ヒモ

 鳥地が目を覚ますと、机に向かうアタルカの背が視界に入った。


「おはようございます」

「む、起きたか」

「早起きなんすね」

「いや、一睡もしていない」

 鳥地は少し驚いたが、徹夜で本を読んでいた前世の自分を思い出し、まあそんなものかと思い直す。


「顔洗いたいんですけど」

「家の裏側に井戸がある。好きに使え」

 そうか、水道が無いのか。

 ここに来て、自分は異世界にいるのだなぁと改めて自覚してしまう。


 赤ん坊になったり、魔法を使ったりする方がよほどファンタジーだが、突拍子も無さ過ぎて現実感に乏しい。

 むしろこういう生活の一部というか、インフラ整備の行き届かなさや価値観の違いの方が異世界を実感する。


 この辺は小説ではあんまり書かれないからな。

 書かれていても忘れるか。


 そんなことを考えながら、筋力強化の魔法で体を支え、小さな「あんよ」でゆっくりと井戸まで進んでいく。


 井戸に辿り着くと早速、魔法で井戸から洗面器一杯分ほどの水の弾を浮かせる。

 家出前は実家で密かに魔法の練習をしていたので、日常生活を営む程度の魔法の扱いなら慣れたものである。


 流石に火の柱を出現させるような魔法は昨日が初めてだったが。

 とまれ、この不思議な力のおかげで普段の生活には全く困らなかった。


 つい先日までは。

 こんな赤ん坊がいては不気味だろうと隠していたエス・カグラの魔法の才能が、エス家の人間にバレてしまったのである。


 両親はカグラの才能を不気味がるどころか、大いに喜んでくれた。

 しかしエスは武門の家。

 両親はカグラを魔法騎士に育て上げる準備を始め、戦場になど立ちたくない鳥地はそこから逃げて来たのだった。


 以上、これが鳥地がここまで逃げてきた経緯である。

 赤ん坊は顔を洗ってからタオルの類が無いことに気が付き、「おてて」で軽く顔を拭ってから小屋へと戻って行った。


「だから徹夜はやめろって言ってるのに!」

「寝床がふさがっていたのだから仕方がないだろう!」

「普段からベッドで寝ないくせに!!」

 小屋に戻ると昨日も顔を合わせた客が来ていた。


 短めの金髪から覗くわずかにとがった耳。

 薄い緑の瞳が大粒の宝石のように輝く整った顔立ち。


 エルフの血を引く天文学者の少女、トクロ・リールだった。

 彼女は端正な顔にハッキリとした怒りを浮かべながら、椅子に座ったアタルカの耳を引っ張っている。


「あ、おはようカグラちゃん」

 カグラという名は、その世界に来てから何ヶ月も経った今でも慣れないが、トクロは鳥地のことを女の子扱いしたいらしい。

 中身は立派な男の子ですけどもね!


「おはようございます。あの……」

 この際なので、少し気になっていたことを聞いてみることにした。


「二人って、どういう関係なんですか?」

「ん、昔からの馴染みだ。二人ともこのあたりの育ちだからな」

 鳥地の質問に、やっと耳を話してもらったアタルカが答える。


 そっかー、世話焼き幼馴染かー。

 王道だなー、先生いいなー。


「でもこんなに先生の家に何度も来てるなんて、ただならぬ関係のような……?」

 本気でこの二人にそんなロマンスを感じる訳ではないが、なんとなくつついてみたくなった。


 いたずら心である。

 それに、普段は喧嘩腰の幼馴染が実は……というのもよくある展開だ。


「まあ、ここはトクロの家の持ち物だからな」

「ついでに言うと、こいつの生活費や研究費用も私の家から出てるよ」

 意外な答えに、鳥地は一瞬の硬直の後に叫んだ。


「ひ、ひ、ヒモだーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 それはもう叫んだ。


「絶対に許すことは出来ない」と。


 それから、「羨ましい」の気持ちを込めて。

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