一人目 千里Ⅶ

 月に照らされた金髪が揺れる。


 きらりと光り、どこか神々しさまで感じられるほど。

 突然の来訪者は手に持ったナイフをそのままに、ゆっくりと悠一へ手を伸ばした。


「さ、帰ろう。あそこにはもう居られないから、どこか二人で遠くへ行こうか」


 普段と変わらないような、友人と会って話をしているくらいの、自然な声音。

 血のついた指先が頬にふれ、白い肌に朱が混じった。

 悠一は震えたままぴくりとも動けなかった。

 少年から言葉は返ってこなくとも、彼女は話を続けていく。


「そうだ、海がある町とかいいな。こんな山ん中の町じゃなくてさ。もっと楽しいことがいっぱいある所にしようぜ」


 もう一度、指先が頬を撫でる。

 震えている悠一を気にせず、千里は愛しそうに嗤った。


「なんだよ、先輩も嬉しいのか。最初っからそうしてれば良かったのかもな」


 以前の千里のような、太陽のような笑み。

 この状況では明らかに場違いな笑顔だった。それがまた恐ろしくて、指が撫ぜる度に背筋が凍りついた。

 潤んだ瞳で悠一を見つめたまま、ベッドに脚をかける。ナイフをベッドへ放り投げ、滴った血がシーツを赤く染めていく。


 距離がゆっくりと縮んだ。

 距離が詰まるたび、体が目の前の少女を拒絶するのが分かる。

 呼吸が荒くなって、体中に汗が滲む。涙が目端から零れ、視界が恐怖で狭くなる。ぼやけた視界の真ん中で千里が笑っていた。

 その反応を歓喜と見做した千里は、笑みを深くしてベッドへと上がった。


「邪魔する奴はアタシが全員ブッ殺してやるからな。あいつも……アタシの先輩を自分の物みたいに言いやがったあの女も、みんな潰してやる」

「あ、あの女って……」

「まぁ、先輩はそんなこと気にしてないでアタシのことだけ考えてればいいんだよ。先輩にはもう関係ないことだろ?」

「関係なく、なんか……!」

「いいから黙れって、な?」


 千里の言うあの女というのが、灯や真夜のことだというのは分かった。なら、自分に関係ない訳がないのだ。


 悠一の脚を跨ぎ、千里との距離がゼロになる。

 腰を擦り付けられ、千里の柔らかい双丘が押し付けられる。ぐにゅりと形を変えたその感触も、今は何も感じない。

 体は未だに恐怖を感じていた。それでも、千里の顔を真っ直ぐと見上げた。

 顔を寄せた千里の唇が触れる寸前で、悠一は意思を示す。


「か……関係なく、ない……!」

「もう、黙れって」


 吐息が触れるその距離、千里の目が剣呑な光を帯びる。

 ぴくりと動いた眉と、開いた瞳孔が怒りを露にしていた。

 一ヶ月で刻まれた恐怖が悠一の体を蝕んでいく。それを必死で押し殺して、悠一は言葉を続けた。

 

「灯も、真夜姉さんも、僕の大切な人だ。僕にもう一度家族をくれた、世界で一番大事な人たちなんだ」

「……」

「その人たちに何かするって言うなら、僕だって黙ってられない。それが千里ちゃんでも、誰だろうが関係ない」


 目と鼻の先にいる千里へ思いをぶつけた。

 恐怖は拭いきれていなかったが、それよりも強い気持ちが体を支配した。言葉を吐く度に体に何かが漲っていくように感じられる。

 手の震えは小さくなり、声も次第に大きくなっていた。千里はその言葉を黙って聞いたままだ。  

 頬に添えられて千里の手を掴み、そっと離す。ぞっとするくらい冷たい手だった。

 優しく握った手に熱を込め、悠一ははっきりと告げようとした。

 

「だから、もうやめよう。最初から僕が言うべきだったんだ。僕は、千里ちゃんの―――」

「うるせーよ」


 刹那、言葉よりも早く、千里は悠一の口を塞ぐように鷲掴みにした。

 頬に爪が食い込み、握り潰さんばかりの力で言葉を遮る。そのままベッドへ押し倒された。

 獣のような眼光。肩で息をする程荒れた呼吸。まさにケダモノじみた力の強さが、少年から抵抗する力を奪っていく。

 抵抗してもビクともせず、そもそも疲弊しきった体では抗いようがなかった。


「ンーっ!む、んんっ!」

「うるせえ。うるせえよマジで。なんでそんなこと言うんだよ……先輩はアタシの物だろ。アタシの事だけ考えて生きていればいいだろッ!」


 眼前での咆哮。

 声の衝撃でびりびりと窓が揺れる。

 監禁されていた時ですら、彼女がここまで激昂したことはなかった。確かに暴力は振られていたものの、どこか躾をする母親のように振舞っていた。初めて向けられた憎悪の視線が、押さえ込んでいた恐怖を簡単に呼び起こした。

 

「わかってねえよ先輩。誰の為だと思ってるんだよ。アタシは先輩の為にここまでやってるんだろ!なら先輩はアタシの為に生きなきゃだめだろ!!」


 千里の手が離れる。直後、悠一は目から火花が散ったように感じた。

 遅れて痺れるような感触が頬を襲い、舌には鉄の味が押し寄せる。

 血だ、と思うと同時に、今度は頬とは逆側の瞼の当たりに衝撃が降ってきた。痛いというよりは熱い、という感覚で、そこで初めて自分が殴られているのだと気付いた。

 

「なんでだよ、なんでだよ、なんでだよ……」

「ぁっ……、がっ、うぁッ……!」


 何発か殴られたところで、悠一は腕で顔を覆い隠す。それでもなお容赦なく降り注ぐ拳に耐えるしかなかった。

 千里はその腕を掴み上げ、ベッドへと押し付けた。血と痣に塗れた顔の悠一を荒い息で見下ろす。

 やり過ぎたとは思わない。こうでもしなければ、悠一が自分から離れていってしまうと思っているからだ。

 暴力と陵辱でしか繋ぎとめられないのだ。そうしなければ彼は自分を見てくれない。それが細糸のように切れやすい絆だということも分かっている。

 本当はこんなことしたくなかった。でもそうでもしなければ、彼はあの夢のように笑ってくれない。

 今は痣だらけになっても血に濡れても、彼は自分が求める顔にはならない。

 あの笑顔はなかった。その代わり、向けられたことのない侮蔑の視線が突き刺さった。

 

「自分の、だめでしょ……っ」


 見たことのない顔に、千里は動きを止めた。掴んだ腕をそのままに視線が交錯する。

 明らかな敵意を剥き出しにする彼は、悠一と出会ってから初めて見た。自分はもちろん、他の誰にも向けていることは見たことがなかった。

 それが今、自分に向けられている。胸の奥でざわめきが大きくなっていく。

 

「全部、僕の為なんかじゃない……自分のためだろっ……!」

「違うッ!アタシは……」

「違うもんか。君が僕の家族を傷つけるっていうなら、僕は君とはいられない。他の誰を傷つけようとも、僕の家族を傷つけるのだけは許さない」


 はっきりと言い切った。

 千里を助けたいと思っていたのは、あくまで彼女の執着する先が自分だったからだ。

 彼女の意識の矛先が自分だけであるならば、暴力だろうと陵辱だろうと構わなかった。だがそれが彼の家族へ向かうのなら、話は別なのだ。


 敵意を超えた、憎悪の眼。

 お前は敵だと、悠一の目が語っている。


(なんだよ……なんでそんな目で見るんだよ)


 千里は悠一の上で、何も言えずにいた。

 反論したくとも言葉が喉から出てこない。暴力で彼を従える気も、ましてやあの時のように行為に及ぶ気も沸いてこなかった。

 それが全て逆効果であったと、今初めて悟ってしまった。

 

 自分自身、薄々は気付いていたのかも知れない。

 彼の気持ちが自分に向いていないことも、あの笑顔が仮面のように本心を隠すためのものだとも、心のどこかで解っていた。

 それを認めたくなくて、でもどうしようもなくて、殴って、謝って、陵辱したのだ。

 それが今、認めざるを得なくなってしまった。

 千里が歯を噛み締める。出した声が嗚咽になって、訳のわからない言葉になる。


 対峙した状況で、悠一は腹を括った。

 今ここで言わなければならない。それが自分に課せられた義務でもある。

 千里には申し訳ないが、彼女の想いは受け取れない。だらだらと回り道をしてしまったが、自分が未来を共に歩く女性ではないとはっきりと分かったのだ。

 最後に一言だけ、しんと静まり返る病室で、悠一はその言葉を口にした。


「僕は君とは歩いて行けない」 


 千里への怒りが薄れ、視線に憐憫の情が乗せられる。それが千里にとって引き金となった。

 

「―――そんな目でアタシを見るなッッ!!」


 鈍い銀色が一閃する。

 月明かりを反射して、千里は手に取ったナイフで横薙ぎにした。

 悠一は反射的に顔を背けた。目を狙ったナイフが逸れ、こめかみから頬にかけて赤い線が引かれた。

 返す手で千里がまたナイフを振るった。今度は逆手に持ったそれで、自分を哀れんだ目を突き刺すつもりだ。


「ああああぁぁッ!」


 右手に力を込める。逆の手で首を掴み、次は外すまいと狙いを定めて突き刺す。

 しかし今度は彼の細腕に邪魔をされた。顔全体を覆うように出された腕に深々とナイフが突き刺さる。刃渡りの三分の二程が埋め込まれて、悠一の口から悲鳴が上がった。

 

「いっっ……!あぁあぁぁッ!!」


 悠一の目にはもう憐憫も憎悪もない。映っているのは痛みや恐怖だけ。それでも、自分に向けられたあの目が許せなかった。


「……はっ!そうだよ、その目だよ!アタシにあんな目を向けんじゃねぇ!」


 他の誰にどう思われようが関係ない。

 他人は所詮他人だし、関りのない奴が自分を敵視しようが哀れもうが関係ない。

 だが、悠一だけはだめなのだ。

 彼にだけは、そんな目をして欲しくなかった。

 笑ってくれないのなら、彼に可哀想な女だと、憎い女だと思われるくらいなら、いっそ無くなってしまえばいい。

 

(そんな目はもういらない!)


 腕からナイフを引き抜く。血が溢れ出して、少年とベッドを赤黒く塗り潰していく。

 鉄臭さと悲鳴が心地良かった。手に感じるどろりとした血の暖かさも悪くない。

 彼の命を自分が握っているんだと感じられるのだから、気分が良くないはずがなかった。


「はぁっ、はぁっ……先輩、動くなよ」


 引き抜いたナイフを眼前へと突きつける。

 目に触れるギリギリまで近づけた。

 腕と頬に痛みと熱さを感じながら、悠一はぴくりとも動けずにいた。流れる血と共に体温が失われていく感触は体験したことがなかったし、何よりここまで命の危険を感じたこともなかった。

 汗が止まらない。ベッドから一歩も動いていないのに、呼吸は全力疾走をした後のように荒い。

 ナイフの先端が、左目に触れるか触れないかの距離で鈍く光った。


「大丈夫だ。目がなくなったって、アタシが一生世話してやるよ。どうせならその腕もいらないか……その方が、アタシがいなければメシも食えなくなるだろ?あぁ、アタシと一緒に歩けないなら、その足も要らないよな」


 自分なしでは食事も排泄も、身動きすら取れない悠一を想像して、千里は身震いした。

 異常なその思考も、今は全くおかしいとは思えなかった。むしろ最良の考えで、それしかないとさえ思える。なんでもっと早く思いつかなかったのだろう。

 冷静にどうやって切り落とそうか考える自分に、思わず笑ってしまった。

 どの道この場所では出来っこない。早く連れ出して、どこか遠く誰もいないところへ行こう。

 自分とは歩いていけない?

 手も足も、目もなくなった少年が同じことを言えるのか、今から楽しみだ。

 

「はははっ……あははははッ!」


 けたけたと笑い声を上げた。

 これから素晴らしい未来が待っている。今度こそ彼は自分の物になるのだ。

 これが笑わずしていられようか。


 眼前でナイフが揺れる。

 今にもその目に触れ、光を奪いかねない状況だった。


「っ、ちさと、ちゃん……」

「はははは、はぁ……あーもう、さっさとやっちまうか。とりあえず今は目な。後でキッチリその手足も切り落としてやるから」


 首を傾げて、悠一を見下ろす。

 その目は狂気そのもので、最早正気は完全に失われていた。


「ちさっ……!」


 ナイフがすっと離れる。とはいってもわずか数センチ程で、これから始まる凶行の助走のようなものだった。

 千里の口がにんまりとした笑みを作る。その白い歯も、赤い舌も不気味な化け物のようだ。


 制止する声を上げるの同時に、ナイフはその空いた空間を真っ直ぐに走った。

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