事故物件

江渡由太郎

事故物件 壱

 佐野幹博はやっと念願の一人暮らしができた。


 アルコール依存症の父親は幹博に暴力をふるい続けていた。人は辛い環境に慣れてしまうと“自分はなんて可愛そうなのだろう。こんなに可愛そうな俺をまだ責めるのか”と不幸という境遇に自己陶酔してしまう。


 または、本当に辛いならなんとかその現状から必死に逃げ出そうと人は行動に移す。


 前者は不幸なことに自己陶酔しそれが心地良いと自分でも気づかない。


 後者は佐野幹博のように必死にもがいて、家を飛び出すことにより自分自身を守る。


 そのどちらでもない人は悩み苦しみ誰にも相談できず、己の人生に幕引きをする。


 佐野幹博は家を飛び出し友人宅を転々としたり、年上の女性の家へ転がり込んだりしていた。就職先も決まり念願の一人暮らしとしてアパートの契約を済ませたのだ。

 家賃は相場の半額以下であり立地条件も悪くなかった。


 内装もリフォームされており、真新しい壁紙と床に新調されていた。幹博は家賃の安さに魅力を感じてこの物件を借りることにした。


 しかし、一週間程住んでみるとアパートの壁には黒い染みがあることに気がついた。


 確かに新しい壁紙で染みなど何処にもなかったはずだった。その染みは日に日に濃くそして大きくなっていく。


 さすがに何か壁の不具合や雨漏りが壁に伝っているのではと思い管理会社へ連絡した。


 事情を話すと直ぐに管理会社は業者を手配してくれて、壁紙の貼り替えをしてくれたのだ。その後も染みは現れ、その度に幹博は管理会社へ連絡した。


 その後、何度も壁紙を取り換えても、真新しい壁紙にもその黒い染みが何度でも浮き出てくるのだった。何故、黒い染みが出てくるのかは謎だった。黒カビだと思い、壁紙を交換したが数日後には黒い染みがはっきりと浮き出てしまうのだった。


 管理会社は何度も壁紙を貼り替えをすることに対して一度も疑問や不信を抱くことなく、親切な対応を繰り返してくれていた。


 そのため、いつしか幹博は壁の染みを諦めてそのままにすることにした。


 父親と母親は別居し、幹博は母親と一緒に暮らしていたのだが、母親はこのアパートに住むことになって数日後から、ここには帰って来なくなったのだった。


 母親は自分の姉を頼って出て行ってしまったのだ。


 伯母のアパートで母親は暮らしている。


 幹博は再び一人暮らしになったのだった。


 看護師の伯母の紹介で母親は看護助手として勤務することになり、その給与で幹博の食事代といった生活費を仕送りしてくれている。月に一度ほど、幹博に会いにアパートへ来てくれたが、ある日突然それができなくなったのだ。


「もう、ここには居られない!」

 母親はそう言って、それからというもの幹博のアパートには訪れなくなった。


 しかし、幹博とはファーストフード店や喫茶店などで、いままでどおり月一回ではあるが会いに来てくれた。


 幹博にとっては月一回でも母親に会えることが嬉しかった。


 それがたとえ、生活費を手渡しでくれるために会うということであってもだ。


 幹博の父親は一度も会いには来ないのだ。


 父親は本当のろくでなしであった。


 朝、目を覚ますと寝起きの一杯と言っては、水の代わりに焼酎を原液でコップになみなみと注いでそれを一気に飲み干す毎日であった。そうしないと、父親は手が痙攣を起こしたようにカタカタと震えだして、それを抑えることができないのである。


 お酒を飲んだ状態で、会社へ出勤していた。


 現場の仕事中にもかかわらず、お酒を飲みながら仕事をしているのではないかという不安が家族の中で芽生えていた。


「佐野さんはお酒臭いから、現場には出入り禁止にしたい。お酒を我慢できないのなら今後は取引をしない」


 それは現実のものとなり、取引先から苦情が入ったのだった。


 父親はそれに対して反省をするわけでもなかった。


「酒を飲まないと仕事にならないだろうが!」

 家族が諌めても、怒鳴り散らして父親は更に酒をあおるように飲み続けた。


 焼酎のアルコール度数二十五度の四リットルペットボトルは二日で飲み干していた。


 お酒を飲まない日という”休肝日”とうものはなく、一年間の三百六十五日毎日飲み続けていた。焼酎を水などで割ることなく原液で飲み、最低でも一日二リットル飲んでいた。己の脇に焼酎のペットボトルを置いて、飲んではつぐという一連の動作を永遠とくりかえすのであった。


 夏季などはその他にビールなども飲んだ。焼酎だけでは飽きるため、ウイスキーやワインも飲んでいた。父親はお酒だけで、お腹が一杯になるのか、食事をほとんど食べなかった。


 母親が食事の用意をしても、酒のつまみなるものだけを食べて、白米などの炭水化物を一切食べなかったのだった。


 父親は仕事から帰宅し、作業着を脱いだら直ぐにお酒を飲んでいた。会社を五時に退勤したら、夕方の六時には帰宅してお酒を飲み始め、夜十一時頃の寝る寸前までひたすら飲み続けていたのだ。


 休みの日は、朝から寝る寸前まで酒を飲みながら、ネットゲームをしていた。家族との会話もなく、ひたすらに自分の時間を楽しんでいた。


 そんな父親は当時十六歳の幹博に衝撃的なことを言った。


「誰の子か分からないけど、俺は認めてやったんだ! 偉いだろう!」

 酒にしたたか酔っ払った父親はさも自慢げに言った。


 その晩、父親はお酒を飲みながら、テレビのバラエティー番組を観ていた。


 番組の内容は、交際中の若い男女がいて、女性が男性に”妊娠した”ことを告げることにより、男性がどのような反応をするのかを取り上げる”ドッキリ番組”であった。


 幹博の父親はそれを見ながら、酒を飲み続けていたのだ。


 母親は夕方から倉庫のアルバイトへ出かけていた。


 食事の支度をして出かけた母親の食事も、父親は酒のつまみになるおかずにしか手をつけていなかった。食事の後の後片付けや洗い物も幹博がやっていた。その間も父親はお酒を飲んでテレビを観ているだけであった。


 いままで、自分は父親と母親が愛し合って生まれたと信じていただけに、先程の父親の言葉に衝撃を受けていた。


 自分自身を否定されたような発言だった。


 しかし、何となく以前から理解もしていた。


 父親には、生まれた時に一度だけしか抱いてもらえなかったこと、オシメも一回しか交換してもらっていないことは聞いていた。


 父親に公園などで遊んでもらった記憶もない。


 記憶にあるのは、母親が用事で出かけたときに家にじっとして居るのが嫌な父親は、幼い幹博をパチンコ店へ連れて行った。


 父親がギャンブルして遊んでいる間、幹博は店の外の建物の隙間で独りぼっちで座っていた。


 幹博が幼い頃は、父親は出張で月曜日から金曜日まで働いて、金曜日の夕方に帰宅していたが、玄関に洗濯物を置いて遊びに出かけて月曜日の早朝に帰宅し、着替えを持ってまた出張へ出かけていたため、父親の顔もほとんど見た記憶もなかった。


 そのため、たまに父親が帰って来たときがあった時に幹博は父親の顔が分からず、戸惑ったことが幼い頃にあった。


「どうしたの? パパでしょ?」

 戸惑っている幼い幹博に向かって、母親が言ったことも記憶に残っていた。


 それほど、父親との関係が希薄であったため、幹博はお酒に酔っ払って暴言をはいている父親のことをどこかで、距離を持って生活していたために何となく”父には望まれていない子”なのだと理解していたのだった。


#ホラー小説

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