第30話 2020年5月26日 ギャップアップ②

午前10時ちょうど、俺は人事部が指定した小さな会議室におもむいた。

気分は最悪で今すぐにでも早退したかったが、社会人としての義務感がかろうじてそれを思い止まらせた。

会議室には4人掛けのテーブルが一つと折りたたみ椅子が手前に二つ、奥に二つあった。

俺はテーブルの配置から一番下座に座り人事の担当者が来るのを待つ。

待っている間、テーブルに突っ伏したい気分だったが人事担当の心証を悪くすることもあるまいと思い直し、目を閉じて瞑想するだけに留めた。


しばらくすると会議室の扉をノックする音が聞こえた。

俺は「はい」と応えながら席を立ち、入り口の方を振り返った。

そこに現れたのはマスクで顔の大半を隠した小柄な女性だった。


「朱木さん、こんな状況下の中お呼び立てして申し訳ありません。

 私、人事部の亀井と言います。」


そこまで言うと亀井と名乗った女性は俺を見て、少し驚くような顔をした。

先程濡らしてしまったシャツが乾き切っていなかったので、それを見てのことかと思ったが違った。


「マスクお持ちじゃないですか?

 では、総務から貰ってきますのでちょっと待っててください。」


彼女はそう言うと軽快な足取りで会議室から出て行った。

マスクで顔ははっきりと見えなかったがまだ若いのだろう。

歩き方や声の感じからすると20代後半といったところか。

俺も数年前まではあんな感じだったのか。

わずか数歳の違いしかないのだろうが、彼女と俺の間には大きな違いがある。

彼女には未来があり、俺には……。


そんなことを考えていると彼女が小走りで戻ってきた。


「お待たせしました。

 お座りください。

 これ、使ってください。」


着席を促すと同時に不織布ふしょくふの使い捨てマスクを渡してきた。

俺はそれを受け取るとやつれた顔を隠すようにマスクを装着した。

俺が座り彼女がその正面に座ると、彼女が話し始めた。


「今日はお忙しいところ出社いただき、ありがとうございます。

 今日、朱木さんに来ていただいたのは会社の資産に対する適正な使用の確認です。」


俺はそれを聞いて何度か瞬きした。

彼女の言っている意味がよくわからなかったのだ。

その様子を見て彼女は続けた。


「すみません。

 回りくどい言い方でよくわからないですよね。」


彼女は申し訳なさそうに笑い、言い直した。


「平たく言うと、会社から貸与しているノートパソコンの使用方法についてです。

 情報システムから朱木さんのパソコンの使用方法についてアラートが上がっています。

 こちらで確認させていただいたところ、朱木さんはほぼ毎日証券会社のホームページを表示されていますよね。

 間違い無いでしょうか?」


俺はしまったと思いつつも顔には出さず、

「はい。」

と手短に肯定する。


それを聞いて彼女は言う。

「会社としては銀行や証券のホームページへのアクセスを明示的に禁止しているわけでは無いのですが、かと言って全面的に許可をしているわけではありません。

 過去には会社のパソコンで株取引を行った社員に対して処分を行ったこともあります。

 幸い、朱木さんの場合は会社のパソコンで取引を行った形跡は無いようですが、勤務時間中のアクセスとしては率直に言って多いと考えています。

 何か特別な理由があってのことでしょうか?」


有無を言わせぬ口調だ。

この辺りの台詞は人事でマニュアル化されているのだろう。

俺は実際の株取引だけはスマホを使っていた為、その点では助かったと言える。

閲覧だけで良ければ全面的に非を認めても良かったが反論する。


「いえ、特定の理由はないです。

 ただ、昨今の経済状況が我が社に与えるインパクトを思い、普段より少し世界経済の動向が気になっていました。」


我ながら、よくもこんなことをいけしゃあしゃあと言えたものだ。

彼女も当然、口から出たでまかせとは思っているだろう。

だが、生きて行く上ではでまかせも必要だ。


「わかりました。

 朱木さんの会社に対する思いは理解します。

 ただ、勤務時間中の業務と直接関わりがないサイトへのアクセスは疑念を生みますので、今後は常識の範囲内で対応していただければと思います。」


「わかりました。」

言葉は素直に応じつつ、まるで狐と狸の化かし合いだなと俺は思った。


「人事からの確認は以上です。

 もし何かお困りごとがあれば、いつでも相談ください。」

彼女はそう言い、自分の職務を果たしたことに満足したのか微笑を浮かべた。


「ありがとうございます。

 では失礼します。」

そう答えることで俺は、ここにいない誰かの権威と権限を確認する無益な儀式を終わらせたことを確認し、彼女と同じように微笑を浮かべた。

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