緩やかな坂道
大人になることを、階段を上るとたとえることがあるけれど、上り坂をゆっくりと歩くのに似ていると思う。それは坂道だと気付かないほど緩やかで、ふと振り返った時に気付くんだ。ああ、僕は坂道を上っていたのだと。
新しい生活が始まって2か月になる。家族のいない家にも慣れてきた。一人でいることは案外気楽なもので、それは寂しさより勝る。家の中に自分以外の気配がないというだけで、こんなにも違うものかと驚きすらある。
ベッドの上で目が覚めて、辺りを見回す。飲みかけのコーヒーが入ったマグカップ。テーブルに放置された食器。干しっぱなしの洗濯物。実家で暮らしていた時にはなかったものたち。母がこの部屋を見たらだらしないと言うだろう。だけどこれらのものたちに囲まれているのは、案外心地いい。
体を起こして食器を流しへ運ぶ。少し汗ばんだシャツを脱いで洗濯機にそのまま入れる。シャワーを浴びて裸のまま部屋に戻り、干してある洗濯物の中から適当な物を選んで着る。カーテンを開けると外はとても良い天気で、太陽の光が眩しい。一瞬目の前が白くなって目を細めていると、携帯の着信音がベッドの方から聞こえてきた。枕元に置いてあった携帯電話を探し出し画面を見ると、そこには母からの着信であることが表示されていた。
「もしもし」
今日初めて出した声は、自分自身でも驚くほど低かった。
「どうしたの?風邪でもひいた?」
それにすぐに気付く母はさすがだと思う。
「いや、寝起き」
「寝起きって、もうお昼よ?こんな時間まで寝てたの?」
「今日は休みだからゆっくりしてたんだよ。で、要件は?なに?」
「特に用事があったわけじゃないけど、一人で平気か心配になって電話してみたの」
「大丈夫、心配ないよ」
僕がこう言っても、母は心配するのだろうと思う。それが自分の役割だと思っているかのように。母が話す世間話を受け流しながら部屋をざっと片付ける。家にいて聞いていたら面倒だと思うような話題も、電話越しに聞くとそんなに不快に感じない。
「なにかあったらいつでも連絡しなさいね」
これは、母が電話を切る時の決まり文句。僕はそれに適当に返事をして母が電話を切るのを待つ。母との電話が終わると、僕はベッドに横になって天井を見上げた。
大人になるということは、背伸びすることとは違う。僕はまだまだ子供で、大人になんてなりきれない。だけど着実に進んでいる。ゆっくりと、ゆっくりと。急いで大人になりたい時もあった。先を歩いている人の背中に早く追いつきたくて。だけどそんなことを考えること自体が子供なのだと感じた。なにも急ぐことはない。着実に一歩ずつ歩みを進めていけばいい。時間は早くすることも遅くすることもできないのだから。そしていつかまた振り返った時に気付くのだと思う。あの頃の自分よりも少し高い位置にいる自分に。
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