2.神の犬
「死人をもう一度殺すので?」
仕事の依頼書を見た瞬間、思わず訊ねていた。薄暗い告解室、その隔たりの向こうにいる司祭は何も答えなかった。
死んでいるならそのまま死なせてるおけばいいではないか──それが率直な思いだった。
壁の向こうにいる司祭の表情を窺いつつ、依頼書に目を通す。暗殺対象、所在、協力者……。最低限必要な情報は簡潔だった。反面、暗殺後の詳細については笑ってしまうほど事細かに書いてあった。
以下に記すものを聖女から採取し、持ち帰ること……。眼球、血液、心臓、毛髪、生きた赤ん坊……。
国家の中枢を担い、一般的には徳が高いとされる聖職者からの依頼にしては随分と冒涜的な内容だった。死の証拠が欲しいのか、集めたそれで人体実験でもするのか、それとも単なる趣味趣向なのか、興味はあったが詮索はしなかった。目の前の司祭はただの伝言役であり、詳細など知らないだろう。
依頼を了解して、紙をロウソクの火で焼いた。去り際、司祭が神の名を称え、告解の時間は終わった。
すぐに仕事支度を整え、首都を発つ。かつて血みどろの戦争を繰り広げた敵国を目指し、一路北へと向かう。仕事の経費は原則国家から支払われるので、道中はちょっとした観光である。
越境の際は商人を装った。停戦後も準戦時体制を緩めぬ敵国の国境検問は厳しかったが、手続きは滞りなく終わった。
国境を越え、仮住まいとなる拠点へ向かった。用意された田舎の安宿で少し休んだあと、まず標的の下調べを始めた。
暗殺の標的──戦いに敗れ、捕らえられ、そして死して名を消された聖女。
標的は拍子抜けするほどあっさり見つかった。元聖女とその子供はその辺の街角を普通に歩いていた。
標的は酒場や売春宿で働いていたが、あくまで下働きのようだった。ただ、さすが元聖女と言うべきか、見る者が見ればその立ち振る舞いは首都の高級娼婦ですら足元にも及ばないほど品があるのだが、多くは気づくだけの知性もなさそうだった。
歩き出したばかりの子供は何だかんだ大人たちに面倒を見てもらっているようで、このクソ溜めのような環境も気にせず、よく笑う子供だった。特に酒場や売春宿で用心棒をしている体の大きな女にはよく懐いていた。
子供の父親についても調べたが、そちらは情報提供者も把握してなかったし、資金の出どころを探っても足取りは掴めなかった。
一通り下調べを終えたが、どこにでもいる庶民の親子にしか見えなかった。幽閉どころか監視さえついていない生活は、かつては国家権力の象徴として人々にその教えを説いていた聖女のものとはにわかには信じられなかった。並みの男よりも戦い慣れしている女用心棒とよく一緒にいることを除けば、その生活は今を懸命に生きる、至って普通の生活だった。
小さな、しかし確かな未来があった。その光は眩しかった。
端的に言えば、こんな幸せそうな親子を殺すのは忍びなかった。国家の傀儡である聖女に祭り上げられ、高位聖職者らの道具として軍の旗印となり、そして敗北し用済みになった挙句暗殺の標的にされたその人生は、無常としか形容できなかった。聖女が産んだというだけの何の罪もない幼い子供が、賢人だの司書だのと呼ばれる陰気な聖職者連中の実験台にされるのを考えると、義憤にさえ駆られた。
真に死ぬべき者はもっと別にいる──そして、その最たるは自分である。
影に生まれ、影に生きる。生きる意味すら考えず、日々無為に人を殺す。自分には未来などない。家族や友人はおろか、仕事仲間と呼べるような人間さえいない。孤独ゆえに、この死は誰の悲劇にもなりえない。
国家に飼われた、名もなき犬。神の御名の許、ただひたすらに手を汚す犬……──しかし、それが神の犬となった者の人生である。
自らの境遇を振り返ることで、冷静になることができた──どう仕事を完遂するか──思考はもう切り替わっていた。
標的が何者なのか、そんなことはどうでもいいのだ。神の御名の許に国家から大命が下された以上、自分が手を下さずとも、遅かれ早かれこの女は死ぬ。
北風が吹く。親子の笑い声が路地裏の隅に流れていく。
その死は悲劇に違いないが、しかしよくある悲劇に過ぎない。母親が惨たらしく殺され、幼い子供が奪われ、ついでに巻き込まれた隣人のでかい女が死ぬだけの、大衆がよく好む悲劇……。
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