永い永い夜

 彼女は書庫に眠る書籍を漁る。咳を吐き出し、息を絶え絶えにしながら。

 埃で視界を朦朧とさせながら。

 腹の下に鉄球が振り子のように揺れ動くのを感じながら。


 ——ゆめをみているようだった。


 しかし心には冷静な自分が居た。


 ——夢ではない。それこそが、“□□□□”と呼ばれた民の為せる業。

 満天の“夜”を支配する白い民。影に対抗しうる、唯一無二の不老不死の存在。


 もう二度と触れることがないであろうと思っていたのに、またページをめくっていた。


 ——夢ではない。それこそが、“□□□□”と呼ばれた民の為せる業。

 満天の“夜”を支配する白い民。影に対抗しうる、唯一無二の不老不死の存在。


 白塗りの場所は透かすと少しだけ読めた。


 ——夢ではない。それこそが、“□□□□”と呼ばれた民の為せる業。

 満天の“夜”を支配する白い民。影に対抗しうる、唯一無二の不老不死の存在。


 ——ズルいよ。


 垂れる血と共に、言葉を吐いた。




 今日はなかなかななしが来ない。

 助けてもらったあの日から、押さえきれず胸の中を渦巻くこの感情は何だろう。

 来るたびにキャンディをお願いしているのに、彼は一向に持ってきてくれない。外に出られるのなら、買ってきてくれたって良いじゃない。


 鉄球が腹の中で振り子のように揺れ動く感覚がした。

 自由に外へ出られる人。

 私とは正反対の存在。それが、□□□□。

 おんぼろの私とは違う、真っ白で真っ新な存在。


 じわじわと腹から侵食するのは羨望。


 ——うらやましい。しなないなんて。


 心の中で呟いた。


 ——ひとりはよくない。すぐにわるいことかんがえちゃうから。

 同時に優しく少女の首を絞めたのは絵の具で黒を混ぜたような、或いは淡く緑に光を灯す雪洞ような、そんな卑しい感情だった。


 結実はふと窓に視線をやった。

 ちらちらと降り立つ名も無き天使たちは純白の海に吸いこまれていく。

 少女にとっては、何でもないただの冬の夜でしかなく。

 でもきっとこの森の向こうでは、神秘的な風景を楽しむ者たちがいるのだろう。結実の表情に陰が差す。


「ゲホッゲホッ」


 赤い。


 また洗面台に立っていた。


 随分と痩せた。

 最近食欲がなかった。


 顔にはハリがない。

 ポーカーを見た後だと尚更そう感じる。


 ——わたしは、どこをみているのだろう。

 天国ってあるのかな。


 ——もう、ダメなのかな。

 寒いよ、苦しいよ。血の味が怖いよ。


 ——ないてもムダだ。かわらない。

 分かっていても、零れてしまう。




「——結実?」


 声がした。

 私と一緒に鏡に映る、赤眼の青年。


 ポーカーフェイスが呼び戻した。


 ——ねえねえ。


 ——どうしてあなたはながいきで、わたしのいのちはみじかいの?


 手を引かれ廊下を歩く。

 彼の歩幅はいつもより大きい。

 私は引かれるままに。


「外に出ようよ、見せたいものがあるんだ」


 敢えて聞かないでおいた。そんな気力がなかった。今日は随分、考えるのに疲れてしまった。

 コートにマフラーに手袋。

 ナイフは……いつも持っているように言われたから。


「そうだ」


 思い出した素振りをした青年はそのまま手をぐっと引っ張り、すべらかで艶やかさを秘めた唇が近づいた。

 その瞬間じんわりと身体が熱を抱き、胸の奥から伝わる感覚がする。足元に張りつく冷気が消え失せた。一足早く春が来たことを錯覚させる、そんな温かさが指先にまで満ちる。

 頬が牡丹色に染まった——それはまるで、イチゴ味のキャンディのように。


「これで寒くないよ」


 今は考えられない。感情の栓が飛び出てしまいそうだ。

 ただぼうっと、ななしを眺めることしかできなかった。





 外は寒くなかった。温度の感覚がないのは、きっとさっきのの所為。手を繋がれ踏みしめる雪もやはり冷たくない。重みも忘れ、ただ白に染まった大地に足跡を残していく。


 ザッ、ザッ。

 足音は揃わない。揃えようともしなかった。

 空を隠すように塗りつぶす闇は、空の頂点から地平線の向こうまで暗幕を垂れ下げている。しかしその幕は、一度下りれば二度と上がらない。そんな曖昧な、しかし妙に確信めいた観念が頭を過ぎった。


 舞い散る雪が、少女の手に落ちて形を失う。あまりにも虚しく儚い命に、もはや思いを馳せるまでもない。


 月が綺麗だ。今まで見た中で一番大きい円は、闇の中でたった一つ目的もなく佇んでいる。世界から浮き出していたそれは、狂気を帯びていた。果てしなく理解されない、独りよがりな情念。世界から外れることでしか理解できない思考回路。それは、月も例外ではない。満月が狂気をはらむなど、よく言ったものだ。溢れんばかりの光は、視界を遮ろうとも見つめる眼は、私を世界の外側へと引きずり込む。そんな私もまた、世界から浮き出ていた。

 私の気持ちも知らないで、呑気に世界を見下ろしている。




 ——だれでもいい。なんでもいい。わたしをすくってくださいな。


 ——いきるちからをちょうだいな。


 ポーカーフェイスが、少女を見据えた。


「生きたい?」


 青年の声が“夜”に浮かぶ。

 忘れることのない、この響き。


「うん……生きたい、生きたい、生きたい……!」




 気づけば足が動いていた。

 息をきらしながら。

 白い煙を吐きながら、血の油を走らせながら。

 すぐ届くところに彼の心臓。

 でも止まらない。

 止まりたくない。

 死にたくない。

 生きていたい。


 わたしは——。




 ——ねえねえ。


 ——ななしの□□□□さん。


 ——わたしは、いのちがほしいの。


 ——みんなみたいに、なんじゅうねんもいきられるいのちがほしいの。


 ——こんなおんぼろはいやなの。


 私は胸に手を当てる。


 ——あなたは、しにたいんでしょ?


 だからナイフを渡した。


 ——ねえ。


 ナイフを、青年の胸につんと付けた。


 銀色の刃は私を祝福した。


 ——こんなにつきがきれいなんだもの。


 凍る前の雪が、ナイフの上で命を溶かす。


 ——わたしに、いのちをちょうだいな。




 ——そうか……なら、君が……□□□□だよ。


 安らかに両目を閉ざしゆく青年は、血を垂らした口を小さく開いた。

 氷のように冷たくなった掌が少女の頬に触れた。

 二度と忘れることはできない。

 ふと目をやると、何かが入った袋があった。


 ななしは、わらっていた。

 小さかったはずの刃物は、胸を確かに貫いた感覚があったのに。

 白い世界は赤く染まって。

 今にも絶えそうなのに。

 されるがままに殺された。

 抗うでもなく。ただ少女の行いを看取るように安らかに。

 鎖と言う名の呪縛を、白銀の執着を解かれ、安らかに微笑んでいた。

 袋の中には、無数の棒付きキャンディが入っていた。




 ——ねえ。


 ——どうしてあなたはわらっているの?


 ——どうしてそんなにやさしいの?


 ——ねえ。


 ——ななしの□□□□さん…………。

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