夜会チョコレイト
第18話 夜会へゆこう
チョコレイトの香りに包まれた洋間で、春子は奇妙な音に扉のほうを向いた。ぱたぱたぱった、とものすごい勢いで迫り来る音は、扉がひらく音で終わりを迎える。
「春子! 夜会へゆこう!」
ねずみ色の背広の子槻が、少年のごとく目を輝かせて、頬を上気させて、洋間に飛びこんできた。子槻の足元を見るとスリッパで、どうやらぱたぱたぱったといっていたのはこれのせいらしい。
「え、ええと、何ですか? やぶから棒に」
春子が机の上の置き時計を見ると、九時をすぎていた。時間を忘れて作業してしまうので、このりに頼んで時計を借りたのだ。子槻は日曜日以外、会社へ勤めに出ているので、帰ってきてここへ駆けこんだのだろう。
春子が天野家に世話になり始めてから、二週間がたった。
住みこむことが決まってから、子槻と共に家へ説明に帰り、女給をしている喫茶店にも話しに行った。老夫婦は驚いたものの事態を好意的に受け止めてくれ、たくさんのお土産まで持たせてくれた。喫茶店には今後働けなくなるかもしれないと謝り、ひとまず引き継ぎのため、日数を減らして通うことになった。
香水の店だけで安定したお金を得られるかは分からない。女給の仕事に愛着もあったので本当は続けたかったのだが、毎日行けるか分からないと迷惑になってしまう。だから諦めざるを得なかった。
けれど、女給の仕事より香水を作れる時間が長くなるというのも単純に嬉しかったのだ。子槻からは「好きなだけ香料を使っていい」と言われていて、恐れ多くてむだ遣いはできないが、これまで失敗するのがもったいなくてためらっていた高い香料の組み合わせが試せる。
ちなみに衣食住全額負担は申し訳ないので、わずかながらお金を入れさせてもらうことで合意した。子槻は「別によいのに」と不満げだったが、微々たる金額でもそこは譲れない。
子槻ははたと気付いたように、春子の隣へ歩んできた。
「チョコレイトの香りがするな」
「そうなんです! チョコレイトなんです。わたしも感激しています」
思わず座ったまま子槻へ身を乗り出してしまい、はしたないとすぐに頬が熱くなる。子槻へ、今しがた混ぜていた瓶を渡す。
子槻が準備してくれた香料は、今まで春子が存在していたことすら知らなかったものも入っていた。タバコ、オポポナックス、エストラゴン、カカオ、ビイワックス。その中からカカオとビイワックスを入れて、チョコレイトの香りを作ったのだ。ビイワックスとは蜂の巣から溶剤で抽出するらしい、と子槻が外国語の資料を読んで教えてくれた。
子槻は瓶をかいで、目を見開いて輝かせた。
「何とおいしそうな香りだ。春子、やはり夜会へ行こう」
つながりがよく分からないが、先ほどもそんなことを言っていたなと思い出す。
「なぜ突然。夜会、ですか?」
「友人の母君が主催する夜会が来週にあるのだ。先ほど帰りの俥で思いついたのだが、桜の香水を持って宣伝しに行こう。皆にアピイルする絶好の機会だ」
子槻はいきいきと春子を見下ろす。
実は店として使う予定の離れは誰も使っていなかったため痛みが激しく、今改修している真っ最中なのだ。そのためまだ店をひらけてもいないし、当然お客もいない。宣伝なら積極的におこなっていかなければならない、が。
「あの、夜会、とは西洋式の踊ったりする夜会、ですか?」
「そのとおりだ。食べたり飲んだり踊ったりする夜会だ。ご婦人方も集まるから、またとないチャンスだ」
子槻の言葉はたまに外国語が混ざるのでよく分からないのだが、前後から判断して、とてもよい機会だというのは分かった。けれど夜会など、新聞か噂でしか知らない。春子にとっては雲の上のような世界だ。
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