第9話 戻って来た旦那様

 そんな経緯だったのなら、その叔父とやらはさぞかし大慌てで探しているだろう。大丈夫なのだろうかと眉をしかめていると――もっとも、真っ白い雲にしか見えていないらしいので、その辺の細かい表情は伝わっていないと思うが――フリィは「大丈夫、と思います」と言った。


「ここから少し離れた川に、靴を置いて来ました。それから手紙も。恐らくは、私が川に飛び込んだと思っているはずです」


 言われてみればあの時、フリィは靴を履いていなかった。一体どれだけの距離をその状態で移動してきたのか、小さな足は傷だらけだったものだ。


「叔父には申し訳ないことをしたと思っております。だけど」


 どうしてもあの家には戻りたくなかったのです、とカタカタと震え出す。


 昔のおれなら、それをただ黙って見ていただろう。 

 だけどいまは、そこに手を伸ばせるようになった。

 恐る恐るでも、彼女の手を取れるようになったのだ。

 

 辛うじてそこだけはつぎはぎのない、恐らくは、おれの身体の中でいちばんきれいな部位であろうその手を、それでも同年代の男性のそれとは比べ物にならないほど荒れ、節くれだっているその手を、フリィは必ず握り返してくれるのである。


 けれどその日は違った。

 フリィは伸ばしたおれの手を、ぐい、と引いてきたのだ。一瞬バランスを崩しかけたが、所詮はか弱い女の力である。逆に彼女の身体の方がふらつく結果となり、おれに倒れ込んできた。それを思わず抱きとめる。


「オイ、どうか私とずっと一緒にいてくださいね。出て行けなんて、言わないでください」

「おれからは言うつもりはなかったが。もしフリィの方が出て行きたければ、とは」

「出て行きたいなんて思うことはありません。この先もずっと、ずっとここにいます。あなたといます」


 ずっとずっと、と何度もフリィは繰り返した。その度にわかったと言って、背中を擦ってやる。


 こんなところでいいのなら。

 おれみたいな化け物とでもいいのなら。


 頭に浮かぶのは自分を卑下する言葉ばかりだ。おれには、魅力的なものなんて、何ひとつない。心が豊かになるような、素敵なものなんて、何ひとつ。だけれども、フリィはここにいたいらしい。おれと一緒にいたいらしい。何を気に入ってそう言ってくれるのかはわからない。叔父の家にいた時のように裕福に暮らせるわけでもない。なのに。


 おれでいいんだろうか。

 そばにいるのが、こんな化け物おれでも。


 フリィがいいと言うのなら、少しでもそう思っていいのかもしれない。それくらいの幸せを感じても、いいのかもしれない。



 それからまた季節が一巡りしたが、何も起こらない日々のくり返しだった。小さなつぼみは美しい花となり、枯れて落ち、雪の下で眠る。天気のいい日は、それぞれ、一番いい服を着て庭で食事をした。フリィはもちろんあの服だ。黄色い服に、銀の髪飾り。いつだったかアルマに買ってやった絵本に出てくるお姫様のようだと、二人は決まってそう言う。


 おれは、そんな絵本の中の知らないお姫様よりもフリィの方がずっとずっときれいだと思っているが、それを口に出せずにいる。あと少し、誰かが背中を強く叩いてくれたら、そんな言葉がうっかり出て来るようなところまで、本当に喉のところまで出かかっているのだが、ごくんと飲み込んでやめるのだ。


 おれのような化け物が、そんなことを言ってどうする。おれはただ、フリィの、この、見た目も心も美しい少女のそばにいることを許されているだけなのだ。それ以上を求めてはいけない。おれには、これくらいの幸せがちょうどいい。


 そんなささやかな幸せを噛みしめていたある日、彼は戻って来た。もう何年も見ていなかった、おれの旦那様だ。


 それは、おれがちょうど庭の花の手入れをしている時だった。開け閉めの度に嫌な音を立てる柵を自分でギィィと開けて。錆びついた打掛錠がひとつあるけれども、それは、隙間から手を入れれば簡単に開けられる。この屋敷に住んでいるものならば、誰だって知っている。当然、旦那様も。


 ニカとアルマは街へ買い出しに行っている。ニカは背も伸びて、たくましい少年になった。街では、若い女を狙った事件が度々起こっているらしいが、アルマのことは自分が守るのだと絵本に出てくる騎士様のようなことを言い、頼もしい。


 そしてフリィはというと、屋敷の奥の炊事場で夕食の準備をしていた。

 

 旦那様が、背中を少し丸め、長い前髪の隙間から、盗み見るように俺を見る。そうしてから、にんまりと笑った。


「ただいま。元気だった?」


 そうだ。

 旦那様はこんな声だった。

 ちょっと高めの声で、ちょっと早口なのだ。それで、おれが一回で聞き取れないと、呆れたような顔をして、ゆっくりゆっくりともう一度言い直してくれる。ここ最近はずっとフリィやニカやアルマとばかりしゃべっていたから、旦那様の早口がものすごく聞き取りづらい。


「旦那様、まさか戻って来るなんて」

「だって、ここは僕の屋敷だよ。戻って来るに決まってるだろう。しかし何だ。ずいぶんと感じが変わったじゃないか、オイ」

「はぁ、ええと、まぁ」


 三人のことを話さなければ、と思った。だけれども。


「あの旦那さ」

「君、最近変装もなしに街をうろついてるだろ? 僕の耳にも入ってきちゃってさ。そうなると無視出来ないんだよ。『製造者責任』っていうのもあるし」


 色々面倒なんだよ、と呟いて、ぽりぽりと頭をかく。


「旦那様……?」

「僕が化け物を飼ってるってバレたら、どうしてくれるんだ。ここから出るなとは言わないけど、もう少しうまくやってくれよ全く」

「あの、すみませ」

「まぁそれはいいんだ。今日は君にいい話を持って来てやったんだよ」

「いい……話ですか?」


 旦那様の話はいつだって一方的だ。おれの話なんて、まともに聞いてくれた試しがない。庭で珍しい花が咲いた時だって、返って来るのは、「どうでもいい」「後で聞く」「そんなことよりも」だった。


「街の外れに新しい研究所を作ったんだ。そっちに君も来い。あそこなら、食料の買い出しも楽だし、君の材料の調達もしやすいから」

「おれの材料?」

「そうだ。君はまだ不完全なんだ。何が足りないか、色々試してやっとわかった」

「足りないもの? 材料? それがあれば」

「それがあれば君は」


 旦那様は、そこで一度言葉を区切って、にんまりと笑った。長い前髪の隙間から、おれのことをじっと見つめて。


「君は普通の人間に戻れる」

「え」

「僕の親友の、クラウスに」


 クラウス。

 旦那様がおれにくださった名前だ。

 だけど、呼ばれたことはほんの数回だけ。

 どうやらその名前にふさわしいおれではなかったみたいだから。

 それでおれはずっと、君とか『オイ』って呼ばれてた。

 

 クラウス。

 それがおれの本当の名前だったんだろうか。

 旦那様がくださったのではなく、元々、おれのものだったのだろうか。

 その材料とやらが調達出来て、もしおれが人間に戻れたとしたら。『クラウス』に戻れたのだとしたら。


 フリィはどう思うのだろう。

 ニカは? アルマは?


 いまのおれと一緒にいてくれるあの三人は、いまのおれじゃなくなっても一緒にいてくれるだろうか。


 フリィのあの目に映るおれは、何になるのだろう。

 晴れた日の空に浮かぶ真っ白い雲のままだろうか。

 もし違ったら?

 そう考えると怖い。

 

 いまのままならきっと雲のままだ。

 おれはフリィにとって悪いものじゃない。悪いものになるつもりはない。


 だから、出来ることならいまのままの方が。


「旦那様、出来ればおれは」


 ここに残りたいです。


 そう言おうとした時、


「――オイ、お客様ですか?」


 話し声が聞こえたのだろう、フリィが庭へとやって来た。

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