第18話 美味

 吐く息はもう白くない。空を陣取っていたオリオンは逃げてしまった。初夏とはいえ肌を擦る冷たい空気が気持ち良い。


 背後から忍び寄る気配を感じ、振り返るも何もいない。言いようのない恐怖が、腹に どくどく黒いものが蓄積される感覚。そして風が脳を直接吹き抜ける気味の悪さがあったのは、初めて体感する夜の所為だ。


 るいはドーム状の空を見上げる。もう数日でまん丸になりそうな月がか細く燃えている。


「満月はね。影痕が凶悪化しやすいんだよ」


 漫然と月を眺めるるいに対して昔話をするように、優しく語りかけるポーカー。


「そうなんだ」


 そういえば満月は狂気の象徴だと、先輩から聞いたことがある。影痕は月に魅入られるのだろうか。こんなにも小さな月に。るいは味気ない月に耽る。


 ドームの頂は藍色に閉ざされて、しかし地平に向かうにつれ、ほんの僅かだが白がグラデーションしていた。まだ来ない、所謂夜の終わり。


 影痕の巣があった森を抜けると、家々の明かりがぽつぽつと灯っていた。あの中には誰がいるのだろうか。家族が団らんしているのだろうか、それとも一人静かに過ごす時間が流れているのだろうか。ふとそんなことを、るいは考える。


 ポーカーとるいは帰路についていた。繋いだ手は離れない。


「ねえ……るい」


 影痕の巣を食い荒らして以来目を合わせなかったポーカーが、るいの顔を見つめる。歯はまだ仄かに、舌はかき氷を食べた後のように黒く染まっていた。


「帰ったらさ、何か作って?」


 手をきゅっと握る少女。


「うん。おにぎりでも作ろうか」

「キャンディも食べたい」

「良いよ」

「……ありがとう」


 どこかぎこちない様子であった。






————


 るいのご飯は美味しい。

 チャーハンはいつもホクホクで、口に入れたらほわっと溢れてくる。ほろほろお米は口の中で溶けていって、人参はちょっと苦手。そう言ったら、るいは細かく切ってくれた。ベーコンは卵の味を引き立てて、無いと変な感じがする。


 この時代のキャンディも、あの時と同じ味がした。

 名無しのあの人がくれたあの味。

 牡丹色の宝石が大好きで、あの人が来るたびにせがんでた。

 この間の勉強会でも、一番にストロベリー味を掴んでいた。

 舐めると甘みが口いっぱいに広がって、ずっと残っている。それがすっごく幸せなんだ。


 ずっと続く……そんな気がしたから。

 ポーカーとの穏やかな時間が。


 そうしている間は忘れられたから。

 肉汁溢れる影の味を。




 美味しい。美味しい。

 影痕が美味しいんだ。るいのご飯と同じぐらい。

 人間を喰うたびに脂が増して、感情を呑み込むたびに柔らかくなる。スパイスもきいて、止まらなくなる。

 なぎが言ってた。人間の尺度で表すと、影痕はジャンクフードゴミなんだって。

 でもそれしか生きがいが無かった。無限に続く時間の中で、それぐらいしか娯楽が無かった。

 いつしかゴミでしか満足できない身体になっていた。


 だって私は、だから。

 もう私は、人間じゃないんだから。


 ————でも……もし願いが叶ったら?

 ——るいが、叶えてくれるなら?


 繋がれた手をゆっくり離し、今度は両腕でるいの腕に絡みつく。

 あったかい。

 衣服越しでも、熱が伝わる。

 このほんわりとした感覚が、私は好きだった。

 ひんやりとした頬が、ピトリとるいにくっ付いた。

 温度が伝わるのが嬉しい。

 寄り掛かれば、このぬくもりを分けてもらえた。

 私も、るいと一緒になれる気がした。


 だからるいのご飯を食べて、キャンディを舐めて、今夜の味を流し去ってしまおう。






 もうすぐ、満月だ。

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