魔力と死の夢

すえのは

魔力と死の夢

 魔法戦争が終わってから、まだ一年しか経たなかった。辺りにはまだ、崩れた煉瓦の壁や赤茶けた空き地が目立った。

 壊れ果てた町中で一人の少年がいなくなったことに、町の人はもちろん、家族すら口を噤んだ。

 腕を掴むだけで折れてしまいそうな、細く弱々しい少年だった。まだ十四歳で髪も瞳も黒く艶を抱いているのに、頬には生気がない。

 彼は土埃の舞う瓦礫の町をさ迷い、細い裏路地に入った。表の建物はひどい壊れようで外壁も崩れ、細い路地にも眩しい日差しが差していたが、奥の建物は無事だったものも多かったようで、路地の奥に歩を進めるごとに

、無事だった建物の壁に日差しが遮られ、細長い空間に冷たい陰が満ちていった。左右にそそり立つ建物の壁は、頑丈ながら年季が入ってくすんでいた。ひんやりする陰に呑まれながら進んでいくと、右手側の建物の壁に、裏口と思わしきドアがあった。ドアの上に、灯りの灯っていない濁ったランプがついている。

 ふらふら迷い込んできたその少年を拾ったのは、そのランプ下のドアに凭れ掛かっていた背の高い男だった。三十近い年頃の男だろうか。帽子を被り、ロングコートを着込んでいる。裏路地が暗いせいで、お互い顔はよく見えなかった。

 男は背の低い華奢な少年を見下ろした。少年は十四歳という実際の歳より、もう少し幼く見られることが多かった。きっとこの男にも、幼く見えたことだろう。そっと眉を顰めている。

「子供が一人でこんなところに何の用だ」

 低い声が少年を脅かした。少年は細い肩をびくりと震わせて怯えた目で男を見上げた。

「一人で散歩か?」

 男は冷たく笑った。

 その肩口でランプ下のドアが、ぎぃと錆びた音を立てて開き、初老の白髪男が出てきた。背はそんなに高くはないが細身で、口元にも長く白い髭を蓄えている。少年を見ると一度驚いた顔をした後で、卑しい笑みを浮かべた。

「その少年は誰だね? 新しい商品かね?」

 そう男に訊ねている。

「俺はこんな子供知らん」

 男は吐き捨てるように答える。

 初老の白髪男は品定めするように少年を仔細に眺め、物欲しそうに帽子の男を唆した。

「構わんじゃないか。家出人なら拾ってしまえ。こんなところにまともな子供は来んのだからね。見たまえよ、この子の憂いた顔を。何もかも捨てたくなった子供の顔だ。なかなかよい顔をしている」

「ただの迷子だったらどうする」

「それなら我々を見た瞬間に逃げ出すはずじゃないか」

「恐くて足が竦んでるだけかもしれないだろ?」

「君は何も分かってないね。あの子の目を見てみたまえ。君のことを凝視しているじゃないか。救いを求める目だよ」

「何で俺に救いを求めるんだよ。そんな面倒なことに関わりたくないな」

 初老の男は卑しい笑みを浮かべるばかりだった。

「家出人かどうか、君の手で確かめてみるがいいさ」

 そう言い残し、初老の男は建物の中に戻っていった。路地に取り残された帽子の男は溜め息を吐き、少年を見た。

「お前が本当に家出人で行く当てがないと言うのなら、命と引き換えにこの中に入れ。死にたいわけじゃないただの迷子なら、今すぐにここから立ち去れ」

 男はそう言うと、錆びたドアを、ぎぃと開けた。

 少年はドアの隙間から中を見た。至って普通のバーのようで、細長いカウンターテーブルが見えた。確かに子供の立ち入るところではないが、命と引き換えにしなければならないほど何か重要なものでもあるのだろうか。

 少年はしばらく店の中をじっと見ていたが、恐る恐る歩み出し、錆びたドアの中へ吸い込まれていった。帽子の男には、戸惑いとも驚きともつかない、複雑な動揺が少なからずあった。

 少年の小さな背中に不釣り合いなバーの照明が、天井に爛々と灯っている。カウンターテーブルの内側から店の中に入ったので最初は分からなかったが、カウンターテーブルの外に出て後ろを振り向くと、壁際の棚にぽつぽつとボトルが置かれ、照明を鋭く照り返していた。

「ついてこい」

 少年は帽子の男に言われるまま、背の高い彼の後についていった。店の片隅に地下への階段があり、二人は下りていった。

 地下は大きな広間になっていて、真ん中には特別大きな十人掛けのテーブルが置かれていた。その周りに、二人掛けの小さなテーブルも三つぽつぽつと用意されていた。

 帽子の男は階段の降り口に一番近い席に座っていた青年の肩を叩いた。細面の整った顔立ちで、硝子のように滑らかな頬をした人だった。少年は帽子の男の背後に隠れながら、目の前の青年の赤い瞳にぎょっとした。

「ソフィアはどうした?」

「ソフィアなら奥の部屋にいるよ」

 青年は見慣れない少年の姿を見ると、きょとんとなった。

「クレム、後ろの子は誰だい?」

「命知らずな新入りだよ」

 青年は苦笑いした。

「新入りの子? まさか……こんな子が?」

「こんな子だからいいんだろ?」

「うん、まぁ、そうかもしれないけれど」

 帽子の男は話もそこそこに、広間の奥に向かった。奥の壁にはどこに繋がっているのか、五つほどドアが並んでいる。男は向かって一番左側のドアをノックした。

「ソフィア、いるのか」

 ドアは二、三秒沈黙した後、音もなく静かに開いた。空色の髪を持った、十五、六ほどの少女が二人を出迎えた。胸元に緩く編んだお下げを垂らしている。彼女の瞳も透けるような空色だった。男は彼女に向かって少年を突き出した。

「この小僧に魔力を注げ」

 空色の髪の少女は突き出された少年を柔らかい手で受け止めながら、少年の顔を見た。彼女もまた、困惑の色を浮かべた。

「この子に魔力を注ぐの?」

「そうだ」

「こんな綺麗な子に?」

「綺麗かどうかなんて関係ない」

「自分より幼い子に魔力を注ぐのは嫌よ。この子、私より小さい子でしょう?」

「年齢含め、そいつの素性は一切知らん。こいつは命と引き換えにここへ入ったんだ。俺はちゃんと忠告した」

 彼女は改めて少年の顔を観察した。まだ子供の顔立ちをしている彼の丸い目には、悲しみが漂っている。若者らしい活力は一切ない。掴めば折れてしまいそうな肩。吹けば霧になってしまいそうな胸板。弱々しい息遣い。命の危機を忠告されながら、それでもここへ迷い込んできてしまった理由が、彼女にも何となく分かったような気がした。彼女は少年の肩を抱きながら言った。

「この子と二人で話をするわ。魔力を注ぐのはそれからよ」

「俺はそこで待ってる。終わったら報告しろ」

 男はそう言って、彼女の部屋のドアを閉めた。少女は鍵を掛けると少年をベッドに座らせ、自分も隣に座った。

 帽子の男に見せていたものよりいくらか柔らかい笑顔で、彼女は語り掛けた。

「初めまして。私はソフィアよ。あなたは?」

 少年も僅かに心を開くように、俯きながらぽつりと答えた。

「僕は、フロル」

「歳は幾つ?」

「十四歳」

「私の二つ下ね。よろしく、フロル」

 彼はこくんと頷いた。

「フロルはどうしてここへ来たの?」

 どうしてと一言で説明するのは難しい気がした。自分自身の身の置き場に困り、町をうろうろしている間に迷い込んでしまっただけだ。体は確かに実在しているのに、その体をどこに置いておけばいいのか、彼は突然分からなくなったのだ。

 フロルはぽつりと答えた。

「どこにいればいいのか分からなくて。居場所を探してた」

「もしかして、孤児?」

 フロルは首を横に振った。

「家族はみんな無事だよ。誰も犠牲になってない。でも僕は、誰かに必要とされるような人間じゃないから。兄さんや姉さんは愛想もよくて勉強もできて、母さんからも婆ちゃんからも可愛がられてた。僕はそうじゃなかった。勉強は好きだけど、人が恐くて、愛想もなくて、不器用だから失敗ばかりして、みんな僕の顔を見ると、迷惑そうな顔をして。悲しくて堪らなかった。消えてなくなりたい気持ちが、膨らんでいった」

「それでここへ来てしまったの?」

「知らないうちに、ここへ来てたんだ」

「そう……」

 彼女はベッドから立ち上がった。

「フロル、横になって」

「え?」

「ほんの少しだけ、魔力を注ぐわ」

「魔力って、何?」

「魔力を知らないの?」

「知っているけれど、そんなもの、本当にあるの?」

「あるわよ」

 ソフィアはフロルの肩を掴み、彼をベッドに寝かせた。

「魔力のせいでこの町も焼かれたんですもの」

 ソフィアは彼の肩口に座り、子守りをするように彼の額を撫でた。

「ほんの少しだけよ。せめてあなたに優しいお客さんがついてくれるといいのだけれど」

 ソフィアは彼の顔の上に手を翳し、霧のような魔力を注いだ。

 フロルの顔の上に降り注いだ魔力は彼の体内に淀みなく染み込んでいき、魔力に耐性のない彼を呑み込んでいった。

 フロルは強い眠気に襲われ、深々と目を閉じた。

 彼が目を覚ましたとき、ソフィアはもういなかった。代わりに、フロルをここへ招いた帽子の男と、見知らぬ女性がいた。帽子の男と似たような年頃に見える。金色のボブの髪をほつれなく綺麗に整え、真っ赤な口紅を引いていた。二人はベッドに横たわるフロルを見下ろしながら話をしている。

「これが今日入ったばかりの新入りさん?」

 芯の通った女性の声だった。

「この子、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫かどうかは自分で確かめろ。俺は知らん」

「俺は知らん、ね。便利な言葉よね」

 彼女はからかうように笑った。

「いいわ。二人にしてちょうだい」

 帽子の男が去っていくと、部屋には鍵が掛けられた。

 冷たい灰色の石壁に囲まれた狭い部屋は、胸を押すように息苦しかった。

 女性は肩に掛けた鞄をベッド脇の机に下ろし、フロルの肩口に座り込んだ。

「初めまして、坊や。わたくしはカネアよ」

 彼女もまたソフィアがやったように、フロルの額を撫で上げた。慣れた手付きで額から耳朶の裏、頬、首へと、するする手のひらを滑らせていく。フロルは彼女の手が恐くなり、思わず手首を握った。

「あなたの名前を聞かせてちょうだい」

 カネアは握られた手首の圧迫感に微笑んだ。

「フロルだよ」

 掠れた声で返事をした。

「あなた、わたくしのことが恐くって?」

 フロルは彼女を見上げたまま何も答えなかった。

 彼女はベッドから立ち上がってドアを開けると、ソフィアを呼んだ。空色の髪の少女はすぐに飛んできて、カネアとフロルを交互に眺めた。

「ごきげんよう、ソフィア。この子、魔力が足りないのではなくって?」

 金髪の女性に見下ろされ、ソフィアは首を横に振った。

「これ以上は駄目です。中毒になります」

「あなたらしくないわよ、ソフィア。いつもの思い切りのよさはどうしたの」

「大人にならいくらでもできるわ。でも、この子は私より小さいんですもの。可哀想だわ」

「情けは無用よ。この子、死の影を背負っているもの。もうどうすることもできないわ。あなたの魔力で、束の間でも幸福を見せてあげたらいかがかしら」

 ソフィアは俯いて視線を逸らす。

「私にはできません、カネアさん。ごめんなさい」

 カネアはもう一度彼の枕元に座り、白い額を撫でた。

「可哀想な坊や。生きたまま死んでいるのと変わらないわね。愛を知らない人生ほど可哀想なものはないわ。ねぇ、あなたもそう思うでしょう?」

 ソフィアに訊ねたのか、フロルに訊ねたのか、分からない問い掛けだった。

「フロル坊や」

 彼女の手のひらは何度も何度もフロルの額を行き来した。

「口付けをするとね、あなたに謝礼を払えるのよ。どうせゴーベールに全部吸い取られてしまうのでしょうけれど、あなたになら惜しみなく何でも注いであげたいわ。ソフィア、あなた、証人になって下さる?」

「ええ」

 ソフィアは首肯しながら、二人からそっと目を逸らした。

 カネアは少年に覆い被さり赤い口付けすると、未練なく立ち上がり、机の鞄を肩に掛け直してフロルを見下ろした。

「ごきげんよう、フロル坊や」

 彼は目を閉じてベッドに横たわったまま深呼吸を繰り返し、その呼吸の合間に呟いた。

「カネアさん、ありがとう」

「こちらこそありがとう、坊や。あなたのこと、忘れなくってよ」

 カネアは風のように立ち去った。

 その金髪の女性が座った枕元に、今度はソフィアが座り、フロルの頬を撫でた。

「フロル、大丈夫?」

 彼は目を閉じたまま頷いた。

「僕は、大丈夫」

「カネアさん、優しくして下さってよかった」

 フロルはソフィアの手を握って訊ねた。

「ソフィア、魔力を注がれると幸せな気持ちになれるの?」

「そうらしいんだけど、私はもともと魔力を持って生まれてきたからよく分からないの」

「幸せになれるのなら、僕も魔力が欲しいな」

 ソフィアは首を横に振った。

「駄目よ。カネアさんにも言ったけれど、あんまりたくさん魔力を注ぐと中毒になるの。中毒に掛かったら、もう後戻りできないわ。あっという間に衰弱して死んでしまう」

「僕はね、人より恐いものなんて、なんにもないんだよ」

 彼はそう呟くと、眦に涙を浮かべた。

 眠ってしまったフロルにブランケットを掛けると、ソフィアはそっと部屋を出た。

 大広間には、階段の降り口の側の机に、いつも通りイルネスが腰掛けていた。彼の硝子のように滑らかな頬と優しい眼差しは、もともと翡翠色だった瞳が赤色に変色してしまってからも変わらなかった。彼は赤い瞳で微笑んで椅子から立ち上がった。

「ソフィア」

 彼は空色の髪の少女を抱き締めると、彼女の耳に囁いた。

「少しでいいから注いでくれないか?」

 ソフィアも痩せた彼の背中に手を回した。

「少しだけね」

 二人は一番左の部屋へ入っていった。

 ベッドに腰掛けて抱き合い、彼を見ると、ソフィアの魔力で染め上がった彼の赤い目が嫌でも視界に入った。自分の重罪が胸の奥から揺り起こされて、ソフィアは目を閉じ、彼の胸に顔を埋めた。

 ごめんね、と言っても、彼は首を横に振り、「俺はもともと体がずっと痛かった。君の魔力で痛みを癒してもらって感謝している。罪悪感なんか覚えなくてもいい。どのみち俺だって長くはないんだから」そう言うばかりだった。

 病気で亡くなるのと魔力中毒で命を落とすのとはわけが違う。痩せたイルネスを抱いていると悲しかった。

 ソフィアは口付けをしながらイルネスに魔力を注いだ。魔力に慣れないフロルと違い、イルネスは瞳が赤く染まるほど魔力に慣れてしまっている。体も随分痩せた。注いでも注いでも、彼はソフィアの口から魔力を啜った。

「もう駄目。もう駄目だよ」

 ソフィアは慌てて口を離した。一気に魔力を啜られ、ソフィアも目眩がした。彼は顔を逸らすソフィアを抱いて、肺を落ち着かせるように、荒い呼吸を繰り返した。

「もうじき君に会えなくなると思うと寂しいよ」

「すぐに帰ってくるわ」

「禁断症状が出て狂ってるかもしれない」

「少しずつ魔力を減らしましょう。禁断症状を抑えるには魔力を我慢するしかないわ」

「それもそれで寂しいな」

「イルネスが生きててくれるなら私はそれでいいの」

「痛みに耐えるのはもう嫌になってしまった」

 それを言われてしまっては返す言葉もない。進むことも退くこともできなくなってしまったイルネスの行く先には、どのみち苦痛しか残っていない。ソフィアは彼の生きる苦しみを和らげるためだけに彼に魔力を注ぎ続けたが、その魔力すらイルネスの命を脅かす。為す術のないことに、ソフィアは拙くも手を差し伸べていた。

 きっと私は間違ったことをしているに違いない。でも、こうする他に、方法がない。

 浮かんだり沈んだりする罪悪感の中で、ソフィアはイルネスに身を任せた。

 裸になってお互いの肌の滑らかさに溺れ、私が私であることも、あなたがあなたであることも忘れた。

 ベッドの縁から、彼の脱ぎ捨てたシャツが滝のように垂れていた。

 翌朝、身支度を整え大広間に出ると、クレムが帽子の下から鋭くソフィアを見た。

「ソフィア、出立の準備は進んでるのか?」

「うん。問題なくできてるわ」

「聖獣たちに加勢するだけだから難しい仕事じゃないが、抜かるなよ」

「心配しないで。大丈夫」

 彼は背の高い体躯でソフィアの行く手を塞ぎ、彼女を問い詰めた。

「お前、昨日の小僧に手加減したな」

「あなたにもカネアさんにも言ったけれど、自分より幼い子に魔力を注ぐのは嫌よ」

「イルネスには容赦がないくせに何言ってる」

「イルネスは私より歳上よ。それに、あの人には病があって、体を痛がるから」

「まぁいい。お前もあの小僧の様子を見てこい」

「はい」

 上階へ去っていくクレムを見送ると、ソフィアはフロルが眠っている一番右端の部屋を訪ねた。

 鍵の掛かっていないドアをそっと開けると、彼は昨日ブランケットを掛けてあげたままの姿で眠り続けていた。ソフィアは彼の枕元まで椅子を引っ張ると、そこに座り、まだ幼い寝顔を見つめた。漆黒の髪に流れる艶が、彼の汚れのなさを思わせるようで、ソフィアは胸が痛んだ。このまま魔力を注ぎ続ければ、彼の黒い目もいずれ赤く染まる。そうなればイルネスと同じ、進むことも退くこともできない、苦痛だけが待ち構える人生に落ちてしまう。

 ソフィアは身を乗り出し、閉じたままの彼の下瞼をそっと引っ張った。魔力の侵食はない。

 ソフィアはそれだけを確かめると、椅子を戻し、静かに部屋を出た。

 フロルが目を覚ましたのは昼になってからのことだった。物静かな少年が突然わっと大声を出すので、大広間にいたイルネスが様子を見に行った。

 フロルは半身を起こし、肩で大きく息をしながら目を見開いていた。

「大丈夫かい?」

 イルネスはベッドに歩み寄り、フロルの顔を覗いた。フロルは咄嗟に彼の手を握ると、捥ぎ取るように引っ張り、胸に抱え込んだ。震える少年の肩を見て、イルネスはすぐに見抜いた。

「魔力の禁断症状が出たんだね」

 イルネスはベッドに座った。

「ソフィアはほんの少ししか魔力を注がなかったようだけれど、君は魔力を浴びるのは初めてだったんだね。体も脳もびっくりして、悪夢でも見てしまったんだろうね」

 フロルはイルネスの手を抱えながら呟いた。

「僕は恐い」

 イルネスは自由な方の手でフロルの背中を撫でた。

「フロル君とか言ったね。俺はイルネスだよ。俺の目を見てごらん。不自然なほど赤いだろう?」

 フロルは顔も上げずに無闇に頷いた。

「ソフィアの魔力で病気の痛みを癒してもらっているうちに、こうなったんだ。君と同じで、魔力を貰った後には禁断症状が出る。仲間だね」

 そう優しく宥められ、フロルはイルネスの手を離した。

「魔力は心の孤独も体の痛みも拭い去ってはくれるけれど、その後には倍以上の苦しみが襲って来る。君は体の痛みはないようだけれど、心の痛みがあるんだね。どちらも辛いことだよ」

「僕はあんまりにもちっぽけ過ぎて、今すぐにでもいなくなってしまいたい」

「それは禁断症状の一部かい?」

「そうじゃないと思う。ずっと前からそう思ってた。人の冷たい視線が恐くて、どこにも行き場がなくて、消えてしまいたかった。本当にそうなるのなら、僕は嬉しい」

「中毒に掛かれば死ぬのはあっという間だよ。俺だってソフィアへの恩義がなければ今頃生きてはいなかった。その気になればソフィアを脅して無限に魔力を啜り、急性中毒で死ぬことだってできた。あの子のことが愛しいから、無理なことはできなかった。ずっとあの子の言うことを守りながら魔力を貰ってきた。彼女は魔力戦団の一員だから、一週間後には戦地へ行く」

「え?」

 フロルは目を瞠ってイルネスを見た。

「あの人、いなくなっちゃうの?」

「何事もなければ無事に帰ってくるよ」

「戦争は終わったのに、戦地へ行くってどういうことなの?」

「聖獣の力を借りて、敵の残党を追い払うだけだよ。危険な任務ではないと聞いた」

「そうなんだ」

 フロルは肩を落として手元を見た。

 丸一日、何も口にしなかったフロルはスープだけを口にし、シャワーで体を清めた。

 夜になると上のバーにも客人が来るようで、階下の大広間にも人の声が聞こえてきた。

 この建物を仕切っているのは、フロルがここへ来たときクレムと話し込んでいた、あの初老の白髪男とのことだった。ゴーベールという名の老人は非道を好む拝金主義者で、行き場をなくした人々を拾っては地下に住まわせ、働かせているらしかった。彼の右腕として雇われているクレムも、ゴーベールの機嫌次第でどんな目に遭うか分からない。

 いたずらな縦の権力がフロルの目の前に顕示されたのは、ソフィアが戦地へ立つ二日前だった。

 突然クレムがソフィアを突き飛ばしながらフロルの部屋に入り、彼女の首を背後から腕で締め上げながら、彼女の頬にナイフを突き付けた。余りに突然の出来事に、フロルは部屋の隅で棒立ちになった。乱暴に開かれたドアが、ぽっかりと口を開けたまま大広間の景色を見せていた。

 クレムはぎらつく目を一旦フロルに注ぐと、締め上げたソフィアに言った。

「ソフィア、魔力の注ぎ方が甘いぞ。こいつの目は微塵も赤く染まってない」

「魔力の注ぎ方は私が決めるわ」

 クレムは更にソフィアを締め上げた。

「お前が決めることじゃない。ゴーベールが決めることだ」

「そんなに言うなら、今度の魔力戦団の任務が終わったら私を処分して。私はもう嫌」

 クレムはソフィアをベッドに突き飛ばすと、倒れた彼女の首元に、尚もナイフを当てがった。

「死にたいならお前は勝手に死ねばいいが、お前が処分されれば連帯責任で俺の頭も弾ける。俺はまだ死ぬ気はない」

 ソフィアはクレムの腕を握りながら首を反らした。

「それでも私は嫌」

 そのやり取りを部屋の外で窺っていたらしい当のゴーベールが、開いたままのドアの前にぬらりと現れた。

「どうも強情な娘だね」

 彼の手には、一丁のピストルが握られていた。部屋に入るなりクレムの帽子を取り、そのピストルを彼の頭に突き付けた。

「この男の言う通り、君が言うことを聞かないと言うのなら、この男を始末するまでだ」

 ソフィアは首に刃物を当てられたまま、頭を左右に振った。

「お願いだからやめてよ、そんなことするの」

 ゴーベールは白い口髭の下で非道な笑みを浮かべた。

「ソフィア、大人というのはね、まともな子供より、少し壊れた子供の方が好きなのだよ。病持ちで魔力中毒にまで掛かったイルネスは、争奪戦になるほど多くの金持ちに寵愛されている。そこの少年も、何があったのかは知らないが、物静かで、随分幸薄い顔をしているじゃないか。いかにも金持ちの心をくすぐる逸材だ。君の魔力でもう少し壊しておやり。寵愛する人が増えるよ」

「ひどい……」

 ソフィアが呟くと、ゴーベールは「それがいいんじゃないか」と笑った。

 クレムはゴーベールのピストルを手の甲で押し退けると、今度は部屋の隅で立ち尽くしていたフロルを背後から羽交い締めにし、ソフィアに当てていたナイフを、フロルにも突き付けた。

「やらないというのなら、こいつを処分する羽目になるぞ。ナイフやピストルで殺すか、お前の魔力で殺すか、好きな方を選べ」

 クレムはフロルの顔を覗き込み、小柄な少年に語り掛けた。

「なぁ、小僧。死にたいと言うなら、俺が殺してやるよ。痛みがないように、安らかに死なせてやる」

 フロルは首を押さえつけるクレムの腕にしがみつき、小さな声で言った。

「ありがとう、クレムさん。あの、僕、イルネスさんから聞いたんだけど、ソフィアから、無理矢理魔力を啜れるって本当?」

 ソフィアはベッドの上でびくりと肩を震わせた。

「やっぱり、そうなんだ」

 フロルはクレムの腕を振り解くと、ベッドに座り込むソフィアに歩み寄った。

「ソフィア、ごめんね。僕は君の魔力が欲しいな」

 ソフィアは呆然と首を横に振った。

「駄目。嫌」

 腕を突き出してフロルを避けようとするソフィアの手を握り、フロルは彼女を抱き締めた。

 彼女の体から溢れる魔力が、次から次へとフロルの体に注がれていった。

「ソフィアの魔力は優しくて、僕は大好きだよ。ありがとう、ソフィア」

 彼の黒い目は、あっという間に赤く染まった。

 フロルとイルネスは、その後、一年ほど生きて、ほとんど同時期に息を引き取った。

 ソフィアの魔力に支えられながら短い人生を閉じようとしていた二人は、いつしか、「死ぬときは一緒だよ」と囁き合うようになり、その約束通りの死期となった。

 ソフィアはもともと自分の家があった空き地にささやかな墓石を立て、二人を弔った。

 土埃の舞う瓦礫の町で、二人の命が果てたことを知る人はいない。

 小さな墓石は、眩しい日差しに輝き、瑞々しい花に、今日も見守られていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

魔力と死の夢 すえのは @suetenata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ