「神の意思」

 フェルエルがシマに流れ着いたのがいつのことであったのかを知る者は多くない。

 齢二十歳そこらの彼女ではあるが、これで村の中ではの部類だったりする。物心などつくより前にはシマにいて、だからなのか、シマの外がどうなっているのかなど知ったことではなかったし、さほど興味もありはしなかった。重要なのはいかにしてこのシマの中で、シマのルールと共存していくか。シマモノという脅威から、戦えない人たちを守っていくのか。それだけだった。それだけが全てだった。


 時折流れ着く見慣れない衣装の者や、見たこともない船や道具に、物珍しさを感じないわけではない。しかし、そういうのをもっとたくさん見てみたいとか、そういう願望は特になく。

 だって、どうせ出られぬシマなのだから。

 今ここにあるもの、ここにある世界に満足し、その中で精一杯、幸せに暮らせばよいではないか。そういう思想が、彼女の心の中には常にあったのだった。


 だから死ぬ時は、シマの中だと思っていた。

 こんな、シマから遠く離れた沖合で海の藻屑になるという最期など、微塵も考えたことはなかった。


 プラチナ級という規格外の怪物を追い詰めていたのは、同じく規格外の、

 シマ近海の海底、水深数百メートルの深海。辺り一面に広がる広大な砂浜に、海産物のシマモノは群生している。大多数を占めるのは蟹のような甲殻類型、その数は、

 ……そう、そこには確かに砂浜が広がっているのだが。

 実際に潜って見れば、恐らく砂など、ひと粒たりとも見えはしまい……。

 もはや、砂の代わりにシマモノが堆積していると表現しても過言ではないのだ。

 無数の呪殻によって真っ黒に染め上げられたその地は、まさしく深淵。さながら、地獄の入口の様相を呈す。


 地上のシマモノは人間が倒すから、シマモノが際限なく生まれるものであろうとも、数が増え過ぎるということはあまりない。せいぜい知らない間に生き延びたシマモノの群れが、突然村に集団でやってくることがある程度だ。村では年に数回あるかどうかのイベントである。

 しかし海底はその逆、何百年、何千年、誰も倒さないからただただ増える一方だった。

 シマが今の形になってから幾星霜。人知れず増え続けた海産物シマモノの勢力は、万が一にも一斉に地上への侵攻を開始しようものならば、

 ……そう、この星に、たとえまだ見ぬ英雄が、仮にフェルエルやウロノスを上回るほどの超人たちが、何人、何百人、何千人、未だ表舞台に立つことなく人知れず暮らしているのだとしても…………シマが目覚め、その呪いの全てが放たれたのならば、全てが無意味になってしまう。彼らがいくら海産物を倒したところで到底追いつくことなどなく、星は核まで食い破られて、やがて死に至るのだ。

 英雄たちは最後まで戦い、一つ一つの戦いには勝利し続けるだろう。しかし……星が死ぬのだから、その戦いにはもはや、何の意味もない……。

 誰もが必死に戦い。

 決死の抵抗を続け。

 そして夜が明ける頃には、誰も生き残れはしない。

 それこそが、このシマが百年単位で先送りにし続けてきた絶対の未来なのだ。


 フェルエルが相手にしていたのは、シマの抱えたそんな途方もない戦力のうち、ほんの一端である。

 何かが原因で綻んでしまった結界の隙間から溢れ出した、ごくごく一部である。

 とはいえ隙間が閉じない限り、海産物は湧き続ける。それこそ全てを駆逐するまで、終わることはない。

 ここまで彼女は百体近くの海産物を撃破したが、要した時間は10分強。一体につきおよそ7〜8秒といったところだ。

 ならば彼女が百億の軍勢を相手取るのに必要な時間は?

 少なく見積もっても700億秒……およそ、2000年。それは人類史が一巡するのに十分な時間。

 つまり彼女は、絶対に勝てない。

 いくら強くてもたった一人の人間に、惑星規模の猛攻を寿命が尽きる前に終わらせることなど、不可能に決まっているのだから。



(正直、侮っていた…………)



 水の中でもみくちゃにされながら、フェルエルは思う。

 終わらない。

 終わりが見えない。

 一瞬でも水中に身を沈めれば、広がる景色は闇。無限に湧いてくる海産物に視界のほとんどを埋め尽くされ、もはや何も視えはしない。



(森林区に戻るどころの話じゃない……、流石にこのままでは…………)



 ――負ける。

 いや、死ぬ。

 体力切れか。餓死か。

 或いは水中に引きずり込まれ物量で押し潰されたなら、溺れ死ぬことだってあるかも知れない。

 どうせ死ぬのならできれば死体は残したいところだが。せめて自分が既に死んでいるということくらいは、重要な情報として残したいところではあるのだが。この物量を掻い潜って自分自身の肉体をシマへ運び出す方法は、今のところ思いつかない。

 仮にそんな素敵な魔法があるとして、それはきっとこの大群もシマまでご案内することになるだろう。

 それはそれで、敵に破滅の引き金を差し出すにも等しい自殺行為である。



「……参ったな。お手上げだ。こんなにどうしようもないのは生まれて初めてだ。――」



 悲観というよりは諦観――半ば無意識のうちに、フェルエルはぽつりと愚痴を零した。

 ……次の瞬間。




「おおおおお待たせしましたぁぁぁぁぁぁあぁぁぁあああああ!!!!!!!」




 力の入り切らない間延びした声と。

 国家魔術師団の多重詠唱つき大規模破壊魔法でも炸裂したかのような音と光と衝撃が、全てを包み込んだのだった。











 いったい誰が何をどうしたらこうなるのだろうか。

 フェルエルの眼下にあったはずの膨大な海水の全ては次の瞬間、跡形もなく弾け飛んでいた。

 遥か下方には滅多にお目にかかれない海底の輪郭がハッキリと見え――

 空中に取り残されていたフェルエルはごく短い時間の浮遊体験の後、細腕に抱き留められて海底への落下を免れる。


「…………ッ……!?」

「ひぃっ、ひぃぃ、ふぇぇぇぇええっ……!!」


 ……そしてすぐに泣き出す、細腕の主――呪神、メロウ。


「ずびばぜんずびばぜんっっ、この罰は後でいくらでもなんなりとっ、この愚鈍な生魚を煮るなり焼くなりどうぞお好きにぃぃぃいいッ! ぐすっ、ひっぐ……!」

「いや、何? 何が?????」


 メロウは控えめに見ても子供ではなく、実年齢はともかく外見は成人女性に近い。

 それがぼろぼろと大粒の涙をこぼし、子供めいて泣きじゃくる姿には流石のフェルエルも困惑の顔を浮かべてしまう。


 ――何で泣いてるんだこいつ。

 おまえがのは今に始まったことではないというのに。


「――さっき自分で言ってたじゃない。その通りよ。ちゃんと視てたわ。ずっと視てたわ。おまえの頑張りを、ずぅっとね」

「! ウグメ……!」

「おまえが化け物みたいに強かったから、一旦海産物の相手はぜーんぶ任せて、メロウは結界の歪みを修復していたってわけ。順序は逆でも良かったはずなのにね」

「ふぎゅぅっ……! だ、だって、だってフェルエルちゃんがすごい強かったからぁっ……!」

「そのおかげで修復は早めに済んだのだから、お手柄よ、フェルエル。本当によくやったわ? くすくす」

「……その話を聞く限り、ウグメおまえはただただ本当に視ていただけに聞こえるんだが」

「? そうだけど? 私は視てるだけ。だってこれはの出来事だし。おまえがいくら泣き言を口にしようと、別に手伝うつもりはなかったわ。だから感謝なさい、メロウにおまえを助ける気がなければ、おまえはここで死んでいたのだから」

「…………」


 それは、一目で分かる偽悪だったのかも知れない。

 メロウが失態を犯すのはいつものことだが、だからと言って彼女一人が悪役になってしまうのは、ウグメの良しとするところではないのだろう。自ら責の一部を背負い、メロウの評価を上げようとしているのが、若干ながら透けて視えた。

 もっともウグメがそんな風に悪びれずとも、元よりメロウを悪者にするつもりはフェルエルにはない。呪神の絡む出来事はニンゲンの領分を遥かに超える。そんな彼女らにヒトの世界の業を背負わせるなど、良し悪し以前に意味がないのだから。


 しかし――それはさておくとして。

 改めて下に目を向けると、周囲から戻ってきた海水が勢いよく一点でぶつかり、大爆発を起こしていた。


(これが、呪神メロウの……)


 シマの脱出を試みた者の中には、ウグメではなくメロウと戦った者もいる。

 その記録によれば、彼女の特筆すべき能力は人智を超越したであるとのこと。 

 ウグメ曰く。メロウがその気になれば、この惑星を含めた星系が丸ごと一つ、容易く宇宙の塵に還るという。


 呪神の中でもとりわけ性根が甘ったるくて、決して争いを望まない性分である彼女に、なぜそのような破滅のスイッチが与えられたのか。

 少なくとも呪神になる前は、そんな力は持っていなかったそうだ。

 その原因を知る者はあまりにも少なく。

 その理由を理解している者は、さらに少ない。



「さ、さて……とりあえず目先の問題は解決したので……」



 メロウはフェルエルを、。魔素で足元を固められているような感触はなく、ただ海水が弾力をもって座らせてくれているような感覚だった。

 何の魔法だろうか。よくウグメが宙に浮いていたりするが、その系統の何かだろうか。

 最近知り合った魔女が、この世界はたまに原理不明の幻想のような魔法が見つかるから面白いと言っていたけれど、たぶんこれも、その一つであろう。


「それじゃその、このまま海の上を歩いてシマまで戻れますので! あとはが、頑張って下さい! 応援してますので!!!」

「…………また例の結界とやらに穴が開いたのか」

「ぎくぅっ……!」


 フェルエルの質問に、メロウの肩が激しく揺れる。


「で、で、ででででもでもでもっ、応急処置はしましたので! 海底のシマモノについてはご安心下さい、なので!!」

「応急処置…………」


 確かに、海水が弾け飛んで以降、海産物は一匹たりとも上がってこない。

 そこそこ本気で絶望していたので、だいぶ安心である。

 フェルエルは立ち上がり、少し歩き回ってみた。

 だなんて、変なことを言っていたが。

 ……確かにどこを歩いても沈まない。海面全体がまるで柔らかく丈夫なゴム膜でコーティングされているかのようだ。


 まさか。……


「そのというのは、まさかこの、ぶよぶよした海面のことを言っているのか? ……まさか、シマの近海が今、全部なっているとでも……?」

「…………えへ……」


 冷や汗混じりに問い掛けると、メロウは今にも死にそうな――というかこれから誰かに殺されそうな、儚い笑顔を返してくれた。

 案外、彼女は呪神として本当にやってはならない失敗を、やってしまったのかも知れない。

 その罰によって今夜辺りにはもう、彼女という存在がこの宇宙から消し去られてしまうのかも……。

 だとしたら、ただで死なせてしまうのは勿体ない気がする。せめて何か有益な情報の一つでも、置き土産に残していってもらえないものだろうか。


「……なぁメロウ。どうせ助からないなら思い切って真実を全部、ここでぶち撒けてみないか?」

「やめてフェルエル。メロウを誘惑しないで。その子、本当にすぐコロッと騙されちゃう可哀想な子なんだから」

「うひゃあっ!? ぐぐぐぐぐ、グメちゃんっっっっ!!!」

「悪いけど話はこれでお終い。さっさとシマまで帰りなさい。私はこの可哀想な子に、これからちょっと大事なお話をしなくちゃいけないの」

「いいいいやあぁぁぁぁぁぁああああああっ、たっ、助けてフェルエルっ、今こそ眠れる真の力とか何かそんな感じのやつに目覚めて私を守ってぇぇぇぇぇぇええええええええっっ!!」


「生憎そんな都合のいい力は私の中には眠っていないし、仮に眠っていたとしてもおまえは囚われのヒロインのポジションには永遠になれないんだよ」 


「た、たすけてあげたのにぃっ!! ひどいフェルエル! この恩知らずー!! 返せその命っ!」

「随分と上機嫌ねメロウ。あぁ、いえ、メロたん?」

「わぁ、グメちゃんがやっと私のことをメロたんって呼んでく……待ってなんで? どうしてわざわざ言い直したの!? もしかしてこれが今生の別れだから!? 最期くらい私の願いを叶えてくれたってこと?!?!」

「黙れ気持ち悪い。さっさと来なさい呪神メロウ。生きて帰れると思うなよ」

「やだぁぁぁぁぁぁあああああああっ!! ひぃぃぃぃいいいいっ、たすけ、やだ、やめてっ、あぁぁぁぁぁああああ!!!! わぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああ――――」



 そして時空の裂け目に吸い込まれ、メロウ消滅。

 続いて特に別れの挨拶もなく、その後を追ってウグメも消えて。

 メロウの力で固められた海面には、波の立つ音さえ聞こえない。

 静寂の中に取り残されたフェルエルは独り、大きなため息をつく。


 分からない。

 呪神が何を思い、何を考えているのか。

 それを彼女らに訊ねれば、どうせ「ニンゲンがそれを理解する必要もない」などと素っ気無く返されることだろう。

 思想は隔絶され、相互理解の余地を彼女らは決して与えてはくれない。


 敵ではない――のだろうけれど。

 味方と呼ぶにはあまりにも、その価値観は遠く離れている。

 彼女らを理解することは、やはり不可能なのだろうか。

 分かり合うためには言葉を交わし、気持ちを伝え合うことが大切なはずなのに。

 彼女らはそれをしない。してくれない。


 ……ヒトが。

 ヒトが、もし。

 どうしても……言葉や文字に頼らなければ、物事を読み解けないのならば。

 声なき声は。

 言葉なき叫びは。

 その怒りは。

 その嘆きは。

 果たしていつの日か。

 誰かの耳に届く時が訪れるというのだろうか。



(理解できるものならばしてやりたい、けれど)



 その距離やみはあまりにも深く、遠く。

 光なき世界の向こうに潜む真実は未だに、その輪郭さえ掴ませない……。






「っていうか、まだ海中にいるじゃん海産物!! うじゃうじゃいるけど大丈夫なのかコレ? 出てこないよな……?」




 *



 キリムがニンゲンになりたいなどと言い出したのは単なる偶然だ。

 しかし今となってはその偶然の奇跡に、ミリエは感謝する。


『……つまり不死鳥っていうのは、一種の病気みたいなもの、と言ってもいいのかも知れないのだわ』


『ほぅ……?』


『このシマ風にいうなら、呪い、かしら。この地に纏わる、神々を呪ったモノの正体……とは、根源は異なるのでしょうけど――とりあえず。不死鳥になるっていうのは、この星の深層に潜んだ呪いに囚われること。おとぎ話の中には、星は、だなんて表現も出てきたりするけれど、案外それも的外れではないのかも。例えば星の中心で眠りに就いた神の力が漏れ出して、たまたま波長の合った生物は不死鳥へと変化する。ゼンカの悪魔憑きも、案外大元は同じルールの現象と解釈できるのだわ』



 それが、キリム本人の積極的な協力もあり、不死鳥の体を魔術的に隅々まで調べ上げることで辿り着いた、魔女としての結論だった。

 不死鳥や悪魔憑きに存在した、通常の生物には(少なくとも先天的には)観測されないはずの、

 近いところでいえば伝説の鏡の魔法エンシェントミラーを使った後に残される烙印のようなモノが、同様にして不死鳥たるキリムの器にも存在することが、魔力解析によって明らかとなったのだ。

 それは概ね、全世界の学者たちが椅子から転げ落ちる程の重大な発見なのだが……生憎このシマの中からそれを発表する機会や手段はなく。彼女の栄誉は、誰にも認められることはない。


『そう、この世界における肉体の変質、魂の変容は全て、ひょっとすると……だとするならば、それは――』





「――…………」


 ミリエが静かに、意を決する。キリムはそれを横顔から察した。

 敢えて訊くまでもなく、それは今まさに目の前で行われる神々の戦いを阻止することに違いない。

 生物として高い次元に存在するキリムもまた、あの呪神いびつ少年アーティの戦いがこの先、極めて危険な結末に結びつく可能性を感じ取っていた。


「あの二人を止めるのね。何か手はあるの?」

「……あんたを、ニンゲンに戻す魔法を、あいつに使う」

「完成してたの? 言ってくれたらよかったのに」

「してないわ」

「してないんだ」

「でも、恐らくあいつには効く。理由は分からないけどあいつは呪神の力を身にまとっているだけであって、まだ完全に呪神になっていない。あれなら未完成の魔法でも、十分な効果が与えられる。……問題は」

「…………」


 二人の視線の先。

 理を超越する神々の力がぶつかり合い、その激しさは収まる様子がない。


「どうやって? ……ね」

「ほぅ、そんなの簡単」

「どうせろくでもないことなのでしょうけれど、一応訊いておくのだわ」

「誰かさんが、命を投げ捨てればいい」






「――いい加減にしろ歪、さっさとオイラの中に帰って来い!」

「くどいな! キミの半身だった歪はもう死んだ! 二度と帰ることはない! 大人しく神の裁きを受けるがいいッ、これは全人類にとっての救済なんだッ!!」

「裁きが救済なわけないだろ。そんなことしたって誰も救われないぞ? 故郷のお母さんも草葉の陰で泣いてるぞ!」

「勝手に殺すな!? っていうか母なんていないッ! いるのは神さッ、唯一絶対のねッ! 神の声に従えば、全人類が救われる!! きっとッ! なんだよッ!!」

「話のわからんやつだなぁ……本気で神とやらの手先になっちまったのか? そんな変な黒い角まで生やして、カッコいいって本当に思ってるのかよ!? オイラはおまえをそんな子に育てた覚えはないぞ!!」

「ズレた論点を力説するのやめてもらえるかなぁ!? この黒き角は証だよッ! ボクが神に至ったことの証明なんだっ! だからボクには裁きを行使する権利と、資格と、義務がある!! 悪いのはキミたちの方だぜ! 蛇に唆されて知恵の実を囓らなければ! 永遠にずっと、幸せに暮らすことが出来たのに――――」


 ――本当に?

 本当に、そう?


 疑問を抱けば、脳の奥はズキズキと痛む。

 黒い角が、頭の奥まで根を伸ばしてくるみたいに。

 痛い。痛い。痛い。

 ぎりぎりと、ぎちぎちと。絶え間のない鈍い音が。

 万力で脳を締め付けられるかのような激痛が。

 ……いっそ、潰れてしまえばどれだけ楽なことだろう。

 けれど不思議なことにその痛みは、衝動に身を任せた途端、楽になる。

 神の裁きの執行に身を委ねている間、むしろそれは、極上の快楽へと変わってくれる。

 だから、それはきっと悪魔の囁きに違いなかった。

 ヒトであるならば耐えて、抗わねばならない苦痛だった。


 そんなこと分かってる。

 痛いくらいに分かってる。

 だってそう理解すればするほどに、頭は強く締め付けられるのだ。

 ぎりぎりと、ぎちぎちと。

 痛い。痛い。

 痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い――!

 まるで思考を巡らせることが罪であるかのように、首から上を捩じ切られるかのような激痛が絶え間なく頭蓋を苛む。

 後頭部にへばりついた何かが、頭皮を破って内側で蠢いているような気色悪さも相俟って、首から上を切り落としたい衝動に駆られ続ける。

 この首を引き裂けば解放されると誰かが教えてくれたなら、きっと躊躇わずそうしただろう。上から入り込んでくるナニカに体を奪われる前に――頭を切り落とさなきゃ……そう思うなら一刻も早く、早く、早く――。


 ぎり、ぎり、ぎち、ぎちぎち…………。


 嗚呼、駄目だ。

 抵抗を考えることさえも、痛みに変わる。

 考える自由さえも、奪われる。


 ……そうか、理解わかった。この頭の痛みの正体が。

 僕は、駒なのだ。

 この盤上に並べられ、神の意志を体現するためのゲームの、駒。

 駒の役目は、その主の巨大な指で頭をつまみ上げられて、無理矢理、望まぬ場所へ放り込まれることだから。この痛みはきっと、今まさに、そういうことに違いない。

 抵抗など、まるで無意味なのだ。だって、駒なのだから。駒が何を思い、何を訴えようとも、その指先を通して主に伝わることなど有り得ない。


 痛いのは、嫌だ。

 苦しいのはもうたくさんだ。


 だから次第に、そう思うようになる。


 楽になりたい。終わりにして欲しい。

 どうか早く、終わらせて。


 そしてやがて、そればかりを願うようになる。


 殺して下さい。殺して下さい。

 私をこのゲーム盤から取り除き、早く楽にして下さい。

 早く。早く。殺して。殺して。終わらせて。


 ――


 おまえを殺せば、ゲームは終わる。

 私はこの痛みから解放される。


 解放されたい。

 早く解放されたい。

 解放されたい。早く。

 解放されたい。早く早く早く――


 いつしか、意識は黒く染まる。

 倒錯した願望が、歪んだ渇望に変わる。


 あなたのことが大切だった。

 大切なあなたを傷つけたくなかったから。

 だから私は、ここからいなくならなくちゃいけなかったのに。

 あなたがそれを、許してくれなかった。

 私はここで幸せになんて、絶対になれないのに――

 どうして?

 どうして?

 なぜ私を苦しめるの?

 私はもう、眠っていたい。

 一生、永遠に、ここではない何処かで眠りに就いていたいのに――


 あなたの笑顔を、守るためだったのに。

 どうして、分かってくれないの。

 分かってよ。

 アーティ、キミは――



、最初から馬鹿な真似なんかするなよ。何度でも言うぞ。、歪!」


「還るのはおまえだ……! この世で最も罪深き者、命の冒涜者、偽りの魂、仮初の器、ッ! 海の藻屑となって、星へ還れ! 古代兵器アーティファクト0221810号ッ!!」



 ――帰りたいよ。

 帰りたい。

 帰りたかった。

 でも、今更どんな顔して帰ればいい?

 あなたはきっと、私を許すわ。

 笑って私を許してくれる。

 幾重にも繰り返したこの地獄で、あなたが何度でも紡いでくれた。

 その言葉を信じたい。


 ……でも、いくらあなたが私を許しても。

 、赦せない。

 絶対に。絶対に。絶対に。絶対に。

 背負った罪が、血塗られた両の手が、未来永劫、私を赦すことはない。

 だから二度と帰れない。

 あなたの存在しないこの世界に対し、あらゆるを権利を持つ私には。


 あなたの世界へ帰るという、……

 たったそれだけの、

 ……その資格だけが、ないのだ……。






 歪はきっと、に憑かれていると、アーティは思った。

 アーティは強いから、物事をいちいち難しくは考えない。歪にどんな罪があり、この件について誰が悪くても、関係ない。必要なのは歪がそこにいることだ。最近は、ユハビィもいていいと思うようになって、少しだけ世界が広がった。昔、アトリィが言っていたことの意味が、ちょっとだけ分かったような気がして、悪くない気分だった。

 大事なものが増えるというのは――悪くないことだった。


 このシマには、何か得体の知れないモノが眠っている。魂の波長の合うものにその意思を重ね合わせ、声なき声を映し出そうとしてしまう。

 その正体は例の、百年に一度目覚めるあの不死鳥のことかも知れないし、それとはまた別の存在であるのかも知れないけれど、特に興味はない。誰であろうと、確かなことは少しだけ、その存在に対し腹が立っている自分がいる、ということだ。


 大事なものが増えるのは良いことじゃないか。

 なのに、それを裏返して傷つけ合わせようとする『意思』なんて、意味が分からない。

 大事に思うなら、大事にしたらいい。どうして傷つけ合う必要があるのか、まるで分からない。

 何より気に入らないのは、そうやってお気持ちを表明してくるくせに、肝心の本人が全く姿を見せてこないところだ。さながら帝都の広場に設置された匿名掲示板に、無責任なことを好き放題書き込んで日頃の鬱憤を晴らす不健全な人間のよう。そんなみみっちい神など、いてたまるか、である。


 まぁ、それはそれとして。

 とにかく歪は、魅入られてしまっているに違いない、とアーティは思った。


 黒い角は受容体だ。シマの奥底から発せられるナニカの意思を受信するアンテナのようなものだ。

 つまりそれを破壊すれば、元に戻せるかも知れない。

 歪に重なろうとする虚ろな影は、それで接続を断つことができるかも知れない。

 歪は、神の計画、と口にしたが。

 滑稽な話だ。

 こんなちっぽけな孤島の奥底に引きこもっている神など、まるで怖くない。

 そのくせ入り込んできた他の者を閉じ込めて出られないようにするなんて、寂しがりにも程がある。


 部屋の中にぬいぐるみを沢山集めて、まるで友達でも増やしたつもりでいるのか?

 集めたぬいぐるみをどう扱おうが、家主の勝手だとでも言うのだろうか?

 たとえ神の所業であろうとも、そんな横暴をアーティは認めない。

 少しだけ怒りに似た、強い感情を込めた青き神器の拳が、弾幕となって歪を襲う。


 全てを捌き切ることはできず、その中の一発が歪の頬を撃ち抜いた。

 敢えて言葉にするまでもない、確固たる決意の篭もった一撃に、歪の瞳が僅かに揺れる。


(――あぁ)


 呪いの痛みとは異なる鮮烈な一撃。瞬間、視界はクリアになる。

 真っ白な世界に、自分はたった一人。

 どこまでも続く無限の白。果てのない自由と、そして終わらない孤独の世界。足元には浅い水面が、真っ白な空をそのまま写し取り。だけどそこに写るはずのの顔は、ない。


(これでいい……これで、やっと)


 呪いの痛みが和らいでいくことで。

 必然、彼女は理解した。

 これが、だ。

 ここでアーティに負けて消え去ること。それこそが、与えられた役割なのだ。


 『いびつ』など、最初からこの世に存在しなかった。

 だって、そんなもの、アーティが生み出した妄想、幻想、架空のお友達だから。

 姿なき虚妄が、創世神器かみの力によって一時の自由を得ていたに過ぎない。


 そう、だから、アーティを殺せば結局は、彼女もまた消える運命だった。

 この戦いには最初から、歪が勝利する未来など用意されてはいなかったのだ。

 戦えば、必ず負ける。勝っても負けても彼女は消える。もはや戦い《ゲーム》にすらなっていない。まるでそういう儀式だった。

 でも。

 歪が負けて終わるなら、アーティは残る。

 だったら、どちらがより良い結末なのかなんて、問うまでもなく。


 ……ほら、だから。

 負けるように、誘導されていた。

 これが神の計画。完全なる誘導。選ばれれば、抗えはしな――





 意識が、現実に回帰する。

 トドメの一撃となるはずだったアーティの攻撃は、すんでのところで止まっていた。


 いつの間にか、空には暗雲が立ち込めて。ポツポツと大粒の雨が降り始める。

 そして雷鳴が低く、遠く――けれど次の瞬間、それは眼前に立つアーティの背後に落ち、群生する世界樹の一つを貫いた。


 それはさながら、叱責のように思えた。

 もう負けでいいです、なんて終わり方は許さないと。

 最期まで戦い、そしてアーティに殺されろと。

 大いなる意思が、声を荒げたように感じた。

 だから……再び頭が痛んだ。まだ終わっていない。


 【。】


 頭を掴まれて再び盤上へと戻される――ような感覚。

 抗うことの出来ない圧倒的な力により、歪は立ち上がり、身構えた。

 アーティの目は冷たく。言葉とは裏腹に、相変わらずの仏頂面を浮かべている。


「……千載一遇のチャンスを逃したねアーティ。今の瞬間にボクを殺さなかったことを後悔するといい」

「バカかおまえ。帰って来いって言ってるのに、殺すわけないだろが。まだ気が済まないって言うなら、とことん付き合ってやるよ」

「ははッ! 馬鹿はキミだろッ!! キミに殺る気がないのならこの勝負は、ボクの勝ちだぜッ!!」


 刹那、歪は高く飛び上がる。狙いはアーティではなく、上空から機を伺っていたミリエとキリムの二人――。


「げぇっ!! ちょっ、待っ!!」

「――させないッ」

「あははははは何が『させない』だッ、身の程を知れ害鳥がッ!!」


 割って入ったキリムの体ごと、黒き魔剣で貫く。

 馬鹿め、ざまあみろ。自身の魔法防御でこの魔剣を止めきれないならば、むしろ割って入ったキリムの行為はミリエの視界を塞ぐだけの利敵行為。愚かな不死鳥はその中途半端な優しさ故に全てを失い、失ってから後悔するのだ。

 二人分の手応えを感じ、歪は口角を上げた。

 上空で待機していた魔女ミリエが、ずっと何かを狙っていたのは気付いていた。直接戦闘で負けることはまずないが、しかし彼女の魔法にだけは警戒しなければならないと黒い角が囁いていた。

 アレは魔女だ。ニンゲンの領域を超えた魔術の使い手だ。一瞬の油断が命取りになりかねない。

 気付かぬふりをし、機を伺っていたのはこちらの方。アーティだけに意識を向けているように見せかけて、殺せる距離に入る瞬間を待っていたのだ。それが叶い、歪は再びアーティに向き直った。――しかし。



「あははははははッ! キミがボクを殺さないから、犠牲は増えるんだ!! キミのせいで人が死ぬッ! このシマの全員が命を落とすッ!!」

「ちょっと何言ってるのかわかんねーな。おまえが殺したらそれはおまえのせいだろ。それに」



 歪の背後。



「――今、誰か死んだか?」


「え……っ?」



 赤き髪の魔女が、杖を振り上げている。

 離脱を試みても遅い。身を翻す暇すらなく、歪は魔法陣の結界に閉じ込められた。


「このシマに流れ着いてから、反省の多い日々だったのだわ」

「なッ!?」

「あたしの杖の動きを見終わってからでも先手を取ってくるやつとか、不死身だからって防御も何もしないで突っ込んでくるやつとか……色んな化け物と戦って、世界の広さを痛感させられた。だから」



 ……魔剣は確かに、魔女の心臓を貫いたのだ。

 だから衣服は裂けて真っ赤な血がべっとりと付着している。どう考えても即死だったはず。少なくとも歪にはその手応えが確かにあった。

 なのに彼女は生きていて、口からも血をこぼしながらそれでも尚――その魔術で歪を捉えていた。



「……まさか……」



杖を振るタイミングよびどうさは頑張って矯正したし……も、随分と頑張ったのだわ。本当に。どれだけ痛くて死にそうな状況でも……あたしが杖を振ったなら、魔法は絶対に直撃しているようにね……!」


「ほぅ……そもそも杖、振らなきゃいいんじゃないの?」


「何を言ってんの……ッ」




 ――不死鳥、フルコキリムは。




「まさか、嘘だ、有り得ないッ、心臓を貫かれたまま、魔力回路スクリプトを組み上げるなんて……!?」




「魔女が杖を振らなきゃ、誰が振るのよッ!!」




 他者にその不死性を付与する権能を、持つ。











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