第2話 求婚の夜2

「……は?」

 思わず問い返し、それから、口からは乾いた笑い声が漏れる。


「何を馬鹿な……。ハロルドさまは社交界に疎いのでしょうか? すでに私はサザーランド子爵と……」

 婚約中なのだ、と言おうとしたが「知ってますよ」とあっさり答えられる。


「ですが、どうにかなりませんか、と」

 きれいな笑みを浮かべたまま、ぬけぬけとそんなことをいうものだから、言葉を失った。


「……なにこいつ」

 私に抱き着いたまま、アナももっともなことをつぶやいている。


「……ご無事でなによりです」

 いまだに私の手を握り続けているハロルドに、意識して冷たい笑みを浮かべて見せた。


「そのような話を父にして……。貴卿が真っ二つに斬られず、本当にようございました」


「いや、まったく」

 ハロルドは軽妙に笑った。


「ハイデンベルグ伯のお怒りはすさまじかった。あの長槍さばき。さすがというか、まだ衰えを知らぬ、というか……。殺されるんじゃないかと思ったね。なぁ、チャールズ」

 ハロルドは鷹揚に言うと、背後の騎士に声をかけてみせる。


「その点においても、ハロルドさまは、武勇にも非凡な才をお持ちでござる」

 真顔で甲冑男は私に言うが、違う違う。そんなこと聞いてないし、話がずれかかっている。


「よせよ、チャールズ。照れるじゃないか」

 だが、ハロルドは、陽気に笑い、ゆるく握った拳で、かん、と甲冑を叩いてみせた。二人の会話が分からないアナは、完全に怯えだしている。


「それでね、マリア嬢」

 ハロルドは藍色の双眸をふたたび私に向ける。


「サザーランド子爵と相談したわけだよ」

「は!? 相談!?」


 思わず、素っ頓狂な声が出る。

 あきらめなかったのか、この男は! 父に死ぬ思いをさせられても!


「マリア嬢の婚約者、という地位を譲っていただけませんか、と」

 呆気にとられた私の前で、騎士はにっこりとほほ笑んで見せる。


「そのときの、堂々とした態度を、ぜひお嬢様にもお見せしたかった」


 いや、常識ある姿勢を、私は望んでいますが。


「……し、子爵は……」

 咄嗟に出た声はかすれていて、私は幾度か咳ばらいをしながらも、目前に立つ美貌の青年を見た。


「子爵は、当然、お断りなさったはずです」


 突き放すような言葉を吐きつつも。

 心の中は、言いようのない不安が渦巻き始める。


 そもそも。

 地位が違いすぎる。


 子爵と。

 いまだ、爵位は継いでいないが、辺境伯の嫡男だ。


 まさか。

 どきり、と不穏気な音を心臓が立てた。


「もちろん」

 悠然とハロルドは笑む。


「子爵は、貴女をかけて決闘をしよう、と申し出られた。ハイデンベルグ伯はそれを許可なさり、そしてわたしは今日、この日に臨んだわけです」


「そんなこと……っ」


 全く聞いていない。

 混乱する頭を冷やすように、額に手をやる。


 絹のつるりとした手袋は、だけど私の心を落ち着けてくれるわけでもなく、そして、事態を収拾してくれるわけでもなかった。


「大丈夫ですか、お嬢様。……ですが、これはいったい、どういう……?」

 アナが私にしがみついたまま、小声で尋ねてくる。


 大丈夫なわけない。

 どういうことか、私が知りたい。だが、口元をこわばらせながらも、必死で笑みをつくり、そしてハロルドを見やる。


「それで、決闘の日はいつですか」

 それまでに、子爵に会い……、いや、父に会う方が先か。とにかくことを丸く収めねば、とハロルドに尋ねたのだけれど。


「たった今、終わりましたよ」


 月光のように冴え冴えと、ハロルドがほほ笑んだ。

 私は、言葉を失って彼を見上げる。


「……終わった?」

 思わずおうむ返しに尋ねた。


「ええ」

 ハロルドがうなずく。その背後で、甲冑男も満足そうに首肯した。


「ハロルドさまの、お見事な一撃でござった」

「……え……?」

 もはや、冷静な言葉さえ出ない。「え」と私は何度も何度も、馬鹿のようにハロルドと甲冑男を交互に見た。


「……え?」

「子爵との決闘を終え、わたしはここにいるのです。もちろん、ハイデンベルグ伯の許しを得ましてね」

 ハロルドは私の手を握ったまま。そして笑みを崩さない。


 その真上で。

 玻璃細工のような、下弦の月が輝いている。


 普段であれば。

 このかんばせに、相貌に、身のこなしに、声に。


 きっと大騒ぎをしたことだろう。


 アナとふたり、屋敷に戻る馬車の中で、「さっきの殿方、すごいイケメン!」「どなたでございましょうね」と大興奮していたことだろう。


 謎めいた、年ごろの青年。

 そんな物語の登場人物のような彼をみかけるだけで、きゃあきゃあとはしゃいだことだろう。


 なにしろ。

 それは、あくまで、自分とかかわりがないからだ。


 私には、婚約者としての子爵がいて。

 ゆくゆくは彼と結婚をし。

 彼の子を育て。

 そして、家族の成長を見守る。

 平平凡凡で、だけど、安定感のある未来を確信していたからだ。


 自分には、突拍子もない将来などあるはずがない。


 たとえ、があったとしても、黙っていれば誰も気づかない。

 今までも。そして、これからも、この力は他人にばれないように過ごしていけばいいのだ。


 そう、思っていたのに。


「スザンカに参りましょう、マリア嬢」

 私の瞳をハロルドがのぞきこむ。


「どうか、わたしと結婚してください」


 掴まれた腕を引かれると、あっけなくハロルドの方によろめいた。「お嬢さまっ」。少し遠くでアナの声が聞こえ、そして、背中から彼女のぬくもりが消える。どうやら、引き離されたらしい。


「はい、と言ってくれますか?」

 ハロルドの腕に囲われ、彼の香りに包まれる。


 柑橘系と思ったが、これはレモンバームだ。涼やかでいて、だけどしっかりと存在感のあるこの香りが、彼にそっくりで。


 私は、眉根を寄せて彼を睨み上げた。


「返事は、いいえ、よ」

 もがき出ようと彼の胸を両こぶしで突くが、軽妙な笑いが鼓膜を撫でる。


 同時に。

 ふわりと足が宙を浮く。

 足裏に地面の感覚がない。


「……え?」


 今日、いったい何度「え」と私は呟いたろう。

 目を真ん丸に見開いた先に、ハロルドの端正な笑みがある。

 視線が合った。

 藍色の瞳が、柔和に細まる。


「なんて、恥ずかしがり屋さんなんだろう」


「はああああああっ!?」

 盛大な問い返しは、だがハロルドの嬉し気な笑い声に消された。


「君の侍女やチャールズの前で『はい』というのが恥ずかしかったんだね」


「違う違う違う違う違うっ」

 首をぶんぶんと振り、ついでに足掻くが、このほそっこい体のどこにそんな力があるのか、私を抱えたまま、ずんずんと会場の方に歩き出した。


「良いんだよ。君の本当の答えは知っているから」


「だから、『いいえ』だって!!」

 怒鳴りつけるのに、「あははは」と笑う。アナは「残念なイケメン」と評したが、どう考えても、「頭のおかしなイケメン」だ。


「お、お嬢様をお放しくださいっ」

 必死な叫びに、私はいくばくか安心して、顔を向ける。アナが蒼白になって、拳を握っていた。


「お嬢様を……っ」

「ああ、君はハイデンベルグ伯爵の屋敷に戻るといい」

 言いつのろうとしたアナの言葉を遮り、ハロルドはにこりとほほ笑んだ。


「何言ってるの! 彼女は私の侍女よ!」

 腕に抱えられている、という不本意な体勢ながら、私は怒鳴りつけた。


「私をスザンカに連れ去る、っていうのなら、彼女も連れていく!」


 はは、とハロルドは笑い声を漏らす。


 その声が。

 表情が。

 瞳が。


「わたしが、君に相応しい侍女をつけてあげよう。あの侍女は必要ない」


 冷淡で。

 許諾など撥ねつける剛さをもって。


 どん、と。

 突き放した声に。

 私もアナも咄嗟に口を閉じる。


 だが、酷薄な笑みは一瞬で消えた。

 すぐに、人懐っこい表情を作ると、穏やかな声で告げる。


「さぁ。わたしと一緒に、スザンカに行こう」

「嫌っ!」


「伯爵にはもう、話をつけている。君の荷物は後から送ってくださるそうだ」

「はあああああああ!?」


「わたしの領地で、ふたりっきり。愛を育もうじゃないか」

「嫌だって!!」


「こんなに恥ずかしがっちゃって。かわいいなあ」

「誤解よっ! ちょっと!! 誰か!! 誰か助けてっ!!」


 背後からは、アナの「待って!」「置いて行かないで、お嬢様!」「私も連れて行ってください!」という泣き声混じりの声が追いすがってきたけど。


 あっさり、馬車に放り込まれ、私は拉致された。


 こうして。

 私は、「残念」で「頭のおかしい」、「イケメン」辺境伯の息子の妻に、なってしまった。

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