間隙
連休中、もう一つ出来事があった。
「コミケ行ったんだけどさぁ」
マヤは五月の東京でのコミックマーケットにここ三年ばかり参戦しているのだが、
「帰りの羽田空港でセラミックスに会ってさぁ」
瀬良翠のことをマヤだけは、なぜかセラミックスと呼ぶ。
「それがコミケの袋なんか何個もぶら下げてたから、ちょっと機内で、小一時間ばかり問い詰めてやった訳ね」
別にヲタクって隠すような事柄でもないのに、とマヤは腹が立ったらしかった。
すると、
「あの子ホントは超ヲタで、日頃あんなにボロクソにアイドル部ディスりまくってるくせに、初音ミクのグッズ転売屋なみに買っててさ。好きなら好きって素直になればいいのに違うから、こっちが馬鹿にされてるみたいで、だんだんムカついてきてさ」
詰問させてもらった、というのである。
「証拠の写真もあるよ」
そこには引きつって泣きそうな笑顔をした翠が、初音ミクのぬいぐるみを抱えている姿がある。
「なんでミクヲタなのを隠す必要があるのか、私には皆目分からないけど、まぁ新千歳まで充分な暇つぶしになったからいいわ」
マヤは翠に対し、ヲタクは恥ずべきものではないとかなり腹に据えかねていたものか、清々しい顔をしていた。
数日後。
「ごきげんよう」
と取り澄ました顔の翠が、朝練でグランドに集まっていたアイドル部の集団に近づいてきた。
「あ、セラミックスおはよー!」
マヤがコスプレイベントで鍛えた声を張り上げると、登校中の生徒たちが振り向くほど、周りの手稲山にも響いた。
全員、マヤに注目がゆく。
そこをマヤは逃さない。
「こないだは初音ミクのグッズ、見せてくれてありがとねー!」
これをやられては、翠も形なしである。
翌日から翠はセラミックスというあだ名で呼ばれ、のちに余談ながら卒業後しばらくして、結婚式の披露宴までそう呼ばれ続けるに至る。
「あれでアイドル部ディスれたら、あの子かなりの大物なんだけどね」
美波が卒業しても、代わりにマヤというキャラクターが似たようなことをする。
「代わりって、あらわれるんだね…」
千波は目をシバシバさせた。
さらに翌日。
放課後の部室でアイドル部が準備をしていると。
「ごきげんよう」
翠があらわれた。
「体験レッスンは週末です」
ろくに顔も見ないまま雪穂が言った。
「あなたねぇ…」
「あ、セラミックス」
雪穂のボソッとした口調にかかると、翠は言葉に詰まる。
それでも、
「…私はあなたたちを、認めたわけではありません」
「私だってあなたの子でも孫でも、ましてや婿でも嫁でもないんで、認めようが認めまいが預かり知らないんですけどね」
雪穂の切り返しに再び翠は体がぐらついた。
完全勝利した瞬間である。
あまりにもすきのなさ過ぎる雪穂の返答は、
「雪穂砲」
とも呼ばれる。
ファンの間では「雪穂様に叱られたい」というハッシュタグがあるぐらいなのだが、それにしても一撃である。
「まるで伝説のマタギみたい」
唯が言ったそれには解説が要る。
大正時代に起きた
このとき銃を質屋から請け出してヒグマの眉間に一発で命中させた猟師が、伝説のマタギである。
北海道ではこれを地域の歴史として、小学校の社会の時間で教わる場合が多い。
それで。
一言で相手を止めると、こうした喩えに使われることがあるのだが、
「おばあちゃんがアイヌの系統だから、仕留めるの上手いのかも」
雪穂が真顔で言うとシャレにならない。
週末。
再び翠が部室にやってきた。
「…おはよう」
いつもの「ごきげんよう」ではなかったので全員身構えたのだが、
「あのね…」
翠は目を潤ませていた。
「雪穂、ちょっと」
雪穂の手を引いて外へ出た。
「こないだはごめんなさい」
「私は気にしてないよ」
雪穂は声を荒らげることが少ない。
「でも素直じゃないよね…よっぽどのことがあったのかも知れないけどさ」
雪穂はおっとりしているが、頭が悪い訳ではない。
何か見抜いている。
「実はね…あやめちゃんの件があったじゃない?」
雪穂は勘が働いた。
(あ、やっぱりこの子もいじめられてたんだ…)
後日、雪穂の読み通り中等部時代にかなりいじめられて引き籠もっていた時期があったらしかった。
やっぱり、といったような顔で雪穂は深く息をついてから、
「いじめられるのが怖かったの…」
雪穂は問い詰めるようなことはしない。
が。
「じゃあさ、約束して?」
「約束…?」
「あなたがあやめちゃんを守ってあげて。翠は生徒会長だから、そのぐらいは出来るよね?」
それまでの非礼を不問に付す条件である。
「…分かった」
「じゃあ、ちょっと入って」
そこで再び、
「今までのことを水に流す代わりに、セラミックス…じゃなかった、翠があやめちゃんを守るって約束をしてくれた──これでいい?」
「…はい」
「唯先輩、どうします?」
唯に伺いを立てた。
「そこまで話が出来てるなら、私は構わないけど…」
唯は意見を求めた。
しばらくみな黙っていたが、やがておずおずとすみれが口を開いた。
「じゃあ、この場で念書書いて」
「それはさすがに…」
「私がいる事務所は、すべて約束事は紙に残す決まりだから」
それが出来ないなら破談かすみれが退部するか、だという。
「またそういう話…?」
藤子が思わずつぶやいた。
グループ名のことを思い出したらしい。
「藤子ちゃん…」
「…分かった。紙切れ一枚で済むなら、何枚でも書くわよ」
いつもの翠が戻って来た。
「じゃあ決まりね」
パソコン机にいた優海がルーズリーフを取り出した。
こうして。
念書を翠は軽い気持ちで書いたのだが、やがてこれが、翠自身に結果的には跳ね返ってくることとなるのであるが、このときの翠は当たり前のことながら知らなかった。
五月も半ばをすぎると、練習は更に佳境に入る。
「リラ祭近いから気合い入れなきゃダメだよー」
雪穂にかかると、檄も間延びしてしまうのだが、
「本来部活動は楽しくなきゃいけないんだけど、なんか周りがガチャガチャしてるとストレスたまるよね…」
それでも、
「あの情緒不安定なセラミックスが落ち着いたからいいわ」
マヤにすれば実のところ頭の痛い存在だったのかも知れなかった。
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