うへぇ、濡れてるのキモチワルイ……

統一暦499年8月15日午後9時20分

「……っつ」

 激しく打ち付けたせいか、全身が痛む。そのせいで攪拌かくはんされてしまう意識をなんとかまとめ、思い出した。

 アメリアがACARIを連れて部屋を出て行って、すぐに追いかけたが爆発?が起きて……?

 ただ、船の一番下から二番目の層まで吹き抜けのように吹き飛ばされているし、なくなった天井から入り込んでくる雨がシャツを濡らしているから、凄い規模の爆発が起きたのは事実だろう。ここはその吹き抜けの一番下。爆発による崩落に巻き込まれたのだろう、瓦礫に半ば埋もれる形で恵吏えりは横たわっていた。

 紅音あかねは無事なのか、ジェシカさんは?一通り辺りを見渡してみるが、それらしき姿は見えない。

 なんにせよ、最下層の床に瓦礫と共に叩きつけられたはずの自分が無事なんだ、紅音たちも無事なはず。恵吏はそう信じることにして、行動を開始した。


統一暦499年8月15日午後9時25分

 紅音は奇妙な浮遊感の中で目が覚めた。なんだか、足場が安定しない。

 それもその筈、足場以前に紅音は空中に居た。

「ひぇッ!」

 あまりにも突飛な状況に、紅音は変な声が出てしまった。

 冷静になって(なれっこないが)周囲を確認してみる。

 まず、船はかなり下のほうの層まで大穴のように吹き飛んでいて、そこから雨粒が容赦なく吹き込んでいる。自分は爆発直前にいた層の二つ下にいるようだった。その層の天井の破壊されて剥き出しになった鉄筋にパーカーが引っかかって宙釣りになっていた。

 怖さのあまり過呼吸になってしまうのを必死で抑えながら下に視線をやると、辛うじて壊れずに残っている床は真下に10メートルほど離れているのが確認できた。

 無理じゃん。

 紅音は普通の人間だった。アニメや漫画の主人公のような人間離れしたアクションはできない、普通の人間だった。

 こんな高さ飛び降りたらイロイロ折れるじゃん。

 しかし、パーカーの化学繊維が素晴らしい強度を発揮して紅音の体重を支えているものの、そのうちその繊維も千切れて落ちてしまうだろう。と、そこまで考えた紅音の心は恐怖に支配されていた。

 あまり動いてはいけないというのに、全身の震えが止まらない。心臓の鼓動が激しくなる。呼吸が浅くなる。

 結論から言うと、パーカーは破れなかった。生地は十分な強度があり、縫合も生地以上に丈夫だった。

 問題は雨だった。パーカーは雨粒を吸った。雨粒を吸ったパーカーと鉄筋との摩擦係数は低下していた。そして、恐怖からの紅音の震えが決定打となった。

 少しずつ視点が下がっていくことに紅音が気付いた時には、もう手遅れだった。

「え?あ、ちょ待って!」

 物理法則は人間の生き死になど考慮してくれない。非情な重力が牙を剥いた。

 しかし、紅音はそのまま地面に叩きつけられはしなかった。

「……ッ!」

 二メートルほど下にあった別の鉄筋に掴まったのだ。

 掌がすごく痛い。腕が千切れてしまいそうだ。指がもげてしまう。

 日頃からの生活のせいで圧倒的に運動不足な恵吏よりは体力はあった。それでも、平均的な女子高校生より少し上くらいだ。こんな状態を長く続けられる筈がない。

 全身の服――パンツまでも――は雨に濡れ、重たく水を含んでいた。紅音の腕力は限界に達した。

「……も……だめ……」

 紅音の手が、離れた。

 紅音の身体はそのまま床に叩きつけられ――なかった。立役者は、またしてもパーカーだった。

 床から4メートルほどの高さで長い鉄筋――天井を構成していたものらしい――が延びていて、その先端がパーカーに引っかかった。そこで一度運動エネルギーが打ち消され、そして、体操選手のようなきれいな体勢で床に着地した。

 紅音は暫く茫然自失としていた。上を向いて先ほどまで自分が引っかかっていた鉄筋を見て、下を向いて自分が10メートル下の床に無事着地したことを確認した。

「生きてる……」

 呟いた紅音は床にへたり込んだ。

 安心して色々と緩んだらしい。涙腺が緩み、頬が緩み、そして膀胱が緩んだ。イロイロな体液が溢れたが、雨のおかげで誤魔化せそうだ。

「うわぁぁぁああん!!」

 喜んでいるのかよく分からない表情で紅音は泣いた。


統一暦499年8月15日午後9時23分

 アメリアはなぜこんな客船に乗っていたのか。輸送というだけなら、もっと他に合理的な手段があったはずだ。それでも、アメリアは……アメリアの上層部は、わざわざ客船での輸送を選んだ。それには何か理由があるはずだ。でも、それは一体何なんだ?客船、海、水……

 そんなことを考えていた恵吏は曲がり角で誰かとぶつかった。

「あ、ごめんなさい。」

「こちらこそ。」

「……」

「……」

「「あ」」

 それは他でもない、アメリアだった。

 恵吏は慌てて物陰に隠れる。直後、飛んできたナイフが頬の数センチ横を掠る。

「なんでこんなとこに居るんだよ!」

 アメリアの怒号が飛んでくる。

「こっちの科白だよババア!」

 とりあえず口頭で応戦する。

 アメリアは灯を連れていなかった。既に脱出準備はできているんだろうか。だとしたら急がないと今度こそ灯を見失いかねない。

 ショートパンツのポケットの中を覗き込んだ。使ってしまったら、もう戻れなくなる。

 そこで隙が生まれた。

「……ッ!」

 アメリアの腕が恵吏の首を絞めにかかる。

「もっかいお仕置きをされたいのかな?クソビッチが。」

「……そんな、嫌……」

 アメリアは空いているほうの手を恵吏のパンツの中に突っ込む。

「嫌、やだ、やぁ……」

 恵吏は嫌な記憶を思い出してしまった。灯と一緒に誘拐されたこと。灯と離れ離れになってからの、情報を吐かせるという大義名分の一週間続いた凌辱。生々しい破瓜の記憶。不快でしかない快感。何がこぼれているのか感覚がなくなった体のあな

 しかし、

「忙しいから相手してる時間はないんだよ。さっさと帰れ。」

 アメリアはそう言って恵吏を放り投げた。恵吏の身体は固い床に打ち付けられる。

 思い出しただけで腰がガクガクしている。なかなか立ち上がれない恵吏を尻目にアメリアは歩いていく。恵吏はもう一度ポケットの中に目をやる。ここで逃がしてしまったらいけない。恵吏の何かが断ち切れた。

「……動くな。」

「……ああん?」

 恵吏がポケットから取り出したのは、掌ほどのサイズの銃だった。

「それは……レールガンか?」

「……よく分かってるじゃん。これの威力が理解できるくらいの頭があるなら、灯の場所を教えて。」

 少しの間沈黙した後、アメリアはため息をついた。

「クソガキに一つ教えてやるけど、人を殺す覚悟もないのに構えるレールガンぶき玩具おもちゃでしかないんだぞ?」

 恵吏は引き金を引く。直後、数ミリ角の金属弾が超音速で発射された。音速を超える物体は破壊的な衝撃波を生んだ。その衝撃波はアメリアを壁に叩きつけた。

「てめ……マジで撃ちやがった……」

「分かったなら、早く教えて。」

 暫く沈黙した後、虚空を見つめるアメリアは言った。

「右舷にある非常用脱出ボート。」

 恵吏は無言で引き金を引いた。


統一暦499年8月15日午後9時30分

「おっそいなぁ……」

 ミリリは小さな手の中に収まる端末が示す時間を見ながら呟いた。

 9時10分頃から、アメリアは「個人的にやりたいことがある」と言って非常用脱出ボートの確保だけ命じて別行動をとっていた。

 ボートの前でイライラを募らせていたミリリはその足音がやってきてすぐに反応した。

「おい、遅すぎるぞ!」

 しかし、姿を現したのはアメリアではなかった。

「残念だけど、君の保護者さんはもう来ないよ。」

 レールガンを片手に携えてやってきた恵吏は静かにそう告げる。

「……ど……どういうことだ!」

「……さあね。」

 ミリリは小さな銃を取り出して恵吏に向けた。

「そんなことしても、結果は私だけが死ぬかあなたも死ぬかじゃない?」

 恵吏はレールガンの銃口をミリリに向けた。

「……アメリに何しやがった!……許さない、絶対に許さない!」

 恵吏は溜息をつく。

「まあ、私も幼女を殺す趣味はないからね。」

 レールガンの引き金はいとも簡単に引かれた。音速を超える速さで射出された弾丸は、その衝撃波だけでもミリリの身体を吹き飛ばすのに十分だった。

 ミリリがまだ息があることを確認すると、恵吏はボートのなかを覗き込む。そこには手首に簡易的な拘束具を嵌められたACARIがいた。

「……さあ、行こう。」

 恵吏はいつかのように彼女を抱き上げて歩き始めた。


統一暦499年8月15日午後9時42分

「もうおねんねの時間?」

 そんな声でアメリアは目が覚めた。

 全身が痛むし、口の中がジャリジャリする。それでも、アメリアはまだ生きていた。

 悲鳴を上げる筋肉を無理矢理動かし、上半身を起こす。血や唾液と一緒に口の中の砂利を吐き出して、目の前に立っていた人物を睨みつける。

「……ジェシカ。」

 レールガンの衝撃波で吹き飛ばされ、瓦礫の下敷きになっていたアメリアを助けたのは、エルネスタの秘書のジェシカだった。

「私も色々と言いたいことがあるんだよ。今なら周りを気にすることもないし、何か言いたいなら今のうちだよ?キャサリン・ホワイト。」

「……その名前で呼ぶのはやめろ。」

 ジェシカは意地悪そうな顔になる。

「キャサリンって、愛されるものとかって意味だっけ?」

「だからやめろ!」

「ふふ、それだけ元気ならいっか。……やっぱこのことって他の人には話してないの?」

「……ああ。……二人だけの約束、だからな。」

「……あんたって結構かわいいとこあるんだけどね。みんな気付いてくれないだけなんだよ。」

 どこか遠くを見つめていたアメリアが呟いた。

「……どこからだろうな。こんなに離れたのは。」

「……さあね。でも、私たちはあの地獄みたいな路地裏の風俗からここまで来たんだ。お互いよくやったとは思うよ。」

「お前は大統領の秘書、私はマスティマの幹部。まるで真逆だがな。」

 ひとしきり二人で笑っていた。


統一暦499年8月15日午後9時47分

 紅音は船の中で迷いに迷った挙句、よく分からない部屋に迷い込んだところだった。そして、そんな紅音の足元には海水が膝ほどの高さまで侵入していた。

「嫌だ嫌だ嫌だ、こんなとこで死にたくない嫌だ!」

 紅音は水に足を取られながら必死に上に登れる場所を探していた。


統一暦499年8月15日午後9時50分

 恵吏はかなり焦燥して船内を走り回っていた。

「あかね……あかねッ!どこに居るの?沈んじゃう……!」

 恵吏の腕の中のACARIが呟いた。

「赤坂紅音さんは、船の左舷後方の第3層に居ます。」

「それって、めちゃくちゃ離れてるってことじゃん!」

 客船ノアは、広かった。


統一暦499年8月15日午後9時52分

 水位は上がりつつあった。紅音の腰まで水は上ってきていた。水に流されないようドアにしがみついているのがやっとだ。歩くことなどとてもできそうにない。

「……やっぱり、私は……主人公にはなれないよ。」

 紅音はドアから手を離した。


統一暦499年8月15日午後9時52分

「全く、面倒くさいわね。」

 白いワンピースを纏った少女がそんな愚痴を漏らした。


統一暦499年8月15日午後9時53分

「……あれ?」

 紅音はまだ生きていた。それに、

「なんでえりりんがここに?」

 いつの間にか紅音は船の甲板に立っていて、目の前には灯を抱えて呆然自失とした恵吏が立っていた。

 恵吏が見たのはこうだ。

 恵吏紅音のいる場所に向かうために広い甲板を走っていた。このままだと紅音が船と一緒に沈んでしまう。そう思っていた時だった。信じ難い光景だった。水が重力に逆らって。龍のようにも見えたその水流の中には人影が見えた。その水流は生きているかのようにグネグネと曲がると、恵吏の前にその人影を持ってきた。水が去った後、それを確認すると、突っ立ったまま失神した紅音だった。

「……こっちの科白だよ。」

 恵吏が言った。

「……と、とりあえず、早く脱出しないと!紅音、こっち!」


統一暦499年8月15日午後9時58分

 水のレンズを通してボートに乗り込む恵吏たちを見る白いワンピースの少女――四大元素の水を司る人工天使のガブリエル――は、そのうちの白髪碧眼の少女を見て呟いた。

「つまらない人命救助任務かと思ったら、おもしろいものを見つけちゃったみたいね。」


統一暦499年8月15日午後9時58分

「灯?なに見てんの?」

「……いえ、なんでもありません。」


統一暦499年8月15日午後10時18分

 太平洋の真ん中で、客船ノアは完全に沈没した。

 沈没する前に大きな爆発が起きたらしいという報道は人々の好奇心を掻き立て、各ニュースサイトはこぞって取材を行った。

 ただ、その中に、不幸中の幸いとでも言うべきニュースがあった。この事故での死者は0名だったのだ。

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