第38話 死神との邂逅
試合後のロッカー。
ヴィセンテはベンチに座ったまま、何度も爪をかんでいた。
「……何も出来なかった」
彼のスパイクは汚れていなかった。
それが何よりの証だった。ピッチに立ち、何も残せなかったという事実。
耳元で、コーチが何か声をかけていたが、それすらも聞こえていない。
レアル・マドリーノ戦。
先発出場した彼に求められたのは、新しいシステムでの適応と役割を果たすこと。
だが、ピッチに立った瞬間、彼は“異世界”に迷い込んだようだった。
──「速すぎる」
──「当てたら戻された」
──「パスがズレたんじゃない、俺がズレてるんだ」
中村が、リューラが、すぐ横にいるのに遠い。
目の前の白い壁(レアルのDF陣)が、音もなく迫ってくる。
その恐怖を、彼は“プロの厳しさ”と理解した。
⸻
観客席の最上段。
試合が終わった後も、そこには黒いコートを着た男が座っていた。
マリオ・カサール。
サッカー界では“死神”と呼ばれる、かつての伝説的ボランチ。
今は各国のクラブや代表のアドバイザー、影のスカウトとしても名を馳せる。
その隣には、無口な男がいた。
アナリストであり、マリオのパートナーでもあるカミーロ。
マリオが、双眼鏡を外した。
「……心を折るには、これくらいでいい」
「彼を“見る”と、決めたのですか?」
「いや。“割れる”まで見ていただけ。
だが、割れなかったな。ヒビだけ入った。むしろいい兆候だ」
「彼をどこかに引き入れるのか?」
「いや、まだだ。確かにいい素材だ。……未完成の刀は、よく鈍器に見えるが、
あいつは“研がれ方”を知らないだけだ。鋼はある」
マリオは立ち上がると、ポケットから一通の封筒を取り出した。
⸻
その日の夜。
ヴィセンテはクラブハウスの片隅で一人、動画を見返していた。
何度も、自分のプレー、ミス、動けなかった場面。
「……俺って、マジで通用してない」
拳で机を軽く叩く。
その瞬間、誰かが声をかけた。
「お前が通用しないって言うのは、
俺の“目利き”が間違ってたって意味になるが?」
ヴィセンテは振り返る。
そこには、かつて映像で何度も見た男。
マリオ・カサールが、実際に立っていた。
「え……マリオ、カサール……?」
「正確には、“元”マリオ・カサール。
今はただの目の悪いスカウトだ」
ヴィセンテは立ち上がるが、身体が硬直して動かない。
「……なんで、俺なんかのところに……」
「“お前なんか”じゃない。“お前”だ。
俺は昔から、“壊れる寸前の若者”を見るのが好きなんだ」
「……」
「ちょっと歩こうぜ」
⸻
──夜のグラウンドで
ピッチの脇。
スタンドの照明が落ち、月明かりだけが芝を照らしていた。
マリオがゆっくり話し出す。
「プロってのはな、スピードとか技術で残るんじゃない。
“失敗の整理”が速いやつが残るんだ」
「……失敗、整理……?」
「お前のは“後悔”だ。自分の価値を、自分で下げるのはやめろ。
それを10回繰り返したら、マジで“価値”がなくなる。周囲に伝染する」
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
「“怒れ”。悔しさじゃ足りねぇ。怒れ。
そして、もう一度ボールを受けることを怖がるな」
マリオは封筒を差し出した。
「これは、俺が推薦してきた若者リストだ。お前の名前も入ってる。
でも、次にこの紙を見るとき、
“入れたままでよかった”って思わせてくれよ。
このままじゃお前をどこかのチームに引き抜いても活躍する未来が見えねえ。
近くに良いお手本がいるだろ?
まだまだ進化していける、お前なら。」
ヴィセンテは震える指で、それを受け取った。
「なんで、俺なんかに?」
マリオは笑いながら
「こう見えてヨハンには借りがある。
これで返したって、あのおっさんにはいっておく。
まだまだ俺のレベルにはお前は及ばない。
だが、未来は不確定だ。
可能性ならある。
じゃあな、小さな左足の侍」
⸻
──そして、夜明け前
翌朝。
早朝練習の前、クラブハウスのボードに“名前”が追加されていた。
左WG:ヴィセンテ
しかもStarting Line-Upの欄に。
それを見て、スタッフがざわめく。
ヴィセンテは一段と気合を入れた顔をしていた。
中村とリューラが視線を交わす。
リューラ:「昨日の夜の光景見たか?」
中村:「……ああ。夜、グラウンド脇で。見てたよ」
リューラ:「あいつの顔見るに大丈夫だ。
“死神”がスカウトした選手に間違いはねぇ。
てっきり他のチームに引き抜きかと思ったがな。
奴の見る目は確かだ。」
中村「あいつは俺らが育てなきゃな。」
その会話を遠くで聞いたヴィセンテは、拳を握った。
マリオに言われた“怒り”。
それは、自分への怒りであり、立ち止まりそうになる自分に対する挑戦でもあった。
次こそ、自分がピッチに爪痕を残す番だ。
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