――欲しいもの――
「伊織が欲しいものって、なに?」
昼飯時のハンバーガーショップ。店内には高校生の俺たちよりは少し年上くらいの若い客が何人かと、小さな子供をつれた人たちのグループ、スーツ姿の男女も何人かいる。何処かのテーブルから、コーヒーのいい匂いが漂ってきて鼻先をくすぐった。
「……は。急に、なんの話」
食べかけのチーズバーガーを持った手をトレイの上へ避難させながら問いかける。
窓に面した席、隣りに座る江森を見ると、大きな口を開けて今まさに三段重ねのハンバーガーを頬張ろうとしている瞬間だった。あごが外れたりしないだろうか。
今朝、俺は生まれて初めて、学校をサボるという行動を取った。ルールに背くことをしてはいけないと幼い頃から教えられて育った俺にとっては、大きな決断だった。こんな反抗的なこと、実の親にも養父母にもしたことがなかったのに。やろうと思えばできたのだろう。やる気がなかったし、必要もなかったからこれまではやるに至らなかっただけで。
あとは、そう。一人だったから、という理由もある。誰か仲のいい友人の一人でもいたなら、近所でささいないたずらをしたり、嫌味ばかり言う養母に文句を言ったりしていたかもしれない。
今日、珍しく遊び心というものが働いたのは、賛同してくれる相手がいたからだ。
というより、俺は江森の真似をしたのだ。
去年の夏、野球部の練習をサボりたいからと、大して仲が良いわけでもない帰宅部の男子生徒をバッティングセンターへ誘った、彼の真似を。
「ふぉあひほへぇのふぁはひ」
意味不明な言葉を漏らす江森の頬は大きく膨らんでいる。子供みたいなのは、出会った時から変わらない。そんなところもどうしようもなく愛おしい。気がつけば苦笑している自分がいる。
「なに言ってるか分かんない。ちゃんと食べてるもの飲み込んでから言えよ」
「だから、ホワイトデーの話、だって」
「ああ……、それで欲しいものがないか聞いたのか」
一週間前のバレンタインデーのことを思い出しながら、食べかけのバーガーを口に運ぶ。チーズの濃厚な味とたまねぎの食感を楽しむ。
ホワイトデーとは、バレンタインデーに贈りものをしてくれた相手へお返しにプレゼントを渡す日だ。さっき江森と一緒に行った店にも特設会場ができていた。男性から女性へ返礼するのが一般的だからか、並べられていた商品はラッピングや見た目が可愛らしいものが大半を占めていたように思う。俺は興味がなかったから何の気なしに眺める程度だった。
そういえば、江森は立ち止まって考え込む素振りをしながら特設会場をじっと見つめていた。少し待ってみても動こうとしないから、疑問に思って声をかけたらやっと歩き出したのだった。
「別にいいよ。お返しが欲しくて渡したわけじゃないし」
「そりゃあ、伊織がそんな卑しい理由でチョコとかくれたんじゃないって分かってるけどさ。でも、もらった以上はなにか返さなきゃ気が済まないんだよな。……というか、俺も伊織になにかプレゼントしたい。いや、させて下さい」
「敬語で言われても……。欲しいものなんて、特にないし」
「一つくらいはあるだろ。お菓子とか、本とか。遠慮しないで正直に言ってみてよ」
食べながら考えて。
江森に言われるまま、俺は食事を続けながら自分が欲しいものについて考えを巡らせた。メインを食べ終え、ポテトを口に運ぶ。ある時、急に卑猥な想像をしてしまい、ポテトをのどに詰まらせ咳き込むという恥ずかしい失態をしてしまった。のどが、ガサガサする。不快感を軽減させようと必死にストローでお茶を吸い上げたら、むせた。「大丈夫?」と心配そうな声。隣りで江森がこちらを覗き込んでいる気配がした。
「だい、じょぶ……」
「なんか……、咳してる伊織を見るとすげぇ心配になる。ほんとに平気?」
「俺は病弱な女の子か」
「いや、見た目は美人で病弱そうだけど、意外と毒舌でタフな男子高校生。でもって、その辺の女子より何倍も可愛い」
つけ足された一言で、俺はまたむせた。咳をしながら相手の太ももを拳で小突くことで、不満を伝える。お前のせいで三度もむせたじゃないか、このバカ。
他の客の視線を感じる。たまらず席を立ってトイレへ逃げ込んだ。
個室で、のどの調子がよくなるまで思い切り咳をして、戻ってきた時には江森のトレイの上も大方かたづいていた。炭酸を飲みながら外を眺めていた彼は「おかえりー」と言いながらこちらを見上げて笑った。恋人の上目遣いは初見で、「うん」という短い返事をする時、のどがまた苦しそうな音を出した。実際、息が詰まって少し苦しかった。ついさっき言われた「可愛い」という一言がまだ頭の片隅に残っているらしい。
「で、なにか思いついた?」
デザートを開封していると、隣りから再度、問われる。箱から先端を覗かせるパイ生地を見つめながら、俺はうなり声のみを返した。
「ほんとに、なんでもいいぞ。なんなら二人でどっか行こうか。丁度その日は、日曜日だったはずだし。伊織が行きたいとこなら、何処へでもつれて行くぜ」
「行きたいとこ……」
考えてみる。江森と二人で行きたい場所を。
雪まつりはもう終わってしまったし、夏祭りはまだずっと先だ。
夜景を見に行ってみたい。真っ青な海も久し振りに見たいし、この街一大きな書店で一日を過ごすのも楽しそうだ。
好きな人と一緒に行きたいところなんて、考え始めたらきりがない。
日本の最南端の海で泳いで、白川郷では真っ白な雪に屋根を覆われた合掌造りの家並みを眺め、熱海の温泉で露天風呂に入って。いっそ、外国へ行くのもいい。
こんなちっぽけな店の中でも、空想の世界では何処へでも行ける。
たった一分の内に、俺は江森と一緒に日本各地を旅した。もちろん、すべて想像上の出来事だ。いつかは実現するかもしれないという期待を込めた、形を持たないもの。俺の頭の中だけにあるもの。
欲張りな自分が口を開く。
「お前は」
「ん、俺? が……なに?」
「正人は、ある? 行きたいところ」
俺と一緒に、と心の中でつけ加える。直接言う勇気もなければ、必要性も感じられなかった。
でも、自分の内側だけにあるものを江森と共有したくて、問いかけた。
「そうだなー……、プロ野球のキャンプを見に行くのも楽しそうだし、球場で試合観戦もしたいな。あと、ファンフェスとか」
「……正人の頭の中って、野球しかないのかよ。予想以上につまんない回答だな、聞いて損した」
「嘘、冗談だよ。まあ今言った三つにもいつかは行ってみたいけど」
野球少年のたわ言を無視して、デザートに口をつける。冬季限定のチョコパイ。一度食べてみたかったから、江森が「腹減ったからマック行こうぜ」と誘ってくれた時は必要以上に大きくうなずいてしまった。百円の菓子パンやおにぎりで済ませている日常と比べたら、かなり贅沢な昼食だ。痛い出費であると自覚しつつ、たまにはいいかと開き直っている。
サクッ、といい音がした。直後、舌先が焼けるように熱くなる。
「あっ、つ……!」
思わず声を上げる。また、まわりから視線を感じた。恥ずかしさと同時に、うるさくして申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。
「え、どうした。大丈夫か」
「うっ……、たい、ひょうふ……」
「いや。全然、大丈夫そうには見えないぞ。パイ、熱かったの?」
口元に手を当ててうなずく。舌がヒリヒリ痛む。ショックのせいか、涙まで出てきた。こんな顔、恋人相手でもさすがに見せたくはない。テーブルに突っ伏すようにしてうつむいていたら、後頭部に温かいものが触れた。
江森の手に頭を撫でられる。指先が髪の海に沈んで、たまに肌へじかに触れる。
小さな子供へするようなことを、人目のある場所でしないで欲しい。はっきりと言ってしまおうかとも考えたが、感触がなかなかに心地よかったから黙って撫でられておく。どうせ長くは続かないんだし。
「飲みもので舌、冷やせないかな」
もっともな提案を俺はすぐに実行した。行儀は良くないけれど、お茶を口に含んでしばらくじっとしていたら、少しずつ痛みが引いていった。
「……まさかデザートで火傷するなんて、思わなかった」
「あれ、パッケージに書いてない? 『熱いから気をつけろ』みたいなこと」
パイが入っている箱を確認すると、大方、江森が言った通りの文言が書かれていた。要するに、注意書きに気づかなかった自分が悪い。
楽しみだった気持ちが一気に冷めていく。
「もう少し食べるの待ってみたら。一口かじってあるから、すぐに中身も冷めると思うし」
「……そうする」
「冷めるの待つ間、ホワイトデーのお返しのこと考えて」
「その前に、正人が本当に行きたいとこ、教えてよ」
「何処にでも行ってみたいかな」
「何処にでも……って、どういうこと」
「伊織と一緒なら、どんなとこにも行ってみたいし、行ける気がする」
隣りに座る恋人の表情を確認する直前、ガラスの向こうで雪解け水が滴り落ちるのを見た。店の屋根に積もった雪が溶け始めているらしい。
つけ加える必要は、本当になかったんだ。
なにも言わなくても、江森は最初から、俺をつれて行くこと前提で考えていたのだ。彼が行ってみたいと感じ想像した場所。何処かは分からないその景色の中には、俺の姿も含まれていて。
つき合い出すと、考えることが似てくるもの、なのかもしれない。
「……俺も、最終的には同じこと思ったよ」
「ほんと? うわ、ちょっとそれ、本気で嬉しい。俺たちって相思相愛だったんだな!」
「今さらかよ。両想いになった時点で相思相愛は成立してたと思うけど。というかお前、相思相愛の意味分かってないだろ」
「あー……、ぼんやりとしか」
相変わらず、呑気というか適当というか……。そんなところも嫌いじゃないけれど、もう少し国語の勉強はしておいた方がいいと思う。
相思相愛の正しい意味を教えてやりながら、考えた。
俺が今、本当に欲しいものって、なんだろう。
新刊本。新しい服や、靴。あとお金。そんなありふれた答えなら、すぐに思いつく。どれも、もらえるのなら嬉しい。だけど、どれもなんだかピンとこない。なにかもっと、心の奥で無意識に欲しているものがある気がして。
楽しそうに笑っている横顔を、じっと見つめてみる。
「……え。な、なに?」
江森が動揺している。それでも俺は見つめるのをやめない。
「決めた。ホワイトデーのお返しに、なにをもらうか」
辿り着いた答えを口に出すのは、なかなかに恥ずかしい。せめてもう少し人気のない場所で言おうか、と思ったが、隣りから「なになに」と期待をあらわにした眼差しを向けられたら、引き下がれない。
お茶でのどを潤してから、俺は答えた。
「……デート、して」
「デート? って、物じゃないじゃん」
「別に、品物じゃなきゃいけないって決まりはないだろ」
「そうだけど……。それが、伊織が本当に欲しいもの、なのか?」
「うん。丸一日、正人と一緒に過ごす時間が欲しい」
ぐふっ。変な音がした。直後に江森が激しく咳き込み始める。急に、どうしたんだろう。
「だ、大丈夫か……?」
「けほけほっ。……うっ、あまりに不意打ち過ぎてむせた。のどが……」
「不意打ち? なにが?」
「……いや、なんでもない。あのタイミングで飲みものを飲んだ俺にも責任はあるから」
いまいち、江森が言っていることの意味が分からない。
首をかしげている俺に、江森が「そろそろパイも冷めたんじゃないか」と俺のトレイを指差す。箱に触れると、さっきまでの温かさはなくなっていた。恐る恐る食べてみると、いい感じに冷めていた。舌の上にチョコレートの甘みが広がる。一口目は味を感じる余裕なんてなかったけれど、このチョコパイ、なかなかに甘い。
「まさか、伊織からデートに誘われる日が来るなんて、夢みたいだ」
「夢かもね。お前は今、マックでお腹いっぱいになって居眠りしてるんだよ、きっと」
「現実でも、夢でも、幸せなことに変わりはないな。――で、何処行きたい? ホワイトデーのお返しデート」
「何処でもいいよ。天気にもよるし」
「なんなら一日中、俺の部屋で過ごす? というかもう、前の晩から泊まればよくね? そうすれば、本当の意味で一日中一緒にいられるし。うわぁ。想像したら三月十四日がものすごく楽しみになってきた!」
「一人で勝手に想像して楽しくなられても……」
嘆息して、パイを口に運ぶ。
ホワイトデー当日への期待は、充分すぎるほどにある。多分、楽しみに思う気持ちは江森よりも強い。彼みたいに、あからさまに喜ぶなんてこと、恥ずかしくてできないけれど、心の中の自分はもはや浮足立っている。スキップしながら、ふわふわと空まで飛んで行けそうだ。
「そうと決まったら、さっそく考えようぜ。デートの行き先」
最後の一口を味わっていると、江森が嬉々とした声で言った。気の早い奴だ。
「……ところで、今日のこれってデート?」
「違う。今日のは、ただの思いつき。デートって、あらかじめ日時と場所を決めてからするものだし」
「まあ、俺にしてみれば、伊織と一緒に過ごせるならどっちでもいいや」
江森が白い歯を見せる。明るくて、すべてを包み込むように温かくて。まるで、今日の天気みたいな笑顔だ。
お前には笑顔が一番似合うよ。そんな、柄にもないことを伝えたくなる。
「――はい伊織。アーン」
目の前にポテトを差し出される。おどける恋人に、俺はやれやれと呆れた。
調子にのると、痛い目に遭うぞ。
親指と人差し指に挟まれたポテトに口を近づける。
舌に塩辛い味。そして、歯に弾力のある硬さを感じた。いてっ、と即座に悲鳴が上がる。
今度は江森がまわりの客たちから注目を浴びることになった。
少し指を嚙まれたくらいでこんなに驚いていたら、将来プロ野球選手になんてなれないな。周囲の反応に気づいて困った顔を向けてくる江森を無視して、俺はストローをくわえながらほくそ笑んだ。
君と過ごす冬の日 怜 @leo0615
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。君と過ごす冬の日の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます