第三十九話 今の育郎


              ☆☆☆その①☆☆☆


「オジサン!」

 と、よく通る声で言った少女が、渡り切った歩道で、両腕を広げる。

 その笑顔は、決意と期待と不安を隠さない、素直な意思で輝いて見えた。

 女の人って凄い。

 言葉ではなく、本能でそう感じる。

 感じながらも、青年の意思は、混迷の極みにあった。

(亜栖羽ちゃんが、僕を欲しいって…っ!)

(つまりそれは…そういう事…?)

 そう思うと、感動で心も身体も暴走をして、今すぐにでもお姫様抱っこで、ラブでもブティックでもない超高級なホテルへと、直行したくなる。

 同時に。

(いやもっと純粋な意味じゃないのだろうかっ!?)

(もし僕の勘違いだったら、亜栖羽ちゃんにトラウマ級の嫌悪感を与えてしまうのでは…っ!)

 と、少女の事も考える。

 青年が心の葛藤をしているその表情は、まるで史上最大の敵に出会った野獣の如く。

 ただでさえ怖い顔が、般若も席を譲ってくださる程の強面に変化し、全身の筋肉もグググっと盛り上がって硬直。

 小山のようなその姿は、敵意を隠さない山の猿でも、決して触れない登らない近づかないだろう。

 両腕を広げる少女の周囲を、男性たちが見惚れながら通り過ぎて、立ち止まる。

 中には、声を掛けようと軽く髪を整えるナンパ男とか、名刺を取り出そうとしているスカウトまで散見されていた。

 早く答えなければ、亜栖羽が横取りされてしまう。

 そんな想いに責められつつ、青年は精いっぱい、正解を探して足掻く。

 亜栖羽は、どんな想いで育郎を求めたのか。

 亜栖羽が一番望む事は、なんなのだろうか。

 考えても考えても、正解が見えない。

(ぼっ、僕はなんでっ、こんなにっ、頭まで悪いんだっ!)

 自己批判しながら、それでも必死に答えを探す。

 少女は両腕を拡げたまま、青年を信じて待ち続けていた。

 焦りの心が、亜栖羽の背後で招き輝く、高級ホテルを意識させる。

(こ、このまま…いっそ…っ!)

 ピーポポピーポポ–。

 二人が渡って赤になっていた信号が、また青に変わって、歩行者用の音楽が聴こえた。

「!」

 こんなにも待たせてしまった。

 その事実を理解した時、青年は自らの心に、答えではなく決意を見つけた。

 亜栖羽ちゃんに嫌われても、傷つけるよりはずっといい。

「亜栖羽ちゃあああああああああああああああんっ!」

 絶叫しながら、全力で走る育郎。

 その速度と叫び声は、縄張りを誇示し威嚇の遠吠えをするライオンの牡が、牡としての自信を失い、たてがみの黒色が消えるようなレベルだ。

「亜栖羽ちゃんっ、亜栖羽ちゃあんっ!」

「ねーキミ–ひぃぃっ!」

 少女に声を掛けようとしていた数人の男性たちが、絶叫に顔を向けると同時に失禁しながら尻もち。

 頭から丸呑みせん勢いの巨体猛獣を前に、逃げる事すら諦めた感じだった。


              ☆☆☆その②☆☆☆


 全速で得物に接近した猛獣が、全身の筋肉を全力で駆使して、ガバっと抱き込む。

 ライオンが子猫にかぶりつくようなショッキングシーンに、あらためて気づいて、振り返る人たち。

「亜栖羽ちゃんっ!」

「オジサン…」

 青年はただ、全身で少女を抱きしめる。

 抱くと折れてしまいそうな、華奢で柔らかくて優しい肢体を、出来る限り優しく。

 体中も声も震わせながら、自分の全てを曝け出す。

「僕は、もっと…ちゃんと、亜栖羽ちゃんが欲しい…っ!」

「………」

 抱きしめられるまま、少女は黙って聞いている。

「亜栖羽ちゃんの決意を、僕はもっとシッカリと…迷いなく受け止められるような、そんな男になりたい…っ! 自己満足かもしれないけど、もっと、亜栖羽ちゃんを大切に護れる自分に、僕はなりたいんだ…っ!」

 それは、決意というより、育郎自身の目標でもあった。

 せめて、亜栖羽が高校を卒業するまでには、到達したい。

 いや、絶対に到達するのだ!

 具体的にではなく、自分の心が、そう納得できるまで。

 そんな決意を、今日の亜栖羽とのデートで、あらためて自覚していた。

「オジサン…くるしぃ~」

「あわわっ–ごめんなさいっ!」

 つい力んで、抱きしめてしまっていたらしい。

「えへへ~、男の人って、すっごく力 強いんですね~。私、ドキドキしちゃいました~♡」

 恥ずかしそうに言いながら、その先は思った以上に怖くって、だから育郎の決意を聞いた今、どこか安心している。

 みたいな空気だ。

「私…オジサンが良い男性で、本当に良かった~♡」

 言いながら、その笑顔は大人の女性を感じさせつつ、そしていつもの明るい亜栖羽だった。

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