第4話 スザンカの住人達2

「おはよう」

 私を後ろから抱きすくめたハロルドが、甘い声であいさつをする。耳の真横で話されるから、くすぐったい。ついでに、一連の流れだと言わんばかりに、首筋と束ねた髪にキスを落とす。


「おはよう。離して」

 私は、リーを真似てできるだけ冷淡に話すのだが、ハロルドは一向にお構いなしだ。


「今日も可愛いね」

 私を抱きしめる腕に、ぎゅっと力を籠める。耳元でしゃべるから、ぞわぞわしてこの上ない。


「早く起きて」

 もがき出ようと、肩を左右にゆすってみるが、逃れられない。では、とばかりにどっしりとベッドに腰を据え、ハロルドを体にまとわりつかせたまま、立ち上がろうと足を踏ん張ってみたが、びくともしない。


「毎朝君が起こしてくれるなんて、夢のようだよ」

「夢は夢でも、私には悪夢よ。それより、自分でちゃんと起きて」


「朝日の中で観る君はまるで天使のようだ」

「まだ夢見てるの?」


「実は君の背中には羽が生えてるんじゃないかな。観たことないけど」

「羽があれば、便利ね。ここから飛んで逃げられる」


「うん、きっとそうだよ。このチュニックの下には、純白のやわらかい羽が……」

「なんか、いやらしいなぁ!!」


 体をよじり、すぐ真後ろにあるハロルドの顔を睨みつける。


 まつげが触れ合うほどの至近距離で私は彼に「変態っ」と言葉をぶつけるが、ハロルドはにっこり笑うだけで、眉も曇らせない。


「君が言葉を紡げば、それだけで愛らしい」

 そう言って、顔をさらに寄せてくる。


「歌声の美しい小鳥を愛でる気持ちがわかるよ」


 厚かましくも、唇を合わせようとするから、目いっぱい上半身を反らしてもがき、腕を抜く。


 ほっとしたものの、すぐに開いた掌を、ばちりとハロルドの顔面に押し付けた。「むぐ」と、ハロルドが呻き、手の中央に彼の唇の感覚が伝わる。「うえ」と私は呟き、ハロルドが腕の力を緩めた拍子に逃れ出て、ベッドから立ち上がった。


「起きてよ、もう!」


 慌てて、彼の手が届かない範囲に逃れ出る。

 両手に腰を当て、寝台の上の彼を見下ろした。


 立っていたら、いつもは彼の方が私を見下ろしているものだから、ここぞとばかりに、ふんぞり返り、顎をつんと上げて見せる。


「変態で、すけべで、いっつもイヤラシイことしか考えてなくって、体力馬鹿で、見掛け倒しのハロルド」

 思いつくまま罵倒し、それから「起きて」と短く命じる。


 ハロルドは寝台の上で胡坐をかき、膝に頬杖をついた姿勢でそんな私を苦笑しながら眺めている。目は柔和だし、口元も緩やかだ。


 今のところ。

 彼が私に怒ることは一度もない。


 だけど。

 ふと。

 ハロルドが悲しそうに眉を下げた。


 口をわずかにとがらせ、まつげを震わせるから、私は思わず怯む。

 さすがに、言いすぎたかしら……。


 いつもは、「変態ですけべ」ぐらいだけど、今日はそこに、いろいろ付着しすぎたような気がする。


 さすがに。

 ちょっとだけ、良心が痛んだ私の前で。


 そっと、彼は顔を背け、呻く。


「罵る君も可愛いなぁ。次はなんて言葉を聞かせてくれるんだろう。ああ、実はあの背中には、純白の羽ではなく、漆黒の翼があるんだろうか。脱がせてみてみたい、なんて思うわたしは、君の言う通り、変態なんだろうか」


 のうのうと、また馬鹿なことを言い出した。


「ああ、服を脱がして彼女の背中を見たい。見てみたい。天使なのか、悪魔なのか」


「リー!!! 変態がいるっ」

 私は開け放ったままの扉に向かって怒鳴る。


「いや、変態で構わない。君が望むなら、わたしは甘んじてこの自分を受け止めよう。変わっていく自分をおそるることなく、邁進しようじゃないか」


「リー!! 頭のオカシナこの領主さんの着替えを!!」

 足音荒く室内を出ると、相変わらずの姿勢で廊下に待機していたリーに言葉をぶつける。


「まだお二人でゆっくりと過ごされてもかまいませんよ」

 リーは鎖のついた懐中時計を掌につつみ、私に言う。


「あと、五分。余裕がございます」

「だったら、明日から私を五分長く寝かせて」

 指を彼の胸につきたて、私は命じる。


「もっと言うなら、リーがあの変態を起こしてちょうだい」


「お嬢様がおっしゃる『変態』が誰を指すのかは、わかりかねますが」

 リーは律義にそんな前置きをすると、するりと懐中時計をポケットにしまう。


「このスザンカの館においては、当主の寝室に入れるのは奥方様だけでございます。従いまして、ハロルドさまの起床を促すのは……」

 リーは手袋をはめた手を私に向かって差し出す。


「お嬢様以外、おりません」


 いまいましい。


 私は歯ぎしりして、リーの何もない頭部を睨みつける。たぶん今、この男はどや顔で、ニヤァ、と笑っているに違いない。


 私だって、好き好んでこんな館に来たわけではない。

 どう考えても『拉致監禁』だと思っているのだが、お父様からはなんの連絡もない。私が一方的に「助けて」「変態に連れていかれた」と窮状を訴えるばかりだ。


 手紙は届いているはず。

 それなのに、私を探す騎士団がスザンカに向かった形跡はない。というか、もう、スザンカは辺境過ぎて情報が全く届かない。私を誰かが救出しようと思ってくれているのかもわからない。


 新聞さえも、食材を持ってくる業者が二週間分まとめて運ぶのだから、どうしようもない。


 頼みの綱は、アナだけだ。


『必ず、スザンカに……! お嬢様のところに参りますっ!!』


 あの夜。

 ハロルドに強引に馬車に連れ込まれたとき。

 アナは必死に馬車を追いながら、そう叫んだ。


 私は車窓から、どんどん小さくなる彼女の姿を茫然と眺めるしかできなかったのだけど……。


 ああ、アナ、早く来てちょうだい……。もう、気がおかしくなりそうよ……。

 だいたい、ハロルドが言っていた侍女って誰のことなのか……。そんなもの、この屋敷にはいない。

 私は知らずにため息をつく。


「リー。着替えを」

 寝室から、呑気なハロルドの声が聞こえた。ちらり、とリーが私を見た気配がする。顔がないからわからないが。


「どうぞ。私は厨房でマークの手伝いをするから」

 チュニックの裾を翻して、大きく足を一歩踏み出す。「かしこまりました」とリーが腰を折るのを横目で見て、廊下を木靴で闊歩した。


 ほんの数カ月前までは、ハイヒールだったのになぁ。

 こつん、こつん、と廊下に響く足音を聞きながら、そんなことを思った。


 木靴なんて、見たことはあっても、履いたことはない。

 当初はパンプスで過ごしていたのだけど、屋敷の中はまだしも、『外』は、論外だ。ましてや、薪割など無理だった。やってみたけど、鉈を持ったまま転倒し、庭師のロジャーを卒倒させる結果を生んだ。怪我しなくてよかった。


 仕方なく、ハロルドに「木靴を買って」というと、その日のうちに馬を駆って街まで降り、内側が布製になった、踵紐つきの木靴を用意してくれた。


 チュニックだってそうだ。

 アナがいないから、ウエストを絞ることがまずできない。だから、ドレスは却下。ハロルドが何枚かワンピースを用意してくれていたが、いまじゃ、業者に見繕ってもらったチュニックを着ている。


 ……このチュニックも、ハロルドに当初『買って』と頼んだら、大喜びし始めて……。


 なんだろう、といぶかしんでいたら、騎士のチャールズが、『ようございましたな。ハロルドさま』と。

『女性に服を贈るのは、その後、脱がせるためでござる』

 とか言い出し。


『そういうことかぁ。まったくもう、照れ屋で奥ゆかしいんだからぁ』


『やっぱりいらない。自分で何とかする』


 満面に笑みを浮かべるハロルドに、言葉を叩きつけた。


 結果的に、自分で作ってみたり、業者に頼んで古着を買ったりして、今、過ごしている。


 ハロルドは、『服を買わせてもらえない』ことに、だいぶん不満なようだけど、とりあえず、自分の身を守れたことに、私は安堵している。


 てくてくと廊下を歩くと、前髪が揺れる。伸びすぎたなぁ。

 顔をしかめた。邪魔で仕方ない。自分で切ってみようか。

 そう思うに至り、ふと、可笑しくなって頬が緩む。


 自分で着替えることも、自分で髪を梳くことも。ましてや、誰かを起こすことなんて、したことがなかった。


 この。

 スザンカの屋敷に来るまでは。


 兄が三人いるとはいえ、伯爵家の一人娘だ。

 誰からも蝶よ花よと育てられ、長じては、あまたの結婚の申し出を受けた。

その中から、「あの御仁なら問題あるまい」と兄や父から太鼓判を押された子爵と婚約もした。


 子どもの時も。

 そして、大人になっても。


 家事をする、など考えたこともなかった。


 その私が。

 食事の準備をしたり、掃除をしたり。衣服を繕ってみたり、薪を割ったり。

 今の姿をお父様が見たら、なんておっしゃるかしら、と少しおかしくなる。


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