12

「ええ、そうなんです。あと一月ばかりになる予定で」

 すっかり顔なじみになってしまった常連たちに告げれば、口々に親しみを込めた言葉が投げ返される。

 ――まるで予想などつくはずもなかった『いま』を目の前に、すこしばかり胸が軋むのは仕方のないことのはずだ。

「作家先生の仕事のほうでお呼びがかかったってわけ?」

「そういうわけではないんです。ただ、そろそろ元の生活に戻ったほうがいい気がして。だからって、僕の席がきちんと残っている保証なんてすこしもないんですけれど」

 肩を竦めながら遠慮がちに答えれば、屈託のない笑顔はやわらかにそれを受け止める。

「あんたみたいな仕事ならどこでだって成り立つもんなんじゃないのか? それともこんな田舎にはもううんざりしたってところかい?」

「いえそんな、ほんとうならもっと早く旅立つつもりでした。ちょっとしたバカンスのつもりだったんです、すこしでも気分が変わればいいな、なんて思って。でもそうやって、いつまでもあまえたままでいるのなんてきっとよくないなって、いまさらになってやっと気づくことが出来て。まだやり残してきたことだってたくさんあるので」

「それが終わったらまた戻ってくる?」

「それも悪くないかもしれませんね」

「無茶言うなよ、返事に困るだけだろ」

「いえそんな、うれしいです」

 そっとかぶりを振るようにしたのちにぽつりとそう答えれば、カウンター越しに、店主からのどこか意味ありげなまなざしがそっとこちらへと注がれていることに気づく。

「よそさまにあれこれ注文なんてつけてどうする、その人は最初っから『お客さん』だぞ」

 ぼそりと落とされた言葉は、心の芯を捕らえるように鋭く響く。

「……ええ、」

 ゆっくりとグラスを傾けながら曖昧な会釈で答えれば、途端にしん、と周囲の空気がわずかに張りつめるのを肌で感じる。

「お客さんは歓迎するのとおなじだけ、無理に引き留めないのがマナーだ」

「そうは言ったって、なぁ」

 曖昧な苦笑いとともに洩らされる言葉を前に、ぎこちない口ぶりで僕は答える。

「いえ、その通りなので」

 ゆっくりと深く息をのんだのち、感情のしずくを落とすように静かなささやき声を洩らす。

「ここで過ごせた時間のことはきっと忘れません―それもみな、よそものの僕をよそもののまま受け入れてくださったみなさんとこうして出会えたからです。いつかまた訪れる時があれば、よろしければ歓迎してもらえるとうれしいです。その時にはもしかしたらもう『よそもの』じゃあなくなるのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。どうなるのかは、僕にもまだわからないけれど」

「歓迎するよ、どっちにしたってな」

 屈託をみじんも感じさせない言葉に、心はやわらかに包み込まれる。


「――すみません、」

 すっかり空になったグラスを持ち上げながら声をあげたタイミングを見計らうように、なみなみと注がれたグラスがカウンター越しにことりと音を立てて置かれる。

「頼んでいませんよ」

「押し売りじゃないから安心しろ、俺からの奢りだ」

「……ありがとうございます」

 声を潜めるようにして答えれば、無骨な会釈がそっと投げかけられる。

「――出ていくんだな」

「ええ、」

「話したんだよな、あいつにはもう」

「ええ、勿論」

 いささか遠回りな言い回しではあったけれど。答えながら、からりと音を立てるグラスをそっと揺らす。

「これは?」

「オールドアライアンス」

 古きからの盟友。新参者に過ぎないはずの自分にはまるで相応しくないその名前に、どこか心をくすぐられるような心地を味わう。

「言ってないだなんて言うもんなら怒鳴りつけてやろうかと思ったよ。わざわざあいつのいない時に来て別れの挨拶だなんて、卑怯にもほどがある」

「命拾いしましたね」

 冗談めかすように笑って答えながら、グラスにそっと口をつけて喉を湿らせるようにする。

「それにしたって、気がつけばあいつのいない時ばっかり見計らうみたいにくるな」

「……気まずい気がして、なんて言うのか」

「わからなくもないな」

 おだやかに響く言葉に、かすかに波だった心をそっとなぞられるような心地良さを味わう。

「――すまなかったな、さっきは」

「いえ、そんな」

 即座に頭を振って答えれば、ぎこちない苦笑いがそれを受け止める。

「忘れかけていたんです、自分でも。それだけこの生活に馴染んで―あまえていたことの証なんだと思います、きっと。僕がここに来たのは最初から、ひとりになるためでした。別の時間に身を置いて、よそもののまま過ごして。そうやって身体も心も半分宙に浮いたままのようなあやふやさで過ごしたかった。いままでの僕を知っている人が誰もいない、縁もゆかりもないような静かな町ならきっとそれを叶えてくれると思った。期待したとおり、ここは居心地のよい場所でした。僕の日常は元の町に取り残されたまま、別の時間に身を置くことが許された。みなそれぞれに懸命に自身の人生を生きているそのはずなのに、外側に居るつもりの僕は、まるで出会う人たちのことをみな、物語の中の登場人物かなにかのように捉えていて―それがどれだけ不躾なことなのかなんてことくらいは、百も承知です。それでも、」

 物語の中を飛び出すようにして語りかけてきてくれた言葉は、そこで触れさせてもらうことの出来た人生のかけらたちは、いつの間にか、凝り固まっていた自分をこんなにも大きく動かしてくれた。見ることの出来なかった景色を、いつしか失いかけていた思いを呼び起こしてくれた。

「いまさらみたいだけれど、改めて思ったんです。自分の人生をもう一度、ちゃんと生きなくちゃって。そのためにはいつまでもここにいるわけにはいかない、僕はここでは『お客さま』のままで、気まぐれに舞台に上げてもらったゲストにすぎないから」

「住み着く人間だっていくらでもいるはずだ、自分が客だったことなんてすっかり忘れて」

「あこがれはしますけれどね。住所不定の芸術家だなんて、なかなかロマンチックだ」

「ふた昔前の映画にならよくありそうだな」

「どうやら生まれてくるのが遅すぎたみたいだ」

 苦笑いで答えながら、左腕に巻き付けた腕時計のバンドへとぼんやりと視線を落とす。

「……後悔しないのか、あいつを置いていくのは」

 核心を突くかのように、鋭い言葉がそうっと胸元へと突き立てられる。

「彼にはちゃんと居場所があるでしょう、この町に。彼を大事に思う人はいくらだっている、守りたいと思う人だって――僕に出来ることなんてなにひとつありません」

「あいつにとってのおまえさんの代わりはほかには誰もいない」

「誰もがそのはずです。だからこそ、僕がいなくなることは何の問題にだってならない。ただの日常が戻ってくるだけです」

 口にしながら、鈍くくすんだ感情がうっすらと立ち上るのを感じる。

「―大丈夫です、彼ならきっと。第一、心配したって失礼でしょう? 彼はもう立派な大人です」

「一部分だけ切り取ればな」

「……知っています」

 ぽつりと答えたその途端、波のようにせり上がる感情にたちまちにのまれていくのを感じる。

 彼の内側にいまでもいるのは、無力な幼い子どもだ―きっと、自らが実の親に捨てられたことを知ったその日から時を止めたままの――生き抜くための術を手に入れ、人生という名の階段を着実に登ったいまも尚、彼の内にはきっと寂しい瞳をしたままの子どもがいる。

 その無垢なあどけなさやあやうさが、どうしようもなく対峙する相手を惹きつけて離さずにいたのはきっと、変えようのない事実なのだ。

「何度も思いました。子どものころの彼に出会えたらよかったのに、それならきっと、出来ることがいくらだってあったはずなのに。それでも、過去を変えることは出来ません。僕たちはいつだっていまを生きることしか出来ない。僕が出会ったのはいまの彼で――彼がいまこうして生きていられることを、何よりもうれしく思っている。何度も考えました、自分に出来ることがあればいいのに、言葉を交わすこと、気持ちを預けあうこと以上のなにかが―肩を抱くことや手を握ること、それ以上のことでもきっとなかった――僕の中には言葉があり、彼と見たいと願った景色や光景がありました。それを形にすることがきっと、僕がすべきたったひとつのことでした。それでもいつまでも物語の世界に身を置くことは出来ない。物語には幕切れがある。僕たちはそれぞれに、自分のいるべき現実に帰らなければいけない――そうやって離れたってきっと、それぞれのいる場所から手を振りあうことは出来るはずです。だから、」

 だからもう一度、自分自身の人生を生きるべきだと思った。『物語』に逃げ込むことを終わりにして。

「――寂しいって、自分の気持ちのありようをそのままに感じることでしょう? そう思えば、存外悪くないものだと思うんです。こんな風に思える日が来るだなんて思わなかった―いま僕は、すごく寂しい」

 軋む胸に掌を当てながらゆっくりと深く息を吸い込めば、息苦しさとともに、それ以上のこらえのようのないいとおしさが胸をつまらせる。

 あんなにもからっぽだった心の中は、いまではもうこんなにもたくさんの宝物でいっぱいになっていた。

「……参ったもんだな」

 無骨に洩らされる言葉は、掛け値なしの温もりに満ちあふれている。

「すみません、酔っぱらいの戯れ言だと思ってください」

「いいから、あいつにもそのままちゃんと言ってやれ」

 あきれたような口ぶりでこぼされる返答を前に、噛みしめるようにぽつりとちいさな声で答える。

「言えるわけがない」

「逃げてどうする」

 これ以上どこへ行くつもりなんだろう。

「――ええ、」

 答えながら、いびつに震えた指先をきつく握りしめる。

「よかったら伝えてください―彼に。またきっと、すぐに会いに来るから、伝えなければいけないことがあって―すごく大切なことで。それはきっと、近い未来に見つけ出せるはずだからって」

 ここから踏み出すことを、その勇気をわけ与えてくれたのが、何よりも君の存在だったことを。

「約束してやるよ」

「ありがとうございます、――ほんとうに」

 噛みしめるように答えながら、ゆっくりと瞼を閉じる。途端に暗がりの中にぼんやりと浮かび上がるのは、静かに心がほどけていくような、幼さのかすかに滲んだ優しいあの笑顔だ。



はじめて出会ったあの日とまるでおなじ――こんな風に懐かしく思える日が来るだなんて、思いもしなかったのに。

 枯れ草を踏みしめるようにしながら、一歩、また一歩と距離を縮めていく。

 見上げたその先では、すっかり葉を落とした冬枯れの木々の枝の合間から、雲ひとつない澄み切った青空が覗く。

 ――いつの間にか季節はひとつ巡り、じきにまた新しい季節が訪れる。あの日、目に映るなにもかもが新鮮に見えた景色はもうあたりまえのように、すっかり目に馴染んだありふれた光景になっている。

 いつかこの光景を懐かしく思うのだろう―遠くない未来にきっと。ふかぶかと息を吐きながら、ぼんやりと見える影へとそうっと手を振る。

 あの日、あの時と同じ――帰る場所を持たない人の墓標の前に佇むその姿を前に、心は静かに跳ね上がる。

「やあ、」

 しどけない笑顔を向けるようにしながら、彼は答える。そっと手を振るそのしぐさにつられるように、襟元に巻き付けられた深いチャコールグレーのウールのショールがかすかに風に揺れる。

「きょうはすこし暖かいね」

「そうだね」

「もうすこしで花が咲くんじゃないかな、君にも見せてあげられたらって思っていたんだ」

 静かに瞼を細めるようにしながら、なめらかな指先は石碑の上をたどるように静かになぞる。

「……懐かしいね」

 噛みしめるようにぽつりと答えれば、ゆるやかな笑みがそれを受け止めてくれる。

「店に来てくれたんだよね、こないだ」

「あぁ、」

 ばつの悪い心地になりながらそっと髪をかきあげれば、無邪気な笑顔がそっと投げ返される。

「伝えてくれてありがとう、すごくうれしかった」

「……ごめん、」

「どうして謝るの?」

 笑いながら、指先はくすぐるようにそっと、厚手のウールのカーディガンの袖口をなぞる。

「直接は見せられない顔や伝えられないことなんていくらだってあるよね。そういう時に助けになってくれる人がいるってすごいことだと思うんだ。ただ黙って遠ざけて終わりになってしまうよりも、ずっと優しいでしょ?」

「――あまえるなって言われたけれど」

「突き放すのも愛情のうちだよ、そういうことをちゃんと知ってくれている人なんだ」

 言葉尻に滲む思いに、心はふわりと跳ね上がる。―彼らには確かに積み重ねてきたものがあり、その中で受け止めた大切な宝物はいまも、心の中で息づいている。それをこんな風に差し出してもらえるこんな瞬間は、何よりもいとおしい。

「……思ったんだ。まだ君に話せていないことがあって――話したいとそう思うのも、僕の身勝手に過ぎないのかもしれなくて。それでも聞いてもらえたらすごくうれしくて」

「うん、」

 促すようにちいさく首を縦に振って見せれば、おぼつかない言葉ははらりと静かに落とされていく。

「ここに来るずっと前、僕を拾ってくれた人がいたんだ。その人はいくつもの綻びを胸の内に抱えていて―ただそばに居てくれる相手が必要で、それに選ばれたのが僕だった。すごく静かで、すごく幸せな時間だったんだ。でもそれが永遠に続かないことはわかっていた。彼女に巣食う傷は思っているよりもずっと大きくて深くて――そばにいるだけの僕は、ただそこから目をそらしているだけだった。やがてその日はあっけないほどにあっさり訪れて、僕は彼女を見殺しにした罪に問われた」

 鉄格子によって閉ざされた冷たい檻――半死半生の状態で病院へと搬送された彼がすぐさま身柄を移されたのがそんな場所だったとは、以前にも伝え聞いていたことだった。

 ――それでも、当人の口から語られる『それ』はまるで重みが違う。

 息をのむこちらを前に、いつものようにやわらかにほほえみかけるようにしながら彼は続ける。

「やがて僕はそこからも追い出された―生きていくことが、ほかの誰でもなく、自分自身が自らの人生に責任を持つことが僕に課された罪なんだと思った。死ぬことなんて、逃げ出すことなんて神様はすこしも赦してくれなかった。―夢があったんだ。あの人にちゃんとお別れを、ありがとうを言いにいかなくちゃって。でもきっとそれは、叶えられない願いなのを知っていた。僕はきっと彼女と同じ場所にはいけないし、彼女が眠る場所を訪ねることも赦されない―だから、はじめてこの町にきて……ここを知って。すごく優しいなって思ったんだ。見送ってくれる人がたとえいなくても、神様とその使いになる人が魂の安らぐ場所をくれる。そんなことがあるんだなって――まるで、家族みたいだなって思った。僕がもしこの町で命を落としたとしたら、きっとここで眠るんだろうなって。そう思うと、それだけで魔法みたいに不安な気持ちがやわらかく溶けていくのを感じた」

 開かれた門の彫刻の下には流れるような書体での短いメッセージ―あなたたちの魂がどうか安らかでありますように。門をくぐり抜けたその先でまた出会いましょう―孤独な魂を包み込んでくれる、とっておきの見送りの言葉がそこには記されている。

「……ずっと君に聞いてほしくて。でもそれがほんとうに赦されることなのかなんてことは、すこしもわからなくって」

「ディディ、」

 確かめるようにそっと、そう名前を呼ぶ。ぶざまに震えた声は、心のうちをありありと照らし出すかのように頼りなく、くすんだ空気の中に溶かされていく。

「ありがとう。……すごくうれしいよ、聞かせてくれて。ごめんね、いまはそれしか言えない。でもきっと、それでいいんだと思う」

 この場所にたどり着いてくれて、生きていてくれて、ほんとうにありがとう。言葉に出来そうにもない思いは、ゆらゆらと胸のうちでいくつも浮かび上がってはあぶくのようにしずかに音も立てずに溶けて、余韻だけをしずかに落としていく。

「わかってたんだ。君には君の生きていく場所と時間があって、いまこうしているのはきっと、その貴重な時間のほんの一部を分けてもらっているだけで―でも、だからこそちゃんと、ありがとうを言わなくちゃ。その日が来たら、今度は僕が送り出してあげる側にならなくっちゃって。だからいいんだ、それで。むしろ、誇らしい気持ちでいるくらいなんだよ」

 胸をはって答えてみせるその姿には、晴れ晴れとした誇らしさが滲む。

 どこにも行かない、だなんて言葉は、言えるはずもなかった。ああ、きっとおなじだ――いままでに幾度も彼の前を通り過ぎていった、彼を置き去りにしていった人たちとまるでおなじ。それでも、確かなことはあるはずだ。

 彼はもうひとりではないこと―心から彼の幸福を願う人々が彼を支えてくれているのだということ。そしてなによりも彼自身が、確かな自分を持ってここで生きることを自ら選んだのだということ。

 重い鎖で縛り付けられていた無力な『犬』は、もうどこにもいない。

 決意を込めるようにぐっと深く息をのみ、僕は尋ねる。

「ねえ、約束をしてもいい?」

「……うん、」

 あわく滲んで揺らいだまなざし、その奥をじっと見つめるようにしながら、言葉を静かに吐き出す。

「必ず君に会いにくるよ、ここを離れてもきっと。君がすごく大切なことはきっと変わらないから――生きていく場所が違っても、会えないだなんてことはきっとないはずだから、それと――」

 わずかに震えた掌にそっと爪を立てるようにきつく握りしめながら、心の奥でわだかまった想いを形作っていく。

「物語を――きっと書き上げてみせるから。ここを旅立つよりも前に。君に贈るために書き始めたんだ。君がくれたものがたくさんあって、それを形に残したくて。なにかになれるだなんて思ってないよ。そんな風に思ってしまうのがきっと思い上がりなのも知ってる。それでも―君に知ってほしかった。大切なものをほんとうに数え切れないほどくれたのが君だから、そのおかげで、自分ひとりじゃきっと見られなかった景色が見られるようになったから。それを形にして君に手渡すことがきっと、いまの自分が何よりも届けたいことだから」

 だからあともうすこしだけ、君の大切な時間を僕にください。

 ささやかな祈りのような言葉は、静かな波紋のように心を揺らし、竦んだ足を前へと進ませてくれる。

「……ありがとう」

 噛みしめるようにぽつりとおだやかに答えながら、澄んだ琥珀のまなざしがじいっとこちらを捉える。

 あの日、あの時とまるでおなじ――不安げに揺らいでいたあの色はもうすっかり遠ざかり、すべてを受け入れてくれるかのようないつくしみだけがそこにはたゆたう。

「あのね、」

 いびつに声を震わせるようにしながら、静かに言葉は落とされる。

「……ほんとうによかった、君に出会えて。ほんとうは、言わなきゃいけないことがたくさんあって。僕には心があって、それを伝えるための言葉だってあるのにいつだってきちんと伝えることなんて出来なくって――あまえていたんだと思う。手を握ったり、抱きしめたり、ただそばにいたり。それに勝ることなんてないと思ってた。でもほんとうはそうじゃなくて――そこに逃げていただけで。はじめからきっと知ってたはずなのに、気づかないふりばかりで」

 ゆっくりと首を縦に振り、決意を込めるような確かさで彼は答えてくれる。

「いままで出会ってきた人たちと、ほかの誰ともちがうんだ。そんなの当たり前だっていうのかもしれないけれど―そうじゃなくて。いまここだったから意味があったんだと思う。そのために僕は生きてきたんじゃないか、ここにたどり着いたんじゃないかって思うくらいに。ほんとうに――君のこと、すごく愛してる。相応しい言葉はもしかすればほかにあるのかもしれないけれど、いまはそうとしか言えない」

「――ありがとう」

 振り絞るような心地で、ただそう答える。

 行き着く果てはきっとこの先どこにもない、ただ途方もないいとおしさだけが満ちあふれた末にたどり着いた言葉がきっとそれだった。

 なみなみと水の注がれたコップからあふれ出すような無垢さで放たれた思いに、心はただ揺らされるばかりだ。

「……ありがとう、ほんとうにありがとう。僕もおなじだよ、きっと」

 君に出会えてよかった。きっとこれから先、どんなことが起こったって忘れない―こんな風に想える相手には、きっともう出会えない。この気持ちさえあれば、これから先どんなことがあっても生きていける――ただひとつのたしかな希望が、この手の中には溢れている。

「ありがとう、」

 震える声で答えながら、やわらかな髪をそっとなぞりあげる。ただそれだけのことに、なんでこんなにも勇気がいるんだろう。

「ほんとうにありがとう。すごく大切だよ、君のことが」

 やわらかに受け止めるその笑顔を焼き付けるかのように、僕はゆっくりとしずかに瞼を細める――まるで、カメラのシャッターを切るその瞬間のように。







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