘みたいな話が。


 でも、どうして……どうしてそんなことが、ひっくんに起きているの?

 それに……いやだよ、ひっくんが私のこと、見えなくなって、聞こえなくなって、そして、最後に……。

 私のこと、忘れちゃうなんて。



「…………」

 切実な叫びが綴られている彼女の文字を見て、僕はようやく、自分に何が起きていたのかを受け入れることができた。


 信じたくないけど、でも、やっぱりそうだったんだ。

 ……僕は、恋忘の呪いのせいで、日立さんのことを綺麗さっぱり忘れてしまったんだ。恐らく、中三の夏、という中途半端な時期に転校したのも、そのためなんだろう。


「じゃあ……日立さんは……」

 僕が全く日立さんのことを覚えていないってことをわかったうえで、こういうことがあったってわかったうえで、この春から、また僕と幼馴染に戻ろうとしていたってわけなのか……?


「そんなの……そんなのって……」

 熱くなる目頭をなんとか押さえて、僕は続きを読む。



 七月七日 雨


 あの日以降、ひっくんに元気がありません。いつもだったら、私がすることに穏やかに笑ってくれるのに、ずーっと下を向いたまま。

 七夕なので、家に小さな竹飾りと短冊を用意しました。お願いはもちろん、これ以上ひっくんが悪くならないように。

 ……でも、空模様は晴れないまま。これだと、織姫と彦星も会えないんじゃないかな……。


 七月十五日 曇り


 放課後、ひっくんのところに向かってみると、ひっくんと神立先輩が喧嘩をしていました。……いや、喧嘩というよりは、神立先輩がひっくんに怒っている、そんな感じ。

 何があったかはわからないけど、みんないっぱいいっぱいだよ。

 もう、ひっくんに私の声は届きません。たまに見えないこともあるそうです。

 私にできることと言えば、ただひたすら、神様にお願いすることだけ。お賽銭、もし千円とか使えたら、神様は、ひっくんを許してくれるのかな……。


 八月一日 晴


 恨めしいほど太陽が照りつける一日でした。この日もひっくんはよくならないままで、ひっくんのなかから私が消えるのも、どうやら時間の問題のようです。どんなに願っても、祈っても、それは止まってはくれません。


 これが街に残っている、神社の言い伝えのせいだとするなら、

 なんでもしますから、神頼みだって、なんだって、だから、

 ひっくんを、助けてください。


 怖い、怖い、こわい。ひっくんから、私の光が、音が、香りが消えてしまうのが、とてつもなく、こわい。でも、そんなのはきっと些細なことでしかありません。

 きっと、一番こわいのは──


「私」が、消えてしまうことなんだと思います。


 八月八日 晴


 ……ひっくんが、東京に転校することになったみたいです。いや、もう、ひっくんじゃなくて、高浜廻、って書いたほうが、いいかもしれない。もう、小さい頃の私が、たかはまを言えなくて、たかひまくんって言ってたのがもとになってひっくんって呼んでいたことを、高浜廻は覚えていない。


 ずっと東京にいるつもりはないみたい。……私と、彼が落ち着いたら、またこの街に戻ってくるって、神立先輩や、お母さんは言っていた。

 ……でも、叶うことなら、もう一度だけ、もう一回だけでいいから、

 ひっくんって呼びたい。

 もし、全部が元通りになって、忘れちゃった記憶も戻って、また、また……幼馴染に、なれるなら……。




 八月の日記は、ほぼ毎日と言っていいほど、文字が滲んでいた。ノートの紙もちょっとしわくちゃになっていたし、多分泣きながら書いていたんだと思う。

 もう、昔のことを調べるのはいい。十分わかった。

 僕は④番の日記をもとの場所に戻して、再度⑤番の一番新しい部分を読む。



 七月二十一日 晴


 いっそのこと、思い出、全部神社に埋めちゃえば、ひっくんのこと忘れなくて済むのかなあ……。




「っっ!」

 まだ日記に続きはあったけど、その一文を見て、僕はすぐさま立ち上がって、歯抜けになっていたアルバムに目をやった。

 彼女がやっていることに気がついた僕は、人の家だと言うのに大きな音を立てて一階に降りて、挨拶すらせずに玄関を飛び出そうとする。

「……気をつけてねー、廻君」

 背中から、そんな優しい見送りの言葉が聞こえた気がした。

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