食罪
約束通り、三日後、私は住宅街の雑居ビルへと向かっていた。
ふと、目の前に料理教室で見覚えのある人物が目の前を歩いている事に気がついた。二人いた男性のうち黒縁の眼鏡をかけた若い方だ。
通りを行き交う人は少なく、隣を歩きながら話すことはあまりにも目立ちすぎたので、後ろから「どちらへいかれるのですか」と知っていることをあえて偶然会ったかのように話をかけた。
こちらを振り返ることなく相手が誰かわかったように「おや、これは先日の。ただの散歩ですよ。少々、遠回りをしていますが」と歩みを止めることなく入り組んだ街中を迷うことなく、料理教室のある雑居ビルを目指している。
私もそれに倣い、しかし、一定の距離を保ちながら男の後ろをついていく。
辿り着いた目的の雑居ビルに男が入ったことを確認し、数分間人を待つ振りをした後、私も続いてビルに入る。狭いエレベーターホールは相変わらずシンと静まり返っている。
古いエレベーターに乗り、四階に着いたドアの向こうにはあの若い男が待っていた。
「どうも」
私は軽く挨拶をした。
「あまり表で話したくはなかったのだが、まあ、肩を叩かれなかっただけマシでした。それにしても、会話できるギリギリの距離を保ちながら後ろをついてくるなんて驚きました。なにか特殊なお仕事でもされているのですか」
以前、政府軍に居たことを黙っておいた。どんなに人が良さそうに見えてもこの男は食罪を侵している。少なからず政府に対して、ジョン・スミスに対して反感を持っているかもしれない。それに私たちは過去を明かしあうほどお互いを信用できていない。
「いえ、今は食品部でゼリー食の加工を担当しています」
そうですか、と短く言った男は私に興味を失ったかのように廊下の奥にある料理教室を目指して歩き始めた。今度は表の通りほど、というか私たち以外の人通りは全くなく、政府に監視されている可能性もごく低いため、私は前を歩く男を速足で追いかける。
料理教室を行う部屋に入ると、この前もいた若い女性と老いた男性がすでに来ていた。
「どうも」
「どうも」
それぞれが軽い挨拶をしていると料理を教える達人がやってきて、この前の続きであるカレーの作り方を教えてくれた。今回は特別に、料理をしたことがない初心者の私にもわかり易くするための配慮なのか、食材を細かく切る際に老人は付きっきりで包丁の扱い方から教えてくれた。
ナイフとは似ているものの包丁は慣れが必要だった。何よりも驚いたのは本物の材料の硬さだ。ゼリー食とくらべて弾力性もそれほどない。
「後は牛肉を鍋で炒めて、そこに今切った食材を入れる。あとは水を加えて、数種類のスパイスでじっくり煮込めばカレーの完成だ」
出来上がったカレーを料理教室の生徒と分けて味わった。
気が付けば日も沈み、窓からは月が見えた。
他の生徒は先に教室を出て、各々帰路についた。そして、あとには私と料理を教えてくれた老人だけが残った。
「料理っていいものでしょう」
老人が言った。
「ええ、私は普段食品部で国民のために食品加工をしています。ゼリー食のことですよ。その私がこうして料理をしているなんてなんだか不思議な気分です」
ゼリー食は人間が必要なエネルギーを短時間で摂取することができるように設計された。ゼリー食を作るのは私たち食品部の仕事ではあるが、それも政府が発注しているからこそだ。
この国には絶対に侵してはならない法律がある。それは食罪だ。簡単にいうと、政府が用意するゼリー食以外の食品を口にすることは認められていない。つまり、我々が行った料理そのものが罪なのだ。
「これからもここへ来るといいよ。そうしたら、私はどんな料理でも教えよう」
老人の言葉を借りれば、ゼリー食は人を選ばないが、料理は人を選ぶのだという。苦手な食材や好む食材は人それぞれだ。それに対しゼリー食は誰にでも食べられっるように設計されている。
満面の笑みで老人は私に言った。
「その言葉の意味を分かっているのですか。あなたはこの国で最も重い罪の告白をしているようなものです。もっとホログラムテレビに映る偉大なるジョンを見てください。彼がこの国の食糧事情を変えた。今後、この国の食糧問題は解決したと言ってもいい。全てはジョンの功績だ。それから私は、前回ここへ来た帰り道、貴方を政府に通報しようとさえ考えていた。その申し入れはこんな私にはもったいない言葉だ」
纏まらない考えを思いついた順に話していったが、結局自分自身の心に浮かんできた言葉をただ訴えているだけになってしまった。
老人は顔色一つ変えずに私の話を聞き、自身の考えを口にする。
「今じゃこの国はいろいろなものが変わってしまった。ゼリー食のことだけじゃないぞ。私が若い頃は煙草も酒もどこでも手に入った。今は健康維持の観点から違法となってしまったから、食材と同じく個人の特殊なルートでしか手に入らなくなってしまった。まるで別世界に来てしまったみたいだよ」
私は変わらないものもあるということを伝えたいだけなんだ。料理をして何が悪い。料理は効率が悪いけど、それは個人に選択する権限があるはずだ、と老人は続けて主張した。
「確かにその通りです」
「これを君に」と言って老人は私に一枚のメモを渡した。それは小さく電話番号が書かれている古い紙切れだった。
「これは一体」
「食材を調達するために必要なものだ。その電話番号に連絡をすれば本物の食材が手に入る値段は決して安くはないが。まあ、手が出せないレベルではない」
「ありがとうございます。しかし、まだ個人で料理をできる様な技量では」
「料理はね、心が大事なんだ。どんな料理でも正しい心で作れば間違いなくおいしくできる」
今日はもう帰ります、と私は呟くと老人に背中を向けて、教室の出口に向かって歩き出す。
「私の考えをわかってくれたのなら、ここのことは通報しないでほしい。お願いだ」
老人が私の背中に言葉を投げる。
「もちろん、そのつもりです」
振り返らずそういうと、私は住宅街の雑居ビルを出てそのまま自宅へ帰った。
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