第9話 この世でいちばん見たかったもの
その時はやってきた。
不幸だったのは今回の舞台が炎に包まれていた事だ。彼女本人が言った通り、エフェクトの使い過ぎなのか意識を失いかけているのか分からないから。
徐々に見えなくなってきている視力に、危機感を抱きにくかった。
唐突に思えたかもしれない。
しかし、危険信号はきちんと機能していた。
それに気づけなかったのは彼女自身が甘い判断を下していたからでもあるが、なによりも。
万全な調子でない事を知りながらも、彼女に判断を任せてしまっていた江戸屋のせいだ。
致命的なミスだった。
勝利を掴み取るには絶望的なほどに。
え……。
まるでスイッチを切ったように、光が途絶えた。
真っ暗闇の中。
やがて足下が揺らぎ出す。
地面がたるんだ紐のように。
体重を支えられず、膝が崩れた。
両手を地面につける。
……熱を帯びた地面。
見えていないはずなのに、視界が歪み始めた。
……触れているこれは、地面?
ぐるぐると体が回転しているような錯覚に陥る。
水中に放り投げられ、どこが水面なのか方向が分からなくなってしまった感覚。
息が詰まる。
吐くばかりで空気が吸い込めない。
現実に溺れ始める。
「――あ、ぁああ、い、や……っ!」
彼女の正気ではない声に江戸屋が声をかけたが、彼女の耳には入っていなかった。
陽羽里はパートナーを信頼する事で目の見えない恐怖に打ち勝った。
それは、河澄と江戸屋の間にはないものである。
「ぁあ、ぁああぁあ、嫌――――ッ!!」
彼女の悲鳴が会場に響き渡り、観客がざわざわと動揺し始める。
司会者も問題が起きたのではないかと戸惑いながら千葉に問いかけるが、試合を中断させる気はないように見えた。
彼は腕を組んだままだ。
「立ち上がれよ」
――……彼の声を、マイクは拾わない。
人に鼓舞されて立ち上がったのでは、意味がない。
渡會陽羽里とはやり方は違うが、千葉道もまた、今の風潮をどうにかしたいと考えていた。
陽羽里が提案し、プレゼンしなくとも、千葉はなんとしてでもこの『ヴァルキリーマウント』を開催しようと思っていた。
だが実際は、陽羽里が挙手しなければ実現はしなかっただろう。
だから、陽羽里と千葉、正反対のやり方がぶつかるのは必至だった。
陽羽里は圧倒的な力を示す事で、女性のあるべき立場を取り戻そうとした。
千葉道は――、
「立ち上がってくれ、ミト」
力によって抑えつける、それもまた強さを示す方法かもしれない。
だが、抑圧は脅しと変わらない。
そんなやり方をすれば反発する者の方が多いだろう。
強さにこだわりを持つ血気盛んな男が多いこの島では、尚更だ。
であれば、強さではなく、勇気を。
力ではなく生き様を――それこそ、男が最も評価する部分でもある。
古風かもしれない、効率は悪いかもしれない。
それでも、逃げ続け、弱さばかりを見せてきた彼女でこそ、立ち上がった時に最も効果があると踏んだ。
千葉道は最初から、河澄ミトを選んでいた。
「――立ち上がれ、ミト!」
「母親に会いたくねえのか?」
江戸屋扇は餌をちらつかせ、河澄ミトの復活を企んでいた。
嫌悪感を抱くやり方だろう。
しかし、彼はこのやり方しか思いつかなかったのだ。
それに、これで立ち上がるだろうと思っていた。
しかし、河澄は意外にも、もういい、と言ったのだ。
「いいのかよ、母親に会わなくて」
『…………うん』
「一生、会えねえかもしれねえぞ」
『……………………』
さすがに沈黙し、頷きはしなかったが、彼女の意志が砕けたのは感じ取れた。
江戸屋は呼吸し、一拍置いた。
言う気はなかった。
なぜなら江戸屋は、この試合でそれを阻止できると自信があったからだ。
だが蓋を開けてみればどうしようもない。
阻止するどころか河澄を勝たせる事さえもできない。
なにが勝たせてやる、だ。
なにが負けた事がない、だ。
ルールが設定されただけで江戸屋扇は最強ではなくなる。
所詮はその程度、なにも特別ではない。
一人で背負ったはいいが処理できずにこぼれ落ちてしまっている。
――それは人の命だ。
プライドだなんだと言っている場合ではないだろう。
「ミト……助けてくれ」
『…………普通、逆だよ……こっちが助けてほしいくらいなのに……』
さっきよりは元気が戻ってきているようだった。
呆れた声だが、力が宿っている。
江戸屋の口からそれを聞いたからだろう。
「……このままだと、渡會が、死ぬ」
悪質な嘘ではない。
内容を聞けば河澄は本当だと理解するだろう。
江戸屋が昨晩、責任者の男から聞いた推測と、河澄が陽羽里から直接聞いた企みは、一致しているのだから。
江戸屋扇にとって渡會陽羽里とは?
島にきて二番目に出会った女子……そして、江戸屋扇の強さに屈服しなかった者。
当然、殴る蹴るの喧嘩をしたわけではない。
彼女の体が弱いというのは相対して分かった。もしたった一発でも当ててしまえば、それでころっと逝ってしまう可能性はじゅうぶんあった。
それでも彼女は江戸屋扇から逃げる事はなかった。
毎日のように、声をかけられた。
彼にとって上でも下でもなく、平等と言えるのは、渡會陽羽里くらいだろう。
友達……仲間か。
喧嘩は強くないが、態度だけは江戸屋がこれまで過ごしていた世界にいた者と同種であった。
だからだろうか、口では対立していながらも、この関係を実りのあるものだと考えていた。
そう簡単に断ち切ってはならない関係であるとも。
もう、一匹狼とは名乗れない。
そんな名で呼ばれる事も、もうないだろう。
江戸屋扇の傍には、仲間がいるのだから。
手が届かない位置にいる仲間を、失った事は何度もあった。
それは仕方のない事だと割り切れと教わった。
当時は理解できなかったが、やがて見て、学習し、そう吸収したのだ。
なら、手が届く範囲に仲間がいて、助けられるのだとしたら。
伸ばさない理由は、あるのだろうか?
伸ばさなかった事を後悔するだろう。たとえ泥臭く、間抜けで男らしくなくとも、救えるはずの命のためであれば頭さえも下げよう。
たとえ相手に見えていなくとも。
江戸屋扇は、目が見えていない河澄に向けて、
別室にいながら、頭を垂れていた。
「頼む、ミト。今だけ……――俺を信頼してくれ!」
『……今、土下座してる?』
「ああ……見えていないかもしれないけどな」
失明していなくとも、だ。
『ふーん……この目で見たかったのに』
そう言って、河澄ミトが立ち上がった。
『江戸屋くんの土下座なんて価値のないもののために立ったわけじゃないから』
「…………分かってる、あいつのためだろ」
『うん。――嘘じゃないって、信じるよ。……あと、信頼も、するよ……』
嫌そうな声だったが、それでも、言葉にしてくれた。
なら、江戸屋もその言葉を、信じる事ができる。
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