colorless
1 日本
この地域の虫は何てうるさいんだ。
長袖にしたのは正解だった。やぶ蚊がどんどん血を吸いに来る。ぼくの体は他地域の気味の悪いウイルスや菌に侵され始めているだろう。本当にボストンを離れるべきじゃなかった。でも、指定されたのはこの場所なんだ。どうしようもないじゃないか。
ぼくは自分に悪態をつき、自分で悪態を返す。
蝉の声は多彩で、ジージー、シャワシャワと騒がしい。延々と耳の中で鳴いているような気分だ。だってここに来てからずっとこの手の蝉の声を聞いてきたから。
木漏れ日がぼくの顔をちらちらと照らす。汗が目に入って鬱陶しい。草がぼくの足を狙うかのように何度もぶつかってくる。ぼくが乱雑に歩くから当たるのだというのはわかっているけれど。この道はどう見ても獣道じゃないか? 道幅は一メートルしかないし、土だけの部分を見ると五十センチもない。来た道を見下ろすと山々の深淵を覗くような緑色の闇だ。Darknessという言葉は色を限定していない。闇は黒だけではないと思い知る。この山々は昼間でも色つきの闇を見せる。
「ねえコリン。いつになったら着くんだよ」
声がして、もう一度振り向くとメロディーがうんざりした顔でこちらを見ていた。縮れた赤毛が汗で顔に張りついているので、目に入らないように避けてやる。メロディーはにっこりと笑った。
「リングはこの辺だと言ってる」
「この辺って?」
「あと一キロメートル」
「うっそだろ!」
メロディーは大袈裟なジェスチャーで応えた。
空港からタクシーを走らせ、目的地には多少は歩くつもりではいたけれど、こんなにも時間と労力がかかるとは思わなかった。麓の村は完全に寂れ、家は五軒しかない。どこもかしこも草に覆われ、草の中のあばら家で暮らしている人々を見ると、やはり最低でも都会に住むのが文明的生活だな、と思う。彼らは充分きれい好きで、手をかけて家から野生を追い出していると聞く。それでも一メートルを越すイネ科の植物に家を乗っ取られているのは、新大陸人が開発した促成剤のせいだろう。除草剤は禁じられている。植物の遺伝子を変異させるから。ちゃんとした家に住みたいなら、促成剤の撒かれていない場所に住むか、家を特別な素材で作るしかない。どれも庶民には手の届かないものだが。
果たして目的地も同じように草が生い茂っているのだろうか? そんなことを考えながら、店内に小さな草が生え、壁にツタが這う村唯一の商店で飲み物を補給した。空は高く、巨大な入道雲ができていた。この近くで嵐が起きている。店主の中年の女性は、深いしわのある顔をほころばせてにこにこ笑い、ミネラルウォーターを一気飲みするぼくらを見て何度もうなずいた。ぼくらをかわいい観光客の兄妹とでも思ってのことだろう。本当に日本の田舎の人々は素朴だな、と思う。
ぼくとメロディーは家族で日本にやって来た。日本ときたら文明的なのは一部の都市だけで、ほとんどのエリアは素朴で無知な人々の住まう田舎となっている。奈良では鹿が人の住む街中に進出していたし、ここ九州の宮崎ともなるとその辺りを猪の群れが当たり前のように歩いているというから気をつけなければならない。ぼくたち家族は関西の空港に降り立ち、京都で苦いお茶を飲まされ、着物を着せられ、文化体験とやらを済ませた。ぼくは父にメロディーと二人で宮崎に行きたいと言った。高千穂峡に行くのもいいし、山の上にあるちょっとした古民家が素敵で、行ってみたいとはしゃいで見せたのだ。父は渋い顔でしばらく考え、行くなら日帰りにしなさいと言った。ぼくらは喜び、飛行機に乗り、宮崎の小さな空港に降り立った。そして今がある。
車を降りたらそこは草むらで、アスファルトの道路は終わっていた。ここからは歩くしかないと運転手に言われた。草だらけの村を見下ろす、原生林の生い茂る山々。段々細くなっていく道が、山の上に向かっていくのが見えた。気持ちの悪い鳴き声が聞こえた。ぶつぶつつぶやくような陰気な声。フクロウがもう起きているのかと思いきや、リングに調べさせるとそれはブッポウソウという鳥の声なのだそうだ。草にもうんざり、虫にもうんざり、山も何だか気味が悪い……。自然なんてくそくらえだ。きれいさっぱりなくなって鉱物だけになったほうが、地球はきれいなんじゃないか? まあ、ぼくもメロディーも暮らせなくなるけど。
自分が土を踏む音が聞こえる。今日のために靴を新調した。足が痛くならないハイキング用の靴だ。ぼくは白でメロディーは深紅。メロディーは強気の色がとても好きだ。
右は崖、崖の下も山、左手にはぼくたちが螺旋を描くように登ることを示す小高い山の頂上に近い部分が見える。このままぐるぐる登るわけか。ここに住んでいる人間も、大変な苦労をして生活しているのだろう。
突然、螺旋が終わった。ぼくとメロディーは開けた場所にいた。木々に囲まれたそこは、薄暗く、静かだった。細い道の両側にある畑にはトマトやキュウリが生り、西瓜もある。人々が座って談笑するための縁側と、玄関。思ったより小さな建物がそこにあった。木造だ。屋根は、茅葺き。あまりにも日本的な建物がそこにあった。
「ふうん」
メロディーがつぶやき、背負っていた大きなリュックサックからコンピュータを取り出した。十センチ角の赤い塊に見えるそれは、最新のコンピュータだ。父が彼女に与えた。彼女はそれに文字を指でなぞるように書く。コンピュータは動き出す。するとコンピュータの周りにおびただしい数の記号が広がっていく。彼女はその一つ一つを指で動かし、確認していく。
「まあまあよくできてるね。多分安全だよ」
それはこの場所のことを言っているのだろう。ぼくらは古民家で日本的体験をしに来た。建前上は。
「あんまりじっくり見ないでいただけますか。拙いコードでね」
声に振り向くと、コーヒー色の肌をした恰幅のいい大男が藍色の作務衣を着て玄関先に立っていた。
「わたしの自作のコードでね。あんまり見られると恥ずかしいんだ」
メロディーは素早くコンピュータの映像を消した。そして男を見る。きっとメロディーも気づいただろう。男はどう見ても只者じゃない。目つきは穏やかで、整えられた口ひげを生やしていて、一見他地域からやって来たよくいる文化人という感じだが、そうじゃない。
「あなたはもしかして……」
男はぼくを見た。ぼくはにっこりと微笑み、自己紹介しようとする。男は手を振り、こう続ける。
「中に入ってください。皆あなたを待っていました。皆で自己紹介しましょう」
ぼくはメロディーを連れて玄関に入る。土間だ。スキにクワ、清潔な上下のつなぎ、土のついた長靴。農作業の道具が溢れている。ぼくとメロディーは靴を脱ぎ、一段高い場所にある障子紙の張られた閉じた引き戸を開く。目が合った。茶色い目。青い目。彼らもぼくの灰色の目を見ただろう。
ぼくは何食わぬ顔をして入っていく。二人の男女は戸惑ったようにぼくを見ている。メロディーが続く。すまし顔の彼女を見て、女のほうは口をぽかんとさせる。
部屋は畳敷きになっていて、真ん中に囲炉裏がある。きっと夕食のときにはここで野菜を煮たりするのだ。使われた形跡もきちんとあるから。二人は畳の上の座布団――平たいクッション――に座り、ぼくとメロディーを見ていた。ぼくも座る。男と向かい合うように。メロディーも座る。ぼくの隣に。奥から先程の男がやってきた。朱塗りの盆にサイダーの注がれたガラスのコップを載せて。見てみれば二人の男女も横に飲み終えたコップを置いている。
「さあ、自己紹介をしましょう」家主である男は言った。「わたしはサンド」
「わたしはロゼ」アジア系とヨーロッパ系の血筋をうかがわせる若い女は戸惑いがちに言った。「性別がわからないように振舞っていたつもりだけど、何となくわかったと思う」
「わたしはジョージ」金髪を撫でつけた三十代ほどの男は、ぼくをまじまじと見つめながら言った。「もちろん偽名だ」
ぼくはうなずいた。それから、皆を見渡した。「ちょっと待って」とロゼがぼくの発話を遮る。
「本当にあなたなの?」
「何がですか?」
ぼくは微笑みながらとぼけて見せる。
「本当にあなたがあの……」
「そうですよ。ぼくがルイ・ブランです。あなたがた反政府組織を指揮してきた、リーダーとでも言うべき」
ぼくが肩をすくめると、しん、と三人は静まり返った。メロディーが目だけで全員をきょろきょろ見ているのがわかったので、背中をつついた。大人しくなった。ロゼが追及してくる。
「わたしは――、わたしは到底信じられない。あの指令をあなたが? とても的確で、残酷とも言うべき作戦を命じたのがあなた?」
「そうですよ」
「わたしはずっと四十代ほどの人物だと思っていた。もしかしたら女性かもしれないとは思っていたが、まさか――」
ジョージが割って入る。こちらも落ち着いているように見えて動揺していたようだ。
「その子は?」
サンドがぼくの隣のメロディーにてのひらを向けた。ぼくは説明しようとしたが、メロディーが黙っていなかった。
「あたしはライリー。もちろん偽名。ルイの作戦に最初から参加してるんだ。サンド、ロゼ、ジョージ。あんたたち三人を見つけたのはあたしなんだからね! さっきから何だよその態度! 舐めるなよ、ルイが十五歳の子供だからって!」
メロディーは指を三人に突きつけた。ぼくは笑ってメロディーの頭を撫でる。メロディーは大人しくなる。
「よしよし、いい子だから黙っててくれよ。ここからは信用の問題なんだ」
ぼくは手を――十五歳相応の貧弱な手を――小さく広げた。
「あなたたちの願いは叶うでしょう。正当な出世、平等な世界、傲慢な新大陸人が消えること……。それらすべての願いが。ぼくはそのために準備してきた。ライリーはぼくのためにあなたたちを探してきた。ぼくはあなたたちの新大陸人に対する並々ならぬ憎しみを受け取った。そしてぼくはあなたたちを選んだんだ。まずはロゼ。あなたは新大陸人の横暴にうんざりしていましたね。友人が新大陸でレイプされて殺された。充分な動機だ。あなたは正義の人だ。次にジョージ。あなたは政府機関に勤めている。誰よりも優秀なのに新大陸人と違って出世できないことに怒りを覚えていましたね。それは変わるでしょう。最後にサンド。あなたは新大陸に強い恨みを抱いている……」
「どうやってそれを知ったの?」
ロゼは気味が悪そうにぼくを見る。他の二人もだ。ぼくは微笑む。
「ライリーはハッキングの天才なんです。多分サンドと張り合えるくらいのね。まだ十歳だけど、ソピアー社のシステムに容易に入り込めるんですよ」
三人はメロディーを見る。サンドだけがすぐに理解したのか落ち着いた表情で、他の二人は信じられない顔だ。
「ぼくはライリーの手助けを得ながらあなたたちに接触したんです。ソピアー社および世界政府に知られないように、秘密のルートを利用してね。この場所もそういう作りになっているのでしょう?」
サンドを見る。彼はうなずいた。
「この場所は偽のバイオリズム、偽の生活音、偽の会話が流れる空間となっている。サンドの仕事です。最高だな」
メロディーがもの言いたげにぼくを見る。多分自分ならもっとできると言いたいのだろう。
「そういうわけで、ぼくらは安全に会うことができているんだ。さあ」
ぼくは完璧な優等生の笑みを浮かべた。
「世界を壊す、最後のスイッチを押しましょうか」
三人は、ぞっとした顔をした。ぼくの表情はそんなに恐ろしいものだろうか? この平凡なぼくが?
「その前に、聞かせて」
ロゼがおずおずと声を出した。ぼくは年相応の少年に見えるよう、きょとんとして見せる。
「あなたが新大陸人を消したい理由は?」
メロディーがじっとぼくを見る。ぼくが正直に答えるかどうか見ているのだろう。ぼくは唇を湿らせる。首を傾げ、少しだけ考え――、
「単純にね、ぼくは愛がほしいんですよ」
と答えた。
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