2.
涙人は東京行きの新幹線の車内にいた。
平日に乗る人も少ないようで、新神戸駅の券売機で窓際の席を簡単に指定できたし、車内も閑散としていた。
小さなテーブルを出し、売店で買ったグレープフルーツジュースを置く。
スマートフォンには羽花から下見のレポートが届いていた。
建築家、安藤忠雄が手がけ、二〇〇二年に開館した兵庫県立美術館は、建物自体が芸術的で鑑賞の対象となる美しさを持つ代わりに、入り組んだ通路が全体の把握を難解にしていた。展示品が撮影不可であるが故に、建物内部の写真も必然的に撮影不可となってしまう。一部の通路などは羽花も撮ってくれてはいるのだがそれだけでは全体の把握はやはり難しい。
レポートの最後には、何度も迷子になりそになったと記されていた。
リンク先に飛んで公式に掲載されているいくつかの写真や見取り図を見ても、確かに分かりにくい。闇夜に紛れて潜入することになる凱斗はきっと大変だろうなと思う。
その凱斗は、ミカと地下のリングで組手をしていると聞いている。
格闘技に疎い涙人は、組手と言われてもあまりピンと来なかったが、なんとなく一対一での模擬戦みたいなものを想像した。きっと大きく外れてはいないだろう。関節を決めて相手の動きを封じる技の練習を繰り返しているはずだ。
身体を鍛え、技を身につけ、最前線に立とうとしている凱斗に比べ、涙人は自分がお使いのような役割に甘んじていることに少し引け目を感じていた。それでも涙人は自分が誰かを攻撃したり傷つけたりすることを想像できないでいた。
『――涙人はずっとずっと前から妖魅なんでしょ! なんで戦おうとしないの!』
羽花の涙ながらの悲痛な訴えが、誇張を伴いながら頭の中でリフレインする。
でもその羽花の台詞は、何度繰り返されても涙人の中に上手く入ってこない。
涙人は生まれてこの方、誰かを殴ったことはない。悪口を言ったことさえない。事なかれ主義と言われればそれまでだが、できないものはできないとしか涙人には言いようがなかった。
泣き虫涙人、が子供の頃のあだ名だった。
髪の色や目の下の痣をイジっても揶揄しても一向に反撃しないので、いじめの格好の標的になっていた。
涙人の中でも泣いていた記憶ばかりだ。それでも今でも覚えているのは、いじめられて泣いたことよりも、セイタカアワダチソウが可哀想で泣いたことだ。
初めて買った植物図鑑を擦り切れるほど読み返していた小学校低学年の頃の話。
この図鑑で涙人は生まれて初めてアレロパシー作用と自家中毒のことを知った。セイタカアワダチソウはその根茎から出す化学物質で周りの草木の成長を抑制し繁殖する代償として、あまりに増えすぎると放出した化学物質の影響で自家中毒を起こして枯れてしまうのだという。それがあまりにも悲しくて泣いていた。
いま思い出しただけでも泣きそうになってしまう。涙人は恣意的に思考を切り替えるため、針谷から受け取ったメモを取り出した。
メモには飯倉片町という場所にあるマンションらしき住所が書かれている。ここに妖魅の女性がいるということなのだが、何故か針谷はそれ以上は言葉を濁して教えてくれなかった。
飯倉片町駅というのはないらしく、検索を繰り返した結果、涙人は六本木駅から歩くことにした。
新幹線を降り、そこから東京メトロに乗り換え日比谷線で六本木駅へと向かう。街の規模も行き交う人々の多さも神戸とは桁違いで、涙人はドギマギしながら目的地を目指した。
東京は初めてで右も左もわからない。Googleマップだけが頼りだった。新幹線で充電をしておいて本当に良かったと思う。
六本木駅を出て、左手に大きな公園を見ながら東向きに歩き続けること一〇分。住所に載っているマンションの前に涙人はたどり着いた。
オートロックになっているので、エントランス前で部屋番号の七〇一を押して呼び出す。
しばらく待つと「どうぞー」という可愛らしい女性の声と共に大きな自動ドアが静かに開いた。
エレベーターで上がり、七〇一は一番奥の部屋だった。廊下から東京の街並みがよく見える。六本木ヒルズもすぐそこだ。きっと家賃も高いに違いない。彼女は一体どんな妖魅なのだろうか。
緊張しながら玄関のインターホンを押す。
出てきたのは女性はベビードールに身を包んだなんとも官能的な、美女だった。
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