うたと祖母
実家に帰るのは何年ぶりだろうか。
高校卒業と同時におばあちゃんの家に行ったから、十三年か。
十三年間。今まで一度も帰らなかった。
それは、母と会わなかった十三年間でもある。
バス、電車、バス、電車、と乗り継いで約二時間、最寄りの駅から川沿いを歩いていく。
平日の昼下がりは人通りも
母が死んだ。
今日の朝、台所で倒れていたそうだ。くも膜下出血で、救急車を呼んだ時にはすでに心肺停止だったらしい。
…………………………。
悲しいとは思えなかった。
もちろん、反対のうれしいとも思ってない。
喜怒哀楽のどれでもなく、強いていうなら――――無。
もう何も思わない。思う時期は、もう過ぎた。
「お帰り。うたちゃん」
義父が、そう言ってくれた。
「…ただいま」
「美和ちゃんは、いま買い物に行ってるんだ。…いろいろ、好きだったものをね」
「そう………」
「………会ってやってくれるかい?」
廊下の先にある和室のふすまを開けると畳の上に布団が敷かれており、そこに母は眠っていた。
枕元に座って、顔を見つめる。
母を諦めて以来、こんなに見たことはなかった。
(白髪………)
こんな顔してたっけ、とも思った。
「えっ、うたちゃんのお父さんって誰かわからないの?」
「そうなのよ。うちの娘の友達が勤めてた産院で産んだらしいんだけど…“行きずりの人”らしいわ。やっぱりねぇ、
「あんなに真面目な子だったのに。まあそりゃ結婚式の三日前に振られたら、自棄にもなるわよね」
小学校の、三年生か四年生のころだったか、親戚のお通夜でそう話しているのを聞いてしまった。
「妊娠したの、気づくの遅かったの?行きずりじゃあ望んでってことはなさそうだし、堕ろすの間に合わなかっ――――え?」
「しっ。あ、あら~、し、
立ちすくんでしまっていた私の横から、タバコを片手にひょいと前に出てきた黒い着物姿の志乃おばあちゃん。
「灰皿。あるかい?」
「あっあぁ、はいっ、どうぞ」
「ありがとねえ」
おばあちゃんは、灰皿を渡そうとした名の知らない親戚のおばさんが持ったままのそれに、火の付いたタバコを捻るように押し付けて消した。…おばさんの顔は引きつっている。
「さてと。うた、この辺は空気悪いね。ちょいと外へ行こうか。そうだ、アイス買いに行こう」
遠くで救急車のサイレンの音がしたが、すぐに聞こえなくなった。
誰もいない夜の公園はとても静かで、おばあちゃんとふたり、ベンチに座ってコンビニで買ってもらったカップに入ったイチゴのアイスを食べた。
食べながら、泣いてしまった。
だからか。
だから母は、私を愛してはくれなかったのか。
似顔絵を描こうが、百点取ろうが、お小遣いでカーネーションを買って渡そうが、「そう」「ありがとう」と、ただ、そう無感情に言われるだけだった。
そして――――いまこのとき。母に愛されるのを、諦めた。
「あら。久しぶりに食べたら、おいしいねぇ」
隣でおばあちゃんが、同じイチゴのアイスを食べている。お酒と
当時、母の実家であるおばあちゃんの家に三人で住んでいた。
なぜ自分には父がいないのか。聞けなかった。
母は朝早くから夜遅くまで働いていた。生活のために、というのもあるだろうけれど。…私と関わりたくなかったのかもしれない。私だけではなく、おばあちゃんとも。
おばあちゃんは元芸妓で、小料理屋をひとりで営んでいた。私は学校が終わると、そのままおばあちゃんの店に行って過ごし、仕事を終えた母が迎えにきて帰る、という毎日だった。
きちょうめんで神経質な母は、服を脱ぎ散らかしたまま、二日酔いで机に突っ伏しているおばあちゃんによく文句を言っていた。いつもおばあちゃんは聞き流していたけど。
「うた、いいこと教えてあげようか」
おばあちゃんは、ニヤリと笑った。
「嫌なこと言われたときの返し方だよ。困ったら、こう言いな」
「『で』」
「で?」
「そう。『で』のひと言。『それで』の『で』」
「?で?」
「『で』」
「で………。で?………………で」
「ぷっ」
おばあちゃんは大声で笑いだした。
「ふたりで『でーでー』言ってて、可笑しいねえ」
言われてみれば…と、気づいた私も可笑しくなった。
「それ『で』じゅうぶんなんだけど、もうひとつ」
おばあちゃんは、私を見つめて優しく言った。
「『それがどうした』」
それがどうした。
「て、言ってやんな。はったりでもいいから。それで
と言って空のカップを置き、おばあちゃんは頭をなでてくれた。
――――それから、一年後。
家と店を私に遺して、おばあちゃんは逝ってしまった。
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