母親

 母が寝たきりになってから五年が経つ。床ずれをしないように寝がえりをうたせ、体を拭いてやり、排泄物の処理をする。

「私にも娘がいるんだけどね、これができの悪い娘でね」

母は、私がその娘であることを認識していない。

「小さい頃から私がいないと何もできなくてね。それなのに私がこんなになっても顔一つ見せないのよ」

この五年間、私はこの話を何度聞かされただろう。

 母はすぐに感情的になる人だった。幼い頃、私が母の思う通りに動かないとすぐに殴られた。竹刀で背中を、布団叩きでお尻を、平手で頬を。どれも痣になるほどではなく、それでも痛みは体に蓄積されていった。そして毎日のように浴びせられる罵声。バカ。マヌケ。ノロマ。そして最後は「あんたなんか産まなきゃよかった」で締めくくる。父は母に子育てを全て任せているとか言って、私が何をされようがいつも見て見ぬふり。

 母の言う通り、私はできの悪い娘だったと思う。勉強が特別できるわけでもないし、他に何か得意なことがあるわけでもなかった。ことあるごとに勉強しろと言われるから、私は家にいる時間のほとんどを自室の机の前で過ごした。それでも勉強に身が入らない私は、机の脇にある窓の外を眺めては、ここから逃げ出したいと、いつも思っていた。

 私が家から逃げだせたのは大学を卒業して就職をした時。わざと家から離れたところを選んだ。きっと家から通えないという理由でもなければ、母は許してくれないだろうと思ったから。

「あんたなんかに一人暮らしなんてできるわけないじゃない!」

就職先が決まって、引っ越し先も決まって、全ての手続きを終わらせてから母に報告をすると、予想以上に母は激高して私を殴りつけた。

「何のために今まで苦労してあんたのことを育ててきたと思ってるの!?」

飲み物の入ったマグカップが私めがけて飛んでくる。よけた私の後ろの壁に当たり、中に入っていたコーヒーを飛び散らせながらマグカップが割れた。その時、 私は逃げなければと思った。逃げなければ、このマグカップのように私はこの人に壊されると。そう思った瞬間、私はカバンを持って玄関に走っていた。母が追いかけてきて私の手を掴んだけれど、それを振り払って家の外に出た。

 あの日から何年経っただろう。私は今、あの時の母と同じくらいの年齢になっている。

「親の面倒を見ようともしないで出て行ったのよ」

年老いた母が言う。体は動かないくせに、口だけは良く動く。

「お母さんの話を良く聞いてあげてください。ご家族の愛で、症状が改善されることもありますから」

医者がそう言っていたのを思い出す。

 私はこの人を愛さなければいけないのだろうか。これから先も、母親だからという理由だけで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

5分で読める1500文字のSS集 あゆみ @ayumito0914

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ