第31話 コワレタ

 金曜日、激動の一週間も今日で終わり。明日になれば、バイトはあるものの、それだけ。平穏が帰ってくる。

 そんな、今日さえ乗り越えれば、なんて考えは甘々激甘だったことを、今、三澄は思い知らされていた。


「み、三澄、ほら、口開けて? あーん……」


 律が一切れの卵焼きを箸で摘まみ、下に手を添えながら三澄の口に近づけてくる。


「……なあ、律。あんまり無理しない方がいいんじゃないか?」

「何言ってるのよ、三澄。私は無理なんてしてないわ。いつも通り、いつも通りよ! だから、ほら、あーん……」

「いや、だから……」


 律は冷房が効いているにも関わらず、顔は真っ赤、汗は玉のようで、息も若干荒い。まるで熱病に浮かされているかのようだが、顔が異様なほどに緩み、アッパー系ドラッグでもやってんのかってくらいテンションが高い。あべこべだ。体にとんでもない負荷がかっているのは明らかだろう。……こちらとしても、すごい恥ずかしい。


「一回落ち着こう、な? わざわざ食べさせてもらわなくても、一人で食べれるから」

「駄目よ! 手作り弁当は食べさせ合いっこって相場が決まっているもの!」

「た、食べさせ合いっこ⁉ ちょっと待って、俺も食べさせるの?」

「当たり前でしょ? 私が作ったお弁当を食べるんだもの。どうやって食べるか、何を食べるか、全て私に従ってもらうわ……!」 

「マジかよ。……………………今からでも購買行こうかな」

「私に抱き着かれながら食べたいみたいね」


 律が箸を置き、ゆらりと立ち上がる。両腕を広げ、こちらに迫ってきた。


「は、ちょっ、いやいやいやいや! 待って落ち着いて、分かったから! 大人しく食べるから!」


 購買に行かせない。たったそれだけのために、なんて暴挙か。


「そ、そこまで嫌がらなくてもいいのに……」


 律がしゅんとする。


「いや、別に嫌ってわけじゃ……」


 告白から一日、返事を求められたわけではないが、何の反応も返せていないことは、三澄にとっての負い目になりつつある。

 そんな状態で、このバカップルの真似事。この場が人目のない空き教室であることが、三澄にとっても、そして律にとっても、唯一の救いかもしれない。以前みたく(?)話せるようになったこと自体は、喜ばしいことなんだけれども。


「嫌なわけじゃないなら何よ」


 律が席に戻ってむっとしている。


「それは……、あれだよ。急に人に抱き着かれそうになったら、誰だってびっくりするだろ? そういうことだよ」

「そう……。なら、先に言っておけばいいってことね」

「んん? ちょっと待って違うぞ? そんな簡単に心の準備ができるなら、そもそも拒否なんてしてないからな?」

「むぅ……、ごちゃごちゃめんどくさいわね。要するに抱き着かなければいいんでしょ」


 そう言いながら、律が弁当を持って立ち上がる。


「は? ちょっ、何する気――」


 そして律はあろうことか、そのまま三澄の膝の上に腰を下ろした。このまま三澄が律の足と腰を腕で支えてやれば、お姫様抱っこが完成するだろう。絶対にしないけど。


「ふふ、私は別に抱き着いてはいないからね?」

「…………とんでもない屁理屈じゃねーか」


 律の、湯気でも出ていそうなくらい真っ赤な顔が目の前にある。


「流石の三澄も、これだけ引っ付けばドキドキしてくれるんだ」


 めちゃめちゃ嬉しそうにそういうことを言うんじゃない。


「この状態で弁当食うの?」

「近いから、むしろ食べさせやすいわね」

「そんな取ってつけたような……」


 とうとう身動きも取れなくなった三澄は、大人しく食べさせられ、食べさせることにする。とは言え、一旦初めてしまえば、以降は意外と楽だった。こんなことなら、最初から受け入れていれば良かった。こんな密着して、互いの拍動やら熱やらを伝え合わずに済んだかもしれない。

 そんな、甘ったるすぎてドロドロに溶けてしまいそうな時間は、不意に終わりを迎えた。

 律に限界が来たのだ。


「言わんこっちゃない……」


 長風呂してのぼせた、みたいになってしまった律を腕に抱えながら、三澄は半分も減っていない弁当に蓋をする。

 その後、痺れて言うことを聞かない両足に鞭打って律を背負い、弁当箱は一旦机の上に放置して、教室を出た。道中、微睡みの中、三澄の首筋を甘噛みしてくる律(おそらくまだ弁当を食べているつもり。しょっぱいとかぼやいていた。)や、奇異の視線を向けてくる通行人等々、三澄の精神はある意味極限状態。

 保健室のベッドに律を寝かせた後、一瞬、自分もここで休んでいきた欲が沸いたがなんとか堪え、三澄は空き教室に置きっぱなしの弁当を回収し、二年八組の教室に戻ってきた。

 教室に入るとすぐ、三澄の帰還に気付いた美月が茶化すように話しかけてくる。


「あ、三澄。意外と早かったね。どうだった? 楽しかった?」

「……めっちゃ疲れた」

「あはー、それはそれは」

「お前、律に変な事吹き込んだんじゃないだろうな? マジヤバかったぞ」

「いやいや、私は何もしてないって。りっちゃんがおかしくなったのは、多分、三澄のせいだと思うよ?」

「……なんでだよ」


 思い当たる節がないわけではない。が、あそこまでの豹変具合となると、どうも頷き難い。


「ん……、一応聞いておくけど、あの何かの拍子にスイッチが入っちゃうみたいなあれ、昔からじゃないよね? 私、りっちゃんとは高校からだから」


 美月の表情が、急に真剣なものに変わる。


「いや、流石に中学までは普通だった……と思うけど、スイッチが入るって?」

「うん……、なんかね、りっちゃん、たまーにトリップするって言うか、妄想の世界に行っちゃうって言うか……」

「なんだそれ。完全にヤバイ奴じゃねーか」


 今日の律は暴走気味だったが、そこまでではなかった。ちゃんと現実の世界に生きていた。空き教室から保健室へ向かう間での甘噛みの件が、その片鱗と言えなくもないが……。


「想像の中の三澄とイチャイチャし始めた時は、どうしようかと思ったよ。めちゃ怖かった」

「…………寝惚けてたとか、そういうんじゃないの? そんなの急に始めるとか、ヤバいどころの話じゃないよ? お医者さんに相談よ?」


 冗談だと思いたいのに、怯えの混じる美月の声に、更に不安が掻き立てられる。


「その時は確か、寝惚けてはなかったはず。りっちゃんの部屋にあった……指輪? そんな高そうなものじゃなかったんだけど、たまたま見つけてね。そしたらりっちゃん、何かに憑りつかれたみたいに自分の左手の薬指にはめて、そこから……て感じ。三澄との思い出の品か何か?」

「ああ、その指輪、多分、中一の頃に律にせがまれて買った奴だわ。ウチにも同じようなのがある」

「何、婚約でもしたの?」

「なわけ。もっと小さい、それこそ幼稚園の頃とかならともかく、中一だぞ」


 中一ともなれば大体の人間が、夢を諦めた時のあの喉に残るような苦味を一度は経験している頃合いだ。大きくなったら結婚しようね、なんてのは、恥ずかしい、そう言って一蹴される妄言に成り下がっている。


「どうかなー。りっちゃんの方は、そのつもりだったかもしれないよ? そういう素振りを見せなかったってだけでさ」


 でも確かに、表面上は捨てたように見えても、心のどこかに燻ぶり続けるものもある。


「やっぱ俺のせい、か?」

「まー、愛の為せる業ってことだね」

「いや、それは全然ちげーよ。テキトー言い過ぎだろ」

「でも実際、三澄と喧嘩して、口も利かなくなったのをりっちゃんはずっと引きずり続けたから、精神的に参っちゃったんでしょ? めちゃめちゃ好かれてんじゃん。愛されてんじゃーん」

「……」

「え、なんか嫌そう」

「嫌なわけじゃない。お前の言い方が腹立つだけだ」

「ごめんて」


 そうは言ったものの、負担に感じていることは事実。目下最大の懸案事項を、若菜の件と律の件のどちらに設定したらいいのか。三澄のキャパは、両方抱えられるほど大きくはない。


「でもまあ、ちょーっと重いかもね」

「重いとも、別に感じてない」

「あんまり責任感じない方がいいよ? ……まあ、部外者の私があんまり言えたことじゃないけどさ」


 へへ、と寂しさを堪えて見送りをする子どもみたいな顔で美月が笑う。

 本人には勿論言わないが、実際、美月にはかなり世話になっている。そんな彼女を部外者だと言って遠ざけるのは、少し薄情だろう。……本人には勿論言わないが。


「部外者にしては、結構引っ掻き回してくれてね?」

「あ、あっれー? そうだったかなー、覚えてないなー」

「おお、そっかー、火曜の件をもう忘れたかー。…………コノヤロウ」


 下手くそな惚け方をした美月の両頬をぐにりと引っ張る。


「ひょっ、おめん、おめんっえ! おぼええる、おぼええるあら!」

「うん、何言ってるか分かんね」


 多分謝っているんだろうが、分からないということにしておく。


「みうみぃぃぃ! おめんっえぇぇぇ~~~~~~!」


 三澄の腕を叩いてギブアップの意を示す美月に構わず、しっかり赤く腫らしてやった。

 後悔は一切なかった。

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