第3話 はすはな

 顔を上げると、進行方向にバスの待合ポールを見つけた。

 折れ曲がった丸看板には停車場名が付けられている――『裏野うらの』。


「ここだ」


 辺りを探すと、めざす場所は砂利がしかれた脇道の先にあった。


 時代に忘れ去られたように朽ちた、赤いトタン屋根の二階建てアパート。

 柱に巻きつくつたは夏の暑さのせいで葉先が黄色く変色しているし、モルタルの壁に走る黒いヒビは洒落た看板の文字みたいに四方八方へ広がっている。


 蓮は、壁にボルトで留められたむき出しの階段をのぼった。


 カンカンと鳴る足音に合わせて、十字の滑り止めが打ち込まれた鉄板が揺れて、浮いた朱錆あかさびがはねる。

 鼻をつくのは、熱く蒸し上がった鉄とぬるい雨が混ざり合った香り。


 似たものを、どこかで嗅いだことがある。

 芳しい花園で身動きが取れなくなったときのように、甘やかなだるさを覚える、これは――。


(血の匂いだ)


 ひらめいたときには、目的の部屋に辿り着いていた。


「あった。202号室」


 インターフォンが付いていなかったので、蓮はこぶしでノックした。


 コンコン、コンコン、コンコン。

 計にして六回。それが『あちら』に届くルール。


 心を落ち着けて待っていると、ペットボトルの底みたいな形のドアノブが回った。


「――はい?」


 顔をのぞかせたのは、若い女性だった。


 ツーブロックにした髪はアッシュカラー。

 耳には拡張ピアスをはめて、細い手首には二連の数珠を下げ、ダメージの入ったデニムにむら染めされたシャツを着ている。

 胸のふくらみがなければ性別不詳の外見だ。


 話しかけるのに勇気がいるタイプだが、彼女の正体を知っている蓮はニコリと笑んだ。


「お仕事を、いただきにまいりました」

「は? あんたが?」


 女性は信じられなさそうに、蓮の頭からつま先まで見回した。

 動いた拍子に前髪から水滴が落ちる。シャワーでも浴びていたのだろうか。


「はい。あなたが『アルストロメリア』さんですね。僕が、夏のバイトに応募した『蓮花はすはな』です」

「たしかにバイトは呼んだけど、まさかこんな綺麗な子どもが来るとは……ん? 男だって言ってなかったっけ?」

「……女に見えますか」

「うん。女にしか見えない」


 間も置かずに返されて、蓮のビジネススマイルはあっけなく崩れた。


「そうですか。アルストロメリアさんは、動画の印象そのままですね。はすっぱで、おおざっぱで、嘘がない。バイトさせてくれないなら帰ります」

「待て待て。バイトは誰でも大歓迎だ。散らかってるけど、どうぞ」

「おじゃまします」


 招き入れられて、蓮は薄暗い202号室に立ち入った。


 入ってすぐのキッチンには、かびたオレンジ色のガス栓が目立つコンロと、小さなヤカンが一つ、立て付けがずれた引き戸のキャビネットがあるのみ。

 鍋や皿、食材などが見えないので、生活感はないに等しい。


 続きの六畳間には、寝袋が一つと衣類がのぞくナップザックあるだけだ。


 ただし電気製品は充実している。

 薄いラップトップ、片手に収まるサイズのビデオカメラ、撮影用のピンライト、配線用のコードがいくつか。あとは充電中の携帯電話ガラケー


 窓にはめ込まれたウインドウエアコンは動いていないので、ひんやりと感じるのは雨雲が真夏の陽光を遮っているせいだろう。


 立ちすくむ蓮を大またで追い越したメリアは、手早く寝袋を片付けていく。


「この辺にてきとうに座って。悪いね。住むって言うよりは、張りこんでる状態だから」

「刑事さんみたいですね。アルストロメリアさん」

「メリアでいいよ。刑事ってのは仕事で張りこんでんだろ。あたしは探究心のおもむくままにやってるわけだから、夏休みの自由研究の方が近いね」


「自由研究が夏休みの宿題として課せられている身から言わせてもらえば、『心霊』なんて非科学的オカルトな研究を提出したら保護者を呼び出されますから、テーマ設定から見直すことをおすすめします」

「あたしは小学生以下か。辛辣しんらつだなぁ、蓮花は」

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