第26話 手向け
「……るい? いるの?」
返事はなく、静寂だけが広がる。
白妙の制服を身に纏った少女が手の甲で扉を叩くも、開かれることは終ぞなかった。
るいがチャーハンを作ってくれなくなった。
理由は……分かっている。
あの日————るいは人を喪った。それで、私に幻滅したから。
あの時のるいは、確かにるいだった。
優しさの皮を脱ぎ捨てて、必死に私を責め立てる。糾弾の先には何もないと知っていながらも……私を怒っても意味がないのに。
彼は
そんな当たり前のことを、今更になって初めて気づいた。
少女は額を扉につける。今はもう鼻に馴染んだこの匂いを、もう一度確かめるように吸い込んだ。るいの匂いだった。だけど彼には会えずにいる。この扉を隔てた先に、いるはずなのに。
時折吐く音が聞こえて。心配になって扉を開けたくなるのに、どうしてもドアノブを押し出せない。
——きっとあの日が焼き付いて離れないんだ。だって人間にはあまりに悍ましかったから。痛ましくて、惨たらしい場所だったから。だってあんなにも、人の死は哀しいから。もう帰ってこないから。
私は、るいに何ができるのかな——。
少女は主のいない居間を漫然と眺める。
——そうだ。チャーハンを作ろう。
————
「でもチャーハンってどうやって作るんだろう?」
るいは手早く炒めてしまうため、それより前のことが分からない。ともかく、冷蔵庫を見て材料を決めれば良いのだろうか。
少し力を入れると、ほんのりとした冷気が飛び込んでくる。
人参、玉ねぎ、ベーコン、卵……一通りは揃っていた。お米もある。しかし肝心のレシピが分からない。
——それもそうだ。私が奪ったのだから。
頬がくすぐったいものが通った。伝うそれは少し冷たくて、しょっぱくて……舐めるとまた溢れだして、止まらなくなる。
——後悔なんて、あるわけないのに。
「泣いてるの……? 私」
身体に力が入らない。口の奥が重くて声が出ない。雨漏りはぽたぽたと床に染みをつくる。
——間違いなんかじゃなかったのに。
あの時ちゃんと、殺さないといけなかったのに。
「あれ、ゆいちゃん来てたんだね」
玄関に立っていたのは制服姿の少女。花束の入った袋を携えた、御倉かなれであった。特に躊躇いなくるいの家に押し掛けた部長は、キッチンでしゃがみこむゆいの姿を
「私も協力していいかな」
そっと花束の入った袋を置いた。
————
「ストオオオオオップゆいちゃん! 包丁の持ち方! なんというかこう……物騒!!」
見ててね、とかなれは包丁の持ち方を示す。他人に教えることを苦手とする御倉かなれにとっては、実際に見せるのが最も手っ取り早い手法であった。
「それで具材を持つ手は猫の手にするんだよ」
「こう?」
ポーカーは拳を軽く握りを手首を曲げる。ニャーと声が聞こえてきそうだ。
「かわいっ……! ってそうじゃない、私がまずするから見ててね」
かなれは頬を手のひらで押さえ悶絶していたが、気を取り直し指南する。人参に握った手を置き、トントンと軽やかな音を立てて包丁を下ろしていく。
「次、ゆいちゃんやってみて」
「う、うん」
包丁は思っていた以上に重かった。普段使っている銀色の武器の数々は、自分の身体と一体化しているため重量をほとんど感じない。そのため、本物の刃物というのが彼女には新鮮であったのだ。
トン、トン。たどたどしくも確実に野菜を切っていく。
「上手いねぇゆいちゃん!」
「そうかな?」
「うん! もー天才! かわいい! さいっこうだよ~!!」
心の中で絡まっていたものが、少しだけ綻んだ心地がした。
「よっし、あとは炒めるだけだね。えーっと油は……」
身を屈めて引き出しを開けながら、かなれは問いかける。
「ところでゆいちゃん」
「なに?」
「ゆいちゃんってさぁ、人間じゃないよね?」
答えられなかった。
「それで、つとむ君のことにも……関係してる?」
目を合わせることもなく投げかけられた問いに、黙り込むことしかできなかった。
ポーカーは重い口をおずおずと開く。
「どうしてそう思うの?」
「あっごめんね、不謹慎だったよね」
会話が途切れ、初夏とは思えない冷ややかな空気が二人を覆う。そんな気まずい静寂を破ったのは、ポーカーだった。
「もし……だよ。私がつとむさんを殺した……って言ったら?」
すると、先ほどまでこちらを振り向きすらしなかったかなれと目が合う。
「許さない、かな」
口角こそ上がっているが、目の奥には余裕がない。その言葉には張り付くような静かな怒りが籠っている。
「でもねゆいちゃん」
その次に発せられた声は慈愛に満ちていた。
「るい君なら。あの子ならきっと、あなたを受け入れてくれるから。あなたが償うのを、きっと支えてくれる」
先輩は少女の頭を優しく撫でる。白銀の少女は、鼻の奥がツンと痛むのを必死に堪えていた。
「まっ! ゆいちゃんがそんなことするわけないもんねぇ~。 今の、嘘だよね?」
見つけた油を注ぎながら溌溂と問う彼女に、ポーカーは何も言えずにいた。胸を吹き荒れる冷たいものが過ぎるのを、ただ待ち続けることしかできなかった。
「よぉし、完成っと」
るいがいつも作ってくれるチャーハンだ。隠し味はレモン汁。白い湯気が天井へと昇っており、卵と少し焦げた匂いが食欲をそそった。
——るい、喜んでくれるかな。
「さっそく届けに行ってきなよ」
「えっ、私が?」
「あったりまえじゃん! ゆいちゃん発案なんだから」
ほらほら、と背を押され扉の前に佇む。るいが籠っている部屋だ。
やっぱり気まずい、緊張してくる。
胸の高鳴りを抑え、大きく深呼吸をする。
「るい? いる? あのね、チャーハン作ったんだ、るいの分。かなれちゃんと作ったんだ」
声は聞こえなかった。
「ね、ねえるい。食べられる?」
湯気が小さくなっていく。
「……いらない?」
しんと静まった廊下。足先が少し冷える。
「る……るい」
「もう!いい加減出てきなさいよ!!」
横からあがる怒号。振り向くと、珍しく眉間に皺を寄せたかなれが立っていた。
「部長権限! 入るよ!」
かなれがドアをこじ開けるも、
「うそ……」
そこはもぬけの殻だった。
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