7. 韓紅のtwilight

7-1

「響也のおばあちゃん、つまり私のお母さんが亡くなってから初めて私が帰国した時のこと、覚えてる?……大泣きする私を、響也とお姉ちゃんが慰めてくれて。あれは響也が13歳の8月、お盆の時だったね」


 聞きながら、鮮明に思い出していた。暑さなんか忘れるくらいの悲しみに包まれて、僕達はみんな泣きながら祖母のお墓に花を供えた。


「日本でお盆を過ごしてアメリカに戻った時、拓也と会ったの。会うといつも一緒にご飯を食べに行ってたんだけど、その時は違った。彼は私を自分のラボに呼んだ。2人きりのラボで、彼が話してきたの。俺と一緒に、新たな研究を始めないかって……その研究内容を聞いて、私は最初断った。到底参加できるものではないくらい、危うい研究だった。私は今までの自分の研究を誇りに思っていた。研究者としての善悪の分別は、しっかりしているつもりだった。だから、そのキャリアを捨てたくなかったの」


 黙って聞き続ける僕をちらりと見て、雛さんは続けた……。




*********


 ラボに入ると、白衣を着た拓也が出迎えた。


 離婚はしたけれど、やっぱり彼はいつでも魅力的に見えた。細いけれど力のある目。精悍な顔立ち。卓越した英語力と頭脳。研究に対する情熱的な姿勢。雛のことが好きだ、と言ってくれた時の、やや熱を帯びた声。そうした拓也の存在全てが、いつになっても私の心を捉えて離さない。


 ラボには私と彼しかいなかった。勧められた椅子に座ると、彼は私に近づいて日本語で囁いた。


「なぁ雛。俺と新たな研究を始めないか?」


 私が首を傾げると、拓也は少し笑って、ホワイトボードの前に立った。マーカーを持ち、大きく何かを書く。


 “歩く特効薬”という文字が現れた。拓也はその文字の所を手で軽く叩いた。


「俺はこれを造りたい。将来的には、道端で急に倒れた人にもその場で応急措置できるような、歩く特効薬を」

「ちょっと待って、イメージがつかない……それは、具体的にどういうものなの?」

「サイボーグみたいなものだよ。俺たちでイチから、薬の成分を含んだ人間を造るんだ」

「え……人間? なんで?」


 よく聞いてくれた、とでもいうように拓也は胸を張る。


「共生させたいんだよ。人間は差別し合う生き物だ。差別して、憎み合って、ひどい時には殺し合う。そんな人間を俺は変えたい。新たな存在を作ることで、異なる人々を受け入れて、一緒に生きることの大切さを分かってほしい。人間とそれ以外のものが自然に暮らせる社会を作りたい。特効薬として存在すれば、少なからず人間から感謝される。それによって彼らの存在意義が生まれる。一方は人間を救い、他方は人間によって生きることを許されるんだ。素晴らしいことだと思わないか? だから俺は、この研究を雛と進めたい。雛は細胞に関する研究を前にやっていたよな? それを応用すればできるはずなんだよ、人間の形をした、人間と一緒に暮らせる、新たな存在が」


 拓也が差別解消にこだわるのには理由があった。彼ととても仲の良いアメリカ人研究員の父親が、軍人として戦争に駆り出されて帰国した後、PTSDに陥っていたからだった。ただいがみ合って殺し合って、“敵”だけでなく仲間も失った。彼は深刻なトラウマを背負い、帰国後も、頻繁なフラッシュバックや寝つきの悪さに苦しんでいた。


 だから拓也の想いは分かる。けれど、試験管の中で“人間”を造り出すなんてことは、私の良心が許さなかった。第一そんなことが知られたら……あまりに危険だった。たとえ拓也の頼みでも、こればかりは二つ返事で引き受けることはできない。


「差別をなくしたいのは分かるよ。でも、その存在を造ることには問題があるってこと、拓也も分かるでしょう? クローンと同じだよ、そんなのは。……悪いけど、私は協力できない。重大な倫理違反をしてまで関わりたくない。自分のキャリアを守りたい」


 すると、拓也の顔がみるみると曇っていった。


「雛、何でだよ。必要な時は俺に協力するって前に言ってくれたじゃんか」

「でも……それとこれとは違う。とにかく今回は協力なんてできない。拓也、どうしちゃったのよ。これが倫理的に相当マズいってことくらい、分かるよね?」

「確かに今の倫理観ではマズい。そんなの承知で雛にだけ話してる。けど今は、倫理とかそんなこと言ってる場合じゃないんだ。倫理の捉え方を俺達は変える必要がある。……それに雛、忘れちゃったのか?」

「何を……?」


 拓也はまた近づき、私の肩に触れた。


「もう、NBJの話を忘れたのか?」

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