第16話
溺没する感情に
理性など無い
すべては本能の成すままに
小さくなっていく三人の背を横目に、クロードはユンの発言を思い返していた。裏路地に入ってからも続いた、終わりの見えない言葉の応酬の内容だ。ユンが一貫して言うのは、逃げたり隠したりするのはもうやめろ、ということ。シンのことだからいつかバレる。バレて突かれるより、自分から言った方がいいだろうと言うのだ。
だが、クロードはそれを頑なに拒否した。この鬱陶しい事態を終わらせることにシンの力を借りなければいい。そうすれば何も知られることなく終わることが出来る。そう言い張って譲らなかった。勝機があるとは必ずしも言えない。しかし、咒法師と手を組むくらいなら。そういった思いがクロードの中にはまだ強くあった。
「それで。一体何の用だ」
読み取れない蒼の眼は一秒も見ていたくない。だから目は合わせない。
和解を望んでここに残ったわけではない。一握りの会話を我慢することで、何か一つでも後腐れ無くできるのなら、あわよくばこれきりシンとの関わりを断つことができれば、という願望が僅かながらあるからに過ぎない。そうでなかったら、右目の痛みを呼び覚ます蒼を前に、冷静など保てない。
「あの子。いい子にしてるか」
「貴様の心配は無用だ。そんなことを言いたかっただけか」
「どう、護れそう?」
「何から、によるが」
会話を何処へ持っていきたいのか掴めない。様子を窺いながら、差し障りのない言葉を選んでは返す。
「護る気はあるんだ」
「くどいぞ」
「あんたに、護れるか?」
急に低くなった声に、思わず背けていた顔を上げた。
真っ直ぐに、貫くように、咒法師の男が上から目を向けている。
自信を問われているのか。力量を問われているのか。この二つでないのなら、一体何を問われているのか。回答に窮し、もう一度くどいと言いかけた口は息を吸うだけで閉じてしまった。
シンの目が、笑っていない。口角は上がっているが、どれだけ見てもその目は笑っていない。
笑みのない彼の顔は、今この時、初めて見た。背筋が一瞬で寒くなるほどぞっとする。よもやこの男に、戦慄を覚えるなど。
「俺を嫌うあんたが? 出来るなら殺したいって思うほど憎んでるあんたが?」
「それと、何の、関係がある……」
言葉もまともに出てこない。震わせないのが精一杯で、途切れた僅かの空白に感情を読まれた気がした。
それにしても意味が解らない。
眉を顰めて睨み返せば、哀れむような目をされた。無知を嘲るように、
「何処まで盲目なんだ」
シンは言う。
後ずさりそうになる足を踏み締め、対峙の姿勢を保つ。
「何の話だ」
「ホントに解ってないんだな。長い地底暮らしで相手の力も量れなくなっちまったのか?」
「言いたいことがあるならさっさと言え」
見据えてくる蒼が、すっと細ったかと思うと、嗤笑に変わった。魔に満ちた凶悪な笑み。見下されている。気圧される。
「キアの血の半分は、俺と一緒。
「まさか……」
側頭部を殴打されたような衝撃にクロードは目を泳がせた。キアの緑とシンの蒼とがちらついて、身体が回転するような感覚を得る酷い眩暈がする。
「まあ、まさかとは思うよな。生い立ちは詳しく知らねぇけど、人間として育った所為で自覚する余地もなかったんだろ。残りの半分は多分フェイと一緒だろうな。その正体は流石に俺でもわかんないけど。まあ、いろんな意味で引かれ合うにはそれ相応の理由があったってことかな」
後半の言葉と笑い声は良く聞こえなかった。血圧がおかしくなかったかの様な耳鳴りがする。わんわんと耳元でする音は、動揺の具現か。振り払おうにも、それは心臓を抉ることと同じ。
混濁する意識の中、黒い笑みだけははっきりと目に映った。
「さあて、使神殿。どうしようか。今から返ってキアの襟首掴んで外に捨てるか? それともあんたの得物で切り刻むか? どっちにしろ、痛くも痒くもないだろ? あの子は自覚こそしてないけど、あんたが憎む咒法の力を持ってるもんなぁ」
知らなかったとはいえ、ここまで自分が揺らぐとは思ってもみなかった。
知っていたら、あの時、何があっても突き放したに違いない。だが、未知が既知になった今、果たしてそんなことが出来るだろうか。都合良く、手の平を返すように、縋る幼気な少女をゴミのように捨てられるか……?
掻き乱されて渦を巻く心に吐き気さえ感じ、左手で口元を覆った。
短時間で整理が付く状態ではない。果ては理性さえも危うい。
いけない。これ以上ここに居てはいけない。
まず思いついたのは一時凌ぎの逃避だった。立ち去って、その後のことは考えていない。考えられなかった。とにかく、この闇色の男の姿が見えないところまで逃げなくては、他の思考が働きそうにない。
「それとも、黒と蒼がなければ、あんたの古傷は疼かないのか」
「話は、終わりだ」
どうにかそれだけ言い放つと、鉛のように重い足を動かし踵を返した。
他人の身体のようだ。殴って鎮めたいほどに頭痛がする。鼓膜を破りたくなるほどに耳鳴りがする。
背後で溜息がした。
そして、一呼吸の間。
唇を湿らせる水音が、耳鳴りの中、いやにはっきりと聞こえた。
「その右目」
抑揚と速度は計算に尽くされ、放たれた一言は刃物のような鋭利さをもって背中に刺さった。
反射的に足を止めてしまったことを、クロードは激しく後悔した。同時に、顔の筋肉が硬直し、全身の筋肉に軽い痙攣が伝わっている。
踏み出せ。立ち止まっていては絡め取られるだけだ。
言い聞かせるも、身体は微かな震えを残して硬直してしまっている。
腕を掴まれる前に、傷を抉られる前に。足掻けば足掻くほど身体は動かない。そうしているうちに、眼前が影に覆われた。
それに気が付いたときには既に右のモノクルは奪い去られ、御簾の如く垂れた前髪は掻き上げられるようにして掴まれていた。
「この右目。咒法師にやられたんだろ。二度も攻撃受けて、この感じだともう見えてなさそうだな」
驚きに見開いた目のうちの右。隠していた古傷。目頭から目尻にかけての一直線と、眉根から外側に向けての斜線。どちらも正面を向いた瞳の瞳孔を切り裂くようにして付いている。そして、紅いはずの色は白濁に。
鏡に映して見ることも避けていた傷を、よりによって咒法師の男に暴かれた。
呆然としている目の前で、シンは嗤う。
怒り、憎悪。胃を焼くような感情が凄まじ勢いを持って込み上げてきた。
「貴様ァ!」
右手に刀を喚ぶ。刀身の紅い、〝焔妃〟と銘された、ただ一人に許された武器を。
だがその凶器を、咒法師の左手は難なく受け止める。似たようなことが、以前あった。異なるのは、傷に塗れた右手が生殺与奪の自由を掴んでいること。術は作ってないものの、放つとなれば一瞬だ。心臓の真上に触れた指は、有無を言わせない。
「同じ事二度やるのは莫迦だぜ。昔のあんたもそんなだったらちょっと幻滅だな」
「黙れ黙れ黙れ!」
「俺が黙ったら、あんたは何を言う? 泣き言か? 恨み言か? 何にしたって鬱陶しいことしか言わねぇだろ」
「うるさい! 貴様なんぞが何を知っている! 何が解る!」
「俺だって万能じゃない。知らないことや解らないことくらいあるさ。ただな……」
つ、と指先が動く。垂直に上を目指し、こめかみまで来ると動きを止めた。
シンの指先が脈に触れている。触れられることでクロード自身も己の脈を知る。
「負け犬の癖に勝者の遠吠えしてんのは腹に据えかねるんだよ」
こめかみから目のすぐ傍に指先が動く。睫毛に触れて、その距離を知る。
「余計なものが見えるから余計な恨みも生まれるんだろ? 何だったら、あんたの光にとどめ刺してやるよ」
「……!」
焔妃をしまい、拘束から逃れるも、それは一時のこと。すぐさま手首を掴まれた。同時に動かした左手も、呆気なく捕まる。右よりも左の手首を掴まれる不快感に、奥歯を噛んだ。
「騒ぐなよ。みっともないだろ。両目とも咒法師に潰されて、もっと笑い種になるか?」
目頭が熱い。どんなに食いしばっても、逆転できるだけの論がない。
どれだけ惨めな思いをすればいい。どれだけ綺麗事を並べれば、挫ける己に打ち勝てる。
シンがまた溜息を吐いた。
「あんたはもっと強いだろう? だからこんな所に堕ちても生きてきた。どんなに俺に詰られたって、今まであんたはそれなりに努力したし、勝ってきたんだろ? 違うか?」
右頬が濡れている。
この八年、ただ一人にしか見せたことのないものをまた一つ、この男に見られている。
「どうする? 最後に選ぶのはあんただ。光も力も全て永遠に失うか、なけなしのプライドと残った力で戦うか。ん? 王様。……いや、〝緋の王〟、かな」
「何故……」
何もかも知った上で、さも理解しているかのようにシンは言う。いつの間にか嗤笑は消え、真面目腐った顔をしている。移り変わりの激しい表情だ。掻き乱された方からしてみれば弄ばれているようにしか感じられない。
「何故、咒法師如きに知った口を利かれなければならない。ユンも、貴様も、解ったようなことを言って……」
だが、結果的にユンの言うとおりだった。自ら口にする前にシンに暴かれて、より酷い傷を負っている。右目から零れるものがその証拠だ。
「あの時の咒法師は、貴様なんだろう……? 何故生かしておいた……。何故、殺してくれなかったんだ……」
「だから、違うって言ってんだろ。どうしてもって言うんなら今ここで細切れにしてやってもいいけどさ。でも、それを望まない奴が居るだろ。あんたも含めてさ」
そう言われても、今のクロードには何のことだか解らなかった。生きたいのか死にたいのか。それすらもぼやけて曖昧になっている。そして、生を選択したところで、果たして咒法師を許容できるのか。
答えが出ない。醜く傷付けられた右目でいくら涙を流しても、一度閉じた視界が開くことはない。
この八年間。何のために息を吸い、食み、消費して生を繋いできたのか。かつてあった目的は何だっただろう。長い生を変化の早いこの地で潰すのは並大抵のことではない。生きながらえるだけが望みだったわけではないはずだ。
「今日の所はその命、あんたに預けといてやるよ。好きなだけ悩めって言いたいトコだけど、生憎時間には限りがある。決着付けたいなら、後には引かない答えを捻り出せ」
掴まれていた両腕が放される。奪われていたモノクルは右手に握らされた。他人の熱が移ったそれが、ひどく気持ち悪い。
「じゃあな。ちゃんと帰れよ」
視界の端でシンは手を振り、暗闇の空に解けていった。
零した涙と耳鳴りと頭痛だけが残されている。どうせなら共に持ち去ってくれればどんなに楽になれたことか。
コートの袖口からインナーの生地を出し、右目を拭う。機能は失ったのに涙腺だけは自己主張の強い嫌な右目だ。そして役に立たないモノクルを載せる。体温に馴染まず、違和感が強いが仕方がない。最後にいつものように前髪を下ろせば一見何事もなかったかのようになる。なっているはずだ。
用の無くなったこの場にずっと立ち止まっている訳にもいかず、俯きながら重い足を動かし始めた。一歩。二歩。一メートルも進まないうちに、クロードは足を止め近くの壁に凭れた。
――この顔で帰ろうというのか……?
鏡を見るまでもなく酷い顔をしているのは容易に想像が付いた。少しも収拾がついていない心を抱え、挙げ句見られたものではない顔をして帰れば、たちまち見抜かれてしまう。この場で何があったのか、僅かも悟られたくなかった。どだい無理な相談だということはよく解っている。それでも、せめて右目の惨状だけは隠したい。
どちらにしろ、シンがフェイを迎えに行っているだろうから、今すぐ帰ればまた顔を合わせることになりかねない。落ち着くことも兼ねて、時間が必要だ。
クロードは重い頭の側面を、凭れた壁に押し付けた。
回答保留の状態に、不安が押し寄せてくる。このまま帰ったとして、キアの顔を正視できるだろうか。彼女に非はない。むしろ憎むべきは歪んだ心が生む差別だ。都合良く使い分けるのは虫が良すぎる。
どうすれば許せる。どうすれば諦められる。
凭れていた壁は、キアが覗いていた時計屋のもので、振り返って覗き込めばすぐそこにショウウインドウがあった。置き時計。腕時計。種々の時計が陳列され、一様に時を刻んでいる。
時を示す三本の針。
今まで悩んできた時間は、この針の何回転分になるのだろう。その間、答えらしい答えは一度も出せずに今日に至る。
時間が物事を解決してくれるなどというのはまやかしだ。
何一つ薄めてくれない見えない流動は、単に無情なだけではないか。
そう思っている間も、時計の針は容赦なく回転を続けた。
*
「容易いなぁ。こんなに呆気なく潰れるなんてガッカリだぜ」
遙か上空。空中にあぐらを掻き、シンは眼下を見下ろしていた。
見ているのは一歩も踏み出そうとしないクロードの姿。何を眺めているかまでは見えないが、およそつまらない感傷にでも浸っているのだろう。想像に易い。
虐めてやろうという目的は果たした。だが、あまりにも図星過ぎたようで、高貴な使神は今や機能停止寸前だ。
本当は、真実だけを告げて去るつもりだった。気付いていないことは以前から明確だったからだ。だが、あまりにも分かり易く、またいじらしく動揺するものだから、ついやりすぎた。
殺すには惜しい。見ていて飽きないいい生き物なのに、殺すなんて。
このまま立ち上がれないでいるのなら、見ていられないほど無様に、這い蹲り、狂い、崩潰するほどに壊してやろう。自律するための矜持を見失った使神の成れの果てに相応しい。
クロードが正論相手に戦えるほどの自分を持っているとは思えない。崩すには、隙間に少し指を入れてやればいい。瓦解はすぐそこだ。
崩す為の言葉が、手段が、ふつふつと止めどなく湧いてくる。こんなに愉しいのはいつ以来だろう。
笑みが零れて止まらない。これ以上嗜虐思考に浸れば、こちらが狂ってしまいそうだ。
今までにない自分が居る。否、忘れていただけか。
これだから、何が本当かなど解ったものではない。尻を叩いて発破を掛けてやるいい人の隣に、滅びを眺望する魔物が居る。
どちらも紛れもなく同一の器に入る者。
表裏が背中合わせになってこそ真正。
「さて。どうする、緋の王」
絶倒しそうになるのをどうにか堪え、シンはその場を飛び去った。
折れるのと、狂うのと。
どちらが先だ。
誰が先だ。
*
しんとした空間でカップを両手で包み、イヴェールはソファにいた。
誰も居ない家は、思ったよりも広く感じる。ついさっきまで温かかった手の中の陶器は様々に熱を奪われて、今は熱を奪う側にある。
それでもカップを放さなかった。久しぶりの寂しさを堪えるためにどうしても必要だった。
好きで一人になったのではない。目覚めてみたら誰も居なかったのだ。
仕方がない、と始めのうちは思っていた。一日の中で気分のむらが激しく、寝坊することもあれば、怠くなればすぐに寝てしまうことも多い中、無理に起こさずに出掛けてしまったのだと、そう解した。
孤独に気が付いてまだ十数分。それなのに、口はもう震えそうだ。
「うう……」
手に力が入りすぎたのを感じ、イヴェールはカップをテーブルの上に置くと、代わりに自分の膝を抱えた。ソファの上で丸くなり、小さくなる。熱が少しでも逃げないように。
「寒いよ……」
普段は何ともない気温が、人口密度の減少も伴っていつも以上に低く感じる。
シンに手を差し伸べられるまで、どんなに途方もなくとも一人でどうにか生きてきた。辛くとも苦しくとも、こんなに寒いと感じたことはなかったのに。
寂しい。
一人がこんなに心許ないと感じるのは、何と対比しているからか。それは、考えるまでもなく、つい先日手に入れた温もり。付かず離れずの絶妙な距離が、冷えきった身体には心地好かった。
ぬるま湯。低温な指先が痛みを感じることなく浸かれる程度の、常人ならば温かみすら感じないような温度。いつの間にか湯の温度は上がり、関節の強張りもなくなった。
それは、幸か不幸か。
一度慣れてしまった温もりが離れると、今までは平気だった温度が辛くなる。今まさにその状態だった。
「うう……」
この寒さは恐怖に近い。じわりじわりと染み込んでくる冷気に痛みさえ感じる。一番最初に心が凍り付きそうだ。
家の外、通りの音が中まで素通りしてくる。目を閉じれば、見知らぬ路地に放り出されたかのような錯覚を得る。
また一人。
また独り。
恐怖。孤独。恐怖。
交互に襲ってくる二種類の感覚に、イヴェールは逃げ場を探した。
温かい場所。目を閉じられる場所。
いつかのように外に飛び出すような愚行には及ばない。少なくとも、いつかは帰ってくると確信しているからだ。戻ってくるものを探しに行く必要ない。
膝を抱えたまま、目だけを動かして見られる範囲全てを見渡した。しかし、どの場所も一人で留まっていられそうにない。自室のベッドに潜ってしまおうか。そこならまだ、冷静を保てるかも知れない。
思い至り、床に足を着けると、二階へと続く階段へ歩いた。
段差に一歩踏み出したとき、ふと、すぐ脇にある部屋に目が止まった。シンの部屋だ。今は主はなく、もぬけの殻である。
一度は自室へ向かった足が、何故か脇道に逸れた。ドアを開ければ、寝て起きたまま整えられていないベッドが一つ。他はクロゼットとサイドテーブルくらいしか家具はない。来るのは初めてではない。夜に何度か忍び込んでは潜り込んで安眠を強請った。
冷静な頭で考えれば、何とはしたないことか。相手は、何もしないと言ってはいても、それでも一人の男だ。誘っていると思われても仕方がないし、そうでなくても何も無い保証は何処にもない。
なのに、危機は感じなかった。結果論と言われればそれまでだ。何も起きなかっただけかもしれない。でも、思い返しても、もうやめようとは思わなかった。逆に、またあの体温に浸りたいと思っている。
抱きかかえられて。抱き寄せられて。抱き締められて。
イヴェールは誰も居ないのに辺りを警戒しながら、こっそりシンのベッドに横になった。上掛けを掛け、その端を抱えて丸くなる。
温かみこそ無いが、残り香に安堵して目を閉じた。包まれているという感覚は、寒さを和らげていく。またあの腕の中に入りたい。
――ああ。
声に出さず嘆息する。
堕ちないと思っていたのに。
駄目だった。
所作の全てが優しすぎる。凶悪な面を見ても尚、一度溺れてしまったものは水面には浮き上がれない。彼には何もかもいつも通りなのだろう。感情が少しも動いていないのは感じている。
でも、駄目だった。
そうなっても構わないと、手を取った瞬間から思っていたことは事実だ。
けれど、この深みは手に負えない。
頭の先まで、肺の奥まで、惑溺している。
どうしようもなく、堕ちている。
*
何をしたかったのか、と問われれば、すぐに答えは出る。表向きには興味に突き動かされて、たまに良いことをしたいだけ。本当のことはまだ誰にも話していない。
パオラは自宅のダイニングテーブルで安いインスタントのコーヒーを飲んでいた。
先日は咒法師を始めとする不思議な三人組。今日は人間と思しき背の高い男を含める、これまた種族の解らない三人組。どちらもけんもほろろに拒絶されてしまった。
住む世界が違うのは、実感とは別の所で解っている。そのつもりだ。
その世界に足を踏み入れてはいけないということも解っている。
それでも、探したかった。
テーブルの上、カップの横には写真立てがある。普段は仕舞ってあるものを、今日は取りだしてある。
写っているのはパオラともう一人、人間の男性。恋人だった。今はもう居ない。
アルミのフレームにそっと触れ、無条件で向けられる笑顔に微笑み返す。この作業を、以前は泣きながらしていた。突然失った喪失感に打ち勝てぬ日々だった。
あの日、そこで起きたことを終始知っているわけではない。目撃したのは最後の断片だけ。あまりにも唐突で、残酷で、無情な現実に、記憶は所々不完全になっている。
結論から言えば、彼は、自らの血をありったけ地面にぶちまけて死んでいた。身体の部品はいくつか胴から離れ、無惨な姿をしていたのだけははっきりと覚えている。断面からは止めどなく液体が流れ出し、自らの血に溺れているかのようだった。
尋常ではない惨状。鋭利な切り口。人間の仕業ではない。そう感じたとき、人影が目に入った。ずっと居たのか、後から現れたのかは判断が付かなかった。それは黒い翼を持った生き物。関わり合うことは死をも意味する灰色の目が、睨んでいた。
その死線を断ち切ったのは、これも黒い影だった。だが、こちらは目に止まる余裕がなかったのでそう感じただけかも知れない。後方から凄まじい勢いで何かが飛んできたかと思うと、彼の遺体の脇に立った影の一部がぽろりと欠けた。丁度頭の部分が、綺麗に無くなってしまった。影は一瞬硬直した後、がさりと崩れ、終いには影そのものもなくなった。
「胸くそ悪ィことしてんじゃねぇよ、この〝鴉〟が」
振り返ったそこにいた影は、そう言い放つとすぐに何処かへ行ってしまった。顔も色も確かめる間もなく、ほんの一瞬のことだった。
その一瞬に居合わせた誰かを、暇を見つけては探していた。状況から、その人が人間ではないことは明らかだった。だが、人間以外の種族は戮訃を偶に見かけるくらいで、他に出会うことはなかった。そもそも、戮訃の他には咒法師という異端が居ることしか知らない。それも話に聞くばかりで、見たことは先日まで一度もなかったくらいだ。
探し出すのは無理なのだろう。そう思い、一度は諦めた。その頃には涙も止まり、彼のことは心に残しつつも、写真は仕舞えるようになった。もう俯かないように、前を見られるように、そういうつもりで抽斗に入れた。
断ち切って、諦めた。そのはずだったのに。
出会ってしまった。あの時の影と同一かどうかは解らない。だが、人間ではない種族に、五人、若しくは六人と立て続けに接触できた。結果は玉砕だったが、収穫がないとは思わなかった。
恋人の仇を討ち、命を救ってくれた人ならざるもの。あれは幻ではなく、本当だったのだと確信できた。何しろ、遺体の傍に居たはずの戮訃は、本当に影も形もなくなっていたために、化かされているような感覚もあったのだ。彼が戮訃に殺されたということも、人間ではない誰かが助けてくれたと言うことも全て幻覚で、単に残虐に過ぎた人間に殺されただけと。そう思っていた時期もあった。
しかし、世界は不可視の事実を内包していた。
人であるもの。人ではないもの。
この二つが入り交じって世界が構成されているのは知っている。だが、いつでも霞んでぼやけてよく見えない。生まれたときからそれが日常だ。
違和感を覚えたのは、やはり、彼を失ったときだった。
存在を知るだけで関わりの無かった戮訃に大切な者を奪われたあの瞬間。人にはない力が頬をかすめていったあの瞬間。
見えない空間に、別の次元を感じた。
向こう側。行けない場所。違う世界。渦巻く次元。
その未知に、畏れと好奇心を抱いた。触れてはいけないと思うほどに、興味は募る。目的を忘れかけたとき、ついに見つけた。出会ってしまった。
閑話休題。
冷たいフレームを指先でなぞり、親指でそっと笑顔に触れた。
絶対に崩れない代わりに、絶対に動かない笑顔。
もっといろんな表情を見たかった。その為の時間を共に過ごしたかった。
「一体……何で貴方は死ななきゃいけなかったのよ」
一番の謎は、当事者が誰も生きていない時点で解明は無理だ。唯一生きていそうなもう一人は、恐らく通りかかっただけで事件にはまるで関係ないのだろう。だから、探し出したところで出来ることは、気まぐれの理由を聞くことと、礼を言うことくらいだ。
何も出来ない。今も昔も。
「無力だなぁ……」
人間なんて、こんなものか。
人外の力を得たいとは思わない。でも、この無力感は流石に強い。
「もう一回会いたいなぁ……」
だから求めてしまうのかも知れない。
無い物ねだり。
一度命が助かったことで、過信しているのだろうか。
「ね、どう思う?」
写真の中に問い掛けるも、返事はない。
独り言が会話になることは二度と無い。
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