第2話 暗闇のその先は
直紀が慌てて正門を駆け抜けていくのを二階の窓から確認して、俺も図書室へ向かう。
あの女が自ら死を選ぶ場所がどこかくらい、検討はついていた。そして、彼もそこに向かおうとすることも、嫌なくらい分かりきっていた。
離れたところからでも分かるくらい、直紀は様子がおかしかった。常軌を逸していた、と言ってもいいくらいに。
そんな直紀を見ても、罪悪感など少しもわかない。やっぱり、俺のこの気持ちは愛でもなんでもないんだと、ぼんやりと思う。
それでもいい。それでもいいから、俺のことを見てほしい。
みなも、こんな気持ちで直紀と接しているのだろうか。どんなことをしてもいいから、どうしてもこっちを向かせたくて、必死になっているのだろうか。
みながかわいそうだと思った。あの一年にはさっさと退場してもらって、みなと直紀が上手くいけばいいと。
でも、それだけじゃなかった。俺は心のどこかで期待していたのかもしれない。
俺もしあわせになりたいと、そんなことを考えてしまった。これは、その罰なのだ。
数分間、閉ざされた図書室の前で待っていると、直紀が青い顔をして現れた。駿? と俺の名を呼ぶ声が震えていることに、喜びを覚える自分がいる。
俺は扉の前に立ち、直紀をじっと見つめた。
「駿、どいてくれ。白柳が」
「行かせない」
直紀は俺が何を言ったか分からないみたいに、眉を寄せる。
「どうしてだよ」
どうして、と聞かれても、本当にただ行かせたくないだけなのだ。
彼女のもとへ行って、直紀まであの女の個人的なことに巻き込まれるなんて、そんなことは許さない。もしも彼女が中で息絶えていたとして、直紀が同じ場所で命を絶つなんて、絶対に許されない。
答えない俺を押しのけようとする直紀の肩をつかみ、持っていた布を彼の口に当てる。
直紀は、はっと息をのんだと思うと、俺の胸に崩れ落ちた。布に染み込ませてあった薬品のおかげで。
「駿……何を」
意識を失っていく直紀に、語りかける。
どうだ、直紀。もう、俺のことだけしか見えないだろう?
図書室から少しでも離れさせようと、意識のない直紀を引きずって、とりあえず階段まで運ぶ。彼を壁に持たれかけさせて、その場にしゃがみこむ。
夕日が反射して、包丁の刃が一瞬だけオレンジ色に染まっていくのを、じっと見つめてから、直紀へと視線を移す。
心の底から笑えると思った。でも、笑えなかった。あふれてくるのは冷たい焦燥ばかりで、何も見えない。目の前で眠る直紀の顔も、震える自分の手も。何もかも、見えなくなった。
独占欲なんて、俺にはないかと思っていた。だって、あのみなのことでさえ、自分のものにしたいなんて、一度も思ったことがなかったのだから。
でも、直紀は違った。直紀はきれいだった。どこもかしこも。俺やみなの心でさえ、溶かしてしまうくらいに。
彼とみなのどちらかが、こちらを向いてくれていれば、何かが変わっていたのだろうか。決して現実にはならない俺自身の願望が、悔しくて、悲しくて、たまらない。
みなと直紀。俺の大切な人たち。二人のためなら、なんだってできた。それで周りのやつらがどれだけ傷つこうと、構わなかった。それくらい、二人のことが好きだった。大事だった。
――そのはずだった。
大切な人を守るどころか、傷つけて、自分のものにするために、様々なものを奪って。
直紀、俺のことしか見るな。どうか、俺のことだけを。直紀、直紀、直紀。
「好きだよ、直紀」
そう言って、動かない直紀の手の甲に口付ける。
そして、自分の喉元に、包丁を押し付けた。
今なら分かる。俺は、直紀のことも、みなのことも、本当の意味で愛せてなんていなかった。でも、彼らに心動かされたことは。好きになりたい、愛したいと思ったことは、本当だった。真実だった。間違いなく。
手に力を込める前に、宙を見つめる。あいつが今そこにいるようで、囁くように、
「ごめんな、みな」
みなだけがいいって、言ったのに。どんなことがあっても、協力すると決めたのに。
俺の色のないこの世界に、彩りをくれたのは、間違いなく、みなだった。世界には、みなと俺の二人だけだった。
直紀と出会って、もっと楽しくなって、このままの日々が続けばいいと思っていた。でも、無理だった。直紀には、別の世界があった。俺とみなだけで征服できるような、そんなやつじゃなかったんだ。
俺とみなの世界は、いつだって、暗闇で覆われていた。明るい世界にいる直紀とは、生きる場所まで違っていたのだ。
窓から赤い夕日が差し込む階段で、ぐっと包丁を握りしめる。そうして、刃を喉に押し込んだ。
大丈夫、と語りかける。何が大丈夫なのか分からないけれど、大丈夫だ。
俺のいない世界で。目が覚めた時、俺が死んでいる世界で。お前は、生きていけばいい。
もう、直紀の彼女はいなくなった。もし生きていたとしても、きっと直紀には近づかないだろう。あとに残るのは、直紀とみなだけ。
それで二人が上手くいけば俺は嬉しいけれど、そうならなくても、俺はもうここにはいないのだ。後は、みながこの好機をものにしようと、必死でもがけばいい。
その時、俺はようやく気がついた。
俺がやってきたことは、みなのためでもなんでもない。全部、自分だけのためだった。
漏れ出た嘲笑は、突き刺すような痛みと、幸福感で、消えた。俺はきっと、こうするためにこの世に生まれてきたんだ。そう、深く思った。
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