第29話 遠影

 肌に当たる風は日中より少しだけ温度が低い。

 暑くもなく冷たくもなくちょうど良い気温だ。

 むしろそのまま眠ってしまいそうな気持ちよさがある。

 西側居住区の一番南側。寝室の縁側に戸を開け放ったまま、呂花おとかは足を伸ばして座り込んでいた。時折近くを虫が横切り、線を引くような特有の羽音が聞こえた。

 暗くなった空には星々が一面に座を据えた様子が広がっている。ただただ吸い込まれそうなほど綺麗だと、漠然とそう思うだけだった夜空は突如として呂花に違う側面を突き付けた。



「この間少し言ったと思うが」

 昼下がりの鎮方しずめかた詰所で隼男はやおは切り出した。

陰人かげびとには専門士というものがある」

 専門士にはおおよそ十一種類ほどあって、それぞれの技術を専門に扱う陰人のことを指した。専門士は一つの技術を専門とする者が多いが、中には複数の専門を持つ者もいる。万夜花たかやすはなでは美里みさと縛術士ばくじゅつし鑿開士さっかいしとして二種類の専門を持っている。ただ基本的には専門を持たない陰人の方が大多数である。その一般的な陰人のことを技士ぎしと言った。

「呂花」

 不意に名前を呼ばれた呂花は、顔を上げて座卓を挟んだ真向かいの隼男を見る。

「お前はひとまず、技士として院に登録してある」

 それは見習いとして技士からの出発という意味なのか、それとも桐佑きりゅうが技士だったからなのか。

 多分後者だろうと呂花は思う。

 何の専門士でもないのなら、の存在もそれほど重要だったとは思えないのだが。

(星守……)

 その言葉はとても遠い。



 専門士の中でも少しだけその系統が違うのが鑿開士だ。他の専門士が直接鎮めなどの現場で技術を使うことが主なのに対し、鑿開士はそういった現場の仕事が多い。だからといって鑿開士が他の技術を扱えないということではなく、得意分野を専門とした仕事が多いというだけのことだ。

 もちろん他の専門士達も同様である。

 哲平てっぺいは美里、そして奥部おくべあらたと同じく万夜花の鑿開士の一人であった。鎮め前後の現場やそこで発生した事象、対象についての調査、または関連する情報の分析などを行い過去の資料や蠱魅やみの形態などと照らし合わせて発生経緯、あるいは原因の特定などを行うのが主な役割である。なお鑿開士の中には技工を得意とする者もいて、哲平もその内の一人だった。

 陰人の言う鑿開士は〈鑿開〉という言葉本来の穴をあけたり掘ったりという意味のものではない。本当かどうかはともかくも。事象や現象、情報などを深く掘り下げ、細かく砕いて見るという仕事の様をそれになぞらえて付けられた職名だという説もある。ただし画数が多く書きにくく、一般との境があまりなかった大昔にはそれこそ本当の鑿開士と混同されることもあったようで、分析や解析などにひっかけて〈析開士〉と書く場合が今では普通だ。

「……がっちり閉じたな」

 寸分の隙間も残っておらず、この先に続く空間は完全に潰されてしまったのだろう。

 切れ目などがないかを確認するように壁の壁面に触れながら哲平が呟いた。

「ここは三狭間分潰されている」

 礼成まさなりが哲平と同じ壁を見ながら言った。

 狭間が潰されると同時に監視用として設置していた記録符も、それ以外の符やとうも一緒に失われてしまったのだ。

「記録符は?」

 一枚だけ、と哲平が小さく応ずる。

 唯一緊急用の転送装置を付けた一枚だけが手元に残った。それも半分は破れていて情報を取り出せるかどうかはわからない。

「そうか」

 礼成がため息を吐いて低く頷いた。

 悔しいがそれも想定される事態の一つなのである。

 それでもこの〈か六二〉が消失した狭間域との境では〈そ・て八九〉があった場所に一番近く、間の潰れた狭間も最も少ない。だからその足掛かりとして〈か六二〉に四人はやってきた。

 一方二人の反対側では京一がこの〈か六二〉の二つの出入口を交互に眺めていて、その少し離れた場所ではあきがやや考え込むようにしながら、哲平の触れている壁の先を睨んでいた。

 先日別の狭間から見た際には確かに春代はるよ達が出くわしたであろう、蠱魅の強い気配がその場で感じられるほどあった。だがこの〈か六二〉の場所にはその気配をまったく感じない。

 その両者に通ずる共通点。それは直近の自分達の姿しか、結果を得られことだ。自分達が今この場所から安全に出ることはできる。著にのはそれだけだった。その先は見えなかった。

 もやどころか、ただ黒一色。前回は狭間域が消失する前なので、蠱魅の暗さかと思ったりもした。もしかすると、この不穏な気配の無い場所に立ってその先が著には見えないということが、あるいはその黒一色に塗り潰されていることが何かの手がかりになるのか。

(黒と白……)

 著は占が絶対ではないことを理解している。単なる鎮めの補助的な技術でしかないことも重々わかっている。だから見えないことに対してそれは有り得ることだと常から承知しており、そのことに対して驚いたわけではなかった。

 これほど落ち着いた場所でその未来さき過去まえも見えなかった。それが著に戸惑いを与えた。今すぐにこの場で何か変化が起こる気配は感じない。まさかこの安定した状況がこの場においてずっと続くというのか。

 状況とは少しずつでも変化するものである。むしろ同じ状態が続くというなら、その方がよほど異常な気がする。占術にも見える期間の限界は当然ある。当たるかどうかはさておき、その数ある可能性の中に微細な変化があるものが一つ二つはあるものだ。

(……俺が拾えないだけか……?)

 見えていないのならそれはそれであり得ることなのだが、どうにも居心地の悪い妙な違和感が残る。先ほどの哲平の言葉を聞いてその違和感に当てはまる気がした。

 ぴたりと固まって動かない。何とも言えない異質な感覚。

「京一、どうだ?」

 著の困惑する思考を礼成の声が破った。

「……わかりません」

 首を横に振って言ったその静かな声音に著が更に我に返る。

「……おそらく、ここには今、何も無い」

 京一は顔色を変えることもなく淡々と言った。

 そこにあった蠱魅も一瞬にしてされてしまった。だから何も残っていない。

 京一は著をふり返って頷いた。

 著は一瞬遅れてその意味に気づく。

 何も無いから、とそう言うことなのか。そこにあったはずの手がかりも消去された蠱魅とともに消えてしまったか。

 結局また、何もわからないままだ。

 一歩の差。今回の案件に関して言えばどこか入れ違いで手がかりを掴めない。そんな歯がゆさが何故か残る。今は院の解析室の記録解析を待つしかない。あの狭間はどうやって狭間内に出現したのか。そして何が理由でその狭間域は潰れたのか。

「その先はどこに繋がってる?」

 京一が見比べていた片方の出入口を見た哲平が言った。自分達がやってきた出入口とは別のもう一つの出入口。三人も口をぽっかりと開けたその狭間口に視線を向けた。薄い、ぼんやりとしたがこぼれている。

 春代はるよは何を見たのだろう。彼女が目にしたものは、本当に光だったのだろうか。



 東国大陸は木標こずえの東の端。その内陸にある星社跡にあきらはいた。すでに日没を迎えて辺りは暗闇に覆われている。月明かりがあるのでそこそこ辺りの様子は窺えた。

 社名はわからない。当然主祀霊しゅしりょうもいない。

 精霊しょうりょうは付近にそれらしい姿を見つけることはできなかった。

 屈み込んだ彼は躊躇うことなく地表を何度か払う。しばらくそれを繰り返していると手触りが変わった。現れたものの見た目は地面の一部にも見えるが、ざらつくようなゴツゴツしたような感触は石の表面だろうと思われる。暁は手を止めると、その表面についたわずかに水分を感じる黒い土を一つまみして右の親指と人差しで擦り合わせた。一つ一つが塊となって彼の指から解放され、大地へと戻っていく。

 千年以前か。それとも千年前より後ろか。

 地表に現れたほとんど地に埋もれた石はおそらく二御柱ふたみはしらの台石だろう。地表に出てきた部分だけだが、人手が加わっているのは確実であろうと思われた。それでも暁のような専門家が辛うじて見当をつけられるものであって、普通の人ではその辺の土に埋もれている石との見分けはつかないだろう。星社跡とはいってもその形は無いのだ。人の生活圏に近い場所なので山や森にはならないまでも誰も近づかない、人とそれ以外の境界のような場所である。身を屈めたまま上半身を起こして暁は軽く周囲を見渡した。

 暁は葉台はだいの歴史について調べている。葉台は何十億年以上前から存在していて、その中で生物も非生物も生滅を繰り返してきた。人も当然その流れの一つに当てはまる。だが現時点で人が知り得る限り、千年よりも前の葉台の歴史はほとんど未解明だった。人も、それこそ原始の人々も何百万年よりも前から存在してその進化があって、現代の人々が在ることはわかっている。本当にわずかなその痕跡が確かに発見されてもいる。ただし。現代人の直接の祖と言える人類の歴史、記録はその痕跡も記録も全て千年前から急に現れる。それで何が不都合かと言えば、千年前の葉台の人々はすでに高水準の文明を築いていたらしいからだ。原始的な人類から文明的な人類への進化の過渡期であるならまだしも。言語も文字も発達して確立した文明文化を持った人々がそれ以前の葉台のことを研究したり、調査したりしていないとは考えられず記録や資料が残っていないという状況は有り得ないと言える。近代ようやく少しずつ明らかになってきたものの、本当にそれもわずかだった。

 実はその理由ははっきりしている。

 今から千年前。葉台はひどい混乱期に陥ったのだと言う。真っ黒に塗り潰された詳細な記録が残らなかったほど混沌とした時代だったらしい、と今なおそれだけしかわかっていない。千年前というのも、実際にその記録がはっきり現れてきた九百年前頃の記録に百年前の世界がかなりの混乱にあったことが記されていたからだ。

 千年の昔、葉台にいったい何が起こったのか。何が起きていたのか。何が始まりで、混乱に終息をもたらしたものは何なのか。それ以前の人間はどんな人々で、どんな暮らしをしていたのか。

 屈めていた身を起こすと彼は形無き二御柱いりぐちの間を越えて、その奥へと消えていった。



 自分の手元に無言のまま呂花は視線を落とす。

 一つは折りたたまれた大判の一枚紙。もうひとつは大人が両手の平を並べたくらいの大きさで真っ白い厚紙だった。

 星図と星相板。

 昼間の講義中に隼男が呂花に渡したものだ。

 星図は星の位置を示すもので一般のそれと基本的には同じ内容で同じ用途だが、と前置きをして彼は続けた。

「ただ陰人の使う星というのは、ある程度葉台に近い星に限られている」

 だからそれほど多くの星を覚える必要はないし、日常的に使う星自体が限定的なのでそこまで難しく考えなくてもいい、と彼は言った。星図と言っても内容も一般的なもののような詳細は無く、東西南北と各星の名前と配置だけが記されているだけだから、複雑で難しい専門的な知識は必要ないのだと隼男は笑った。

 天文に関する専門知識は必要ないかも知れないが、それでも星空をそんな風に興味を持って眺めたことの無い呂花にしてみれば、覚えろと言われても途方に暮れる話でしかなかった。

 宇宙のほんの一部であろうとも、呂花にとってその範囲は決して狭くなどない。どれも似たようにしか見えない星々を、まして少しずつであろうとも刻一刻と動き、見える形を変えていくそれらを覚えられるとは呂花には思えなかった。

 空に浮かぶ星は近くに見えてもその距離はあまりにも遠い。以前の呂花にとって星社の存在はそれほど遠く感じるものではなかった。

 けれどもその中身は。

 の世界は果てしなく遠い星影と同じように思えた。その星明かりのたもとで彼ら陰人達は日常的に鎮めと呼ばれるものを行っている。そこに映し出される人影達と呂花の距離もまた限りなく遠い。

 手元から視線を外して呂花は自分の側に目を向ける。投げ出した足の近くには符を入れるための〈符入れ〉、先日渡された狭間図、蠱魅の一覧表、禳禦院じょうごいんや支部、そして陰人に関する資料冊子などが無造作に投げ置かれている。

 この様子だけでやる気の無さはわかると言うものだ。呂花にしてみればそれも当然で、やる気以前の話なのだ。

(何で……)

 自分はここにいるのか。

 一つ。深い深い息を吐いた呂花は真っ白な厚紙を持つ左手に力を込めた。

 ふっと何もない白いだけの紙の上に小さな光が灯った。






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